Category: Cities
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Moments 18: 22時の散歩
“What a Difference a Day Makes” by Julie London 恋の行方は、22時の散歩次第。 空を見上げても星も見えないマンハッタン、22時。 ぽつりぽつりと人影が消え、静かになった通りを秋風に吹かれて歩く。 昼間は目にも留まらない店のショーウィンドウ。 暗い壁に浮かび上がり、二人は足を止めて奥を眺める。 彼女が言う、「気付かなかったね、このディスプレイはいつまでかしら」 彼が言う、「じゃあ、また来て確かめてみる?」 翌日も1週間後も22時、二人はまたここに来る。 彼女が言う、「サンクスギビングのデコレーションはいつ頃かしら」 彼が言う、「11月になったらすぐじゃない?来てみれば分かるよ」 その年のクリスマス。 彼女が言う、「来年の今頃もこの店はあるかしら」 彼が言う、「じゃあ来年の今日も来てみよう、一緒に」 口には出さないが二人は思う、この店がなくなったら僕たちは、私たちは。 けれど22時のニューヨークには見えている。 翌年のこの店のホリデイデコレーションと、雪で頭が真っ白の、二人の姿。 10年後の今夜、5歳の娘を真ん中にこの店の前で足を止める二人の笑顔。
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カウガールは甘くない:Being a Cowgirl is Hard to Do
“Red Neck Woman” by Gretchen Wilson ある夏、ダラスに住む友人カール、モニカ夫妻をいつものように車で各地を旅しながら10日をかけて訪れた。 テキサスは私たちの宿敵であるが(テキサス恐怖症~Texasphobia参照)学生時代からの仲であるこの二人が私は大好きで、テキサスが近付くにつれファイトモードになりつつも楽しみでならなかった。 広大なテキサスらしい大きな屋敷に滞在中、彼等はカウボーイの町、フォートワース・ストックヤーズ (Fort Worth Stockyards) を案内してくれた。 ここは1866年以降家畜のせり市として名を馳せ、1976年国立指定歴史地域となった町。現在せりは行われておらず、昔らしさもどの程度残っているか定かではないが、カウボーイ・カウガールのパレードやロデオなどウェスタンの世界を満喫できる有名な観光名所である。 道行くリトル・カウガールに目が留まる。こういう風情が日本にもあれば国全体の文化的ブランド力が随分と上がるであろうにと思う。 遠目で申し訳ないのだが、生まれて初めて見るカウガールはキラキラと眩しいほどに美しく、まるで馬を操る生けるBarbieという感じだ。 あ、ほんとにそっくり。 私たちが見たのは彼等の息子が楽しめるファミリー向けのショーで、カウガールのマーチやロデオ、子供の牛追いならぬポニー追いなどほがらかなアトラクションばかりでとても楽しかったのであるが、私の目はとにかくカウガールたちに釘付けで、あることが頭に浮かび最後はショーを見るよりぼや~んと考え事をしていた。 ショーの後、カウガール・ミュージアムを見て廻りながらますますその世界に引き込まれた。そして「私はこれに、2,3日なれないか」というオコガマシイにも程がある図々しい欲が頭をもたげ始め、となったら本能先行型であるので早速館内案内をしていた女性に尋ねてみた。 「カウガールになるには、どうしたらいいの?」 彼女は実に誠実に、私の子供染みた疑問に答えてくれた。 カウガールになる最低条件は、 1.カウボーイ・カウガールとテキサスの歴史を学ぶ 2.これを天職と思えるか何度も自分自身に問いかける 3.カウガールらしい身なりをする 4.何度も牧場を訪れる 5.カウガールの仕事を知る(馬に乗り、牛を追う。家畜の世話など) なるほど「学ぶ」に関しては抵抗はないし、カウガールのアウトフィットはかわいいから文句なし。馬術経験者なので馬に乗るのも問題はない。やりたいことがあれば住む場所などどこでも良いし、テキサスなら敵陣に乗り込むようなものだ、行ってやろうじゃないのってくらいである。けれど威勢の良いのはここまでであった。 2、4、5で私は振り落とされることになる。 問題は、牛だ。 カウガールのカウ (cow)、は「牛」である。ゆえに牛の世話は欠かせない。あああ。 「カウガールになるかどうかは懸命に牧場で牛の世話をしてからの話よ、一日中きれいにしていられるとは冗談にも言えない仕事だから」と言い「彼女たちの服装にしても機能性重視であっておしゃれという認識は半分以下ね」と続けた。 彼女の言葉でテンションは8割方落ちた。 さらに「あ、そういえば」ふと思い出したくもないことを思い返してしまった。9歳の時、キャンプの朝牛舎の2階から干し草を落とす手伝いをしていた際干し草に足を滑らせ、穴から牛の背中目がけて落っこちたことを。その際あの牛舌で頭をベロリと舐められ、以来牛が強いトラウマになったことも。 おまけに重労働を強いられるカウガール、血の滴るようなこんな肉だって食べられなければやっていかれない。しかしこのステーキはもう凡人の許容範囲を優に超えている。 恐るべしテキサス。ムリムリ、私には絶対に無理。第一、書く仕事を諦められるのかというと、やっぱり無理だ。 情けない目で夫を見ると「あたりまえじゃん」と言いた気に口元でせせら笑っている。 無念だ、今回もテキサスに完敗である。カウガールの夢は、奇しくも修行どころか憧れの入口でその日のうちに萎え消えた。 帰路、カウガールになろうという女性たちはどういう夢を持ってその道へ赴くのかずっと考えていた。クールな人生の構築か、歴史・文化継承の担い手か、あるいはファミリービジネスか。結局私のような軟弱な女には想像もつかなかったが、ひとつだけ確実に感じ取ったことが大きな収穫となった。 Being a cowgirl is one big commitment. とてつもなく大きな決断だ。カウボーイ、カウガールには日本の武士道に似たハードボイルドなところがあると思うのだ。生半可な気持ちでは続けることどころか入り込むことさえできない。そして楽しむことは大切であるがそれ以前に、常に冷静に、ひたむきに従事するという固い決意がなければ結実しない生き方なのだというものだ。 この日出会ったカウガールたちもきっと、可憐でプレザントなだけでなく、気骨のある内面を持ちハンサムに生きているんだろうな。 とても適わない。大した取り柄もない我が身をちっぽけだ、不器用だと苦々しく見つめ直すも「彼女たちの気骨を身につけよう」という目標を得て、最後には満たされた気分でフォートワースを後にした。 ◆ 余談であるが、その年の10月、モニカから荷物が届いた。中にはカウガールのコスチュームが入っており、カードには「夢を叶えてね」と書かれてあった。 友の小さな夢を実現させようという温かい友情に思わず衣装を抱きしめた。にもかかわらず最後の「それを着てOTB(場外馬券売り場)へ行かれたら20ドルあげるよ~」というところを読むなり真意を測りきれなくなるケイティであった。…
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New Yorkの背筋は永遠なり:Undying and Stronger
あの日のことは決して忘れないし、話したいことも数限りない。けれどどのように話せばよいのか、悲しみか、怒りか、恐怖か、ただ複雑な思いが溢れるだけで16年経った今日も私にはよく分からない、ただひとつを除いては。 ◆ 大学時代、ダウンタウンへ研修に行った折恩師がワールドトレードセンターの麓から空高く聳え立つツインタワーを指差し「ニューヨークの背筋」と呼んだ。 私はこの言葉がとても好きになり、当時ワールドトレードセンターに用事ができるとそこで会った人に必ず話して聞かせ、彼等は口を揃えて「ここで働けることを誇りに思う」と言った。彼等の中には16年前の今日、命を落とした人もいる。 世界経済の道標、ニューヨークの誇りであった2本の巨塔は卑劣な手段で倒され、家族や友人たちにとっても、また国にとっても世界にとっても大切な命が奪われた。 ペンタゴンの事件でも私は友人を失ったが、私の人生を豊かにしてくれた人たちが一瞬にしていなくなる恐怖と憎しみは、今も消えることがない。 けれどもニューヨークは悲嘆に暮れることなく苦難を希望に変え、さらに強く不死身となるべく新しいワールドトレードセンターを築いている。 事件の3ヶ月後、ニュージャージーからニューヨークの家へ帰る途中、当たり前に見ていたワールドトレードセンターがなくなったことを目の当たりにし、なぜだかその時「ぜったいに負けない」と漠然と呟いたのを思い出した。 ◆ 昨日、ヒストリーチャンネルでSeptember 11th の特集を見ていたら、あの事件で家族を失くしたという男性がこう言った。 「明日の今頃死んでいるのなら、せめて今日は幸せでいたい」 これは彼の懇願などではなく意志の強さであり、こうした思いがニューヨークを悲しみの淵から救ったのだろうと私は思った。 ◆ 私たちは、明日を知らずとも戦わずして今日、勝者でいよう。不変且つ最強の勝者とは、平和な社会の中で潔く生きて行く姿に他ならない。 今を思い残すことなく懸命に生き、国を守ってくれる人たちに感謝し、明日も明後日も、10年後もこの幸せが続いていることを願うのではなくその実現に努め、誰もが平等に持つ命と幸せの権利を侵そうとする悪に屈せず果敢に歩いていくことを、今日も私たちの姿勢を正してくれる「ニューヨークの背筋」とそこで犠牲となった多くの命に誓う。
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September: Freshly-Brewed Santa Fe Morning
“Love Has Fallen on Me” by Rotary Connection サンタ・フェは広いアメリカの中で最も好きな町のひとつ。歴史、文化、風俗。どれをとっても魅力に溢れ、訪れるたび新しい何かを与え、感じさせてくれる。 朝が大好きだ。いや夜遊びレンジャーだからミッドナイトもたまらないが、普段どんなに仕事が忙しくて夜更かしをしても朝はぱっと目が覚めて晴れだろうと雨だろうと、その朝のムードをからだいっぱいに取り込むことにしている。 サンタ・フェの朝は、淹れたてのアイスティーのように爽やかで、そしてコクがある。 特に9月は真夏の暑さが和らいで、朝はもともと涼しい町だが日が高くなっても午前中は清々しい、気がつけば太陽の下を歩いていると言っても過言ではないほどに。都会の公園を歩くのとはまったく違った、ふれあいの多い散歩。これが「コク」の部分。 そしてこの町の朝を歩くと、 “One day in September love came tumbling down on me ~” サイケデリック・ソウルなど歌ってしまう。道路を行き交う車にも道行く人にも慌ただしさなど少しもなく穏やかだが、爽やかな風に心がエナジェティックになるのだろう。 そう、誰かと巡り合って心に恋が生まれた時のような新鮮な驚きや喜びに似ている。 サンタ・フェに来たら朝は必ず散歩をする。当てもなく歩きながらネイティブ・アメリカンのバザーを覗いたり、アートの町にふさわしい色とりどりのハンドメイド雑貨の店に立ち寄るのも私たちの決まり。無造作に飾られたものたちには深い民族性に起因した迫力があり、手に取らずとも心が引き込まれる。 ナバホ族など、ニューメキシコ州はネイティブ・アメリカンの居住地としても知られるが、町には彼等の文化や信仰が息づいており、人の手によって作られたものにも彼等の魂が吹き込まれている。眺めて、触って、身につけて初めて彼等に出会えるような気がする。 そしてカラフルな手作り工芸品はどれも眩しい朝の太陽によく映える。 サンタ・フェを代表する観光スポット、本当は観光スポットなどというフラットな表現はしたくないくらい豊かな芸術に満たされたCanyon Roadは1.7kmにわたるギャラリーストリート。画廊の多くが庭を持ち、ブロンズ彫刻やクラフトアートなどが設えられている。 少しずつ日が高くなってきて9月とは言え「暑いな」と思ったら木陰を選んで歩く。日なたとの気温差も、新しくやってきた秋風もすっきりと心地良い。 街角のレストランでブランチを食べたらしばらく二人で旅の話でもして、午後になったらまた歩く。思い出づくりなんて忘れて、ただひたすらに今日の気分が向かう方へ、またRotary Connection でも歌いながら。
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Moments 15: Hocus Pocus in POTUS’s Umbilicus
“You Can’t Stop the Rain” by Loose Ends とても褒められた話ではないのであるが、私たち夫婦、正直に申せば常習的夜遊び隊、ニューヨーク近郊のカジノホテルではちょっと顔を覚えられた存在で、カードゲームの腕前にもそこそこ自信がある。 折に触れカジノの話をすることになるであろうが、今夜に限ってこんなことを思い出したのは、夕方外に出た時に感じた雨のにおいがあの夜と同じだったから。 ◆ 現在のアメリカ大統領、ドナルド・トランプ所有のカジノホテル “Taj Mahal” は行きつけのひとつで、ニュージャージー州アトランティック・シティーのカジノ群へ行くと、だいたい深夜2時から2時半頃別のカジノから移って夜明けまでここで遊び宿泊するというのが決まったルートであったのだが、この夜は遅くになって雨が強くなり、早くからTaj にいた。 確か深夜1時になろうという時だったかと思う。そろそろ場がまとまってテーブルの集中力が高まって来た頃、ひとり負けが続いていた壮年男性が席を離れると後ろでビアを片手に見物していた見た目30代前半の男性が席に着いた。イタリア系だったろうか、この男、最初から妙なムードを持っていた。 場を乱す素質を持っていたというのか、テーブルで遊んでいたプレーヤーは全員感じ取っていたはずだ。遊び方の悪さも際立ち、わざと彼に目をやらない人もいればまじまじと睨むように見る人もいた。 (これは自宅の娯楽用BJテーブルでカジノ内部の写真撮影は禁止されています。) 最初から2,3のラウンドはおとなしくしていた男が、次のシャッフルからその邪悪な正体を見せるのだった。 ディーラーが彼の前にカードをセットするたび「トゥーンヌッ」と鼻先から抜けるような声(本当は「音」と言いたい、だって下から上へとしゃくりあげるようなヘンな声だったんだから)を上げたのだ。ギャンブルは当然ながらお金を賭けているわけなので、不審な所作や言動があれば見張り役のピットボスと言われるスタッフに睨まれ、最悪セキュリティが来てどこぞへ連行される。途端にテーブルの空気がピリピリと張り詰める。 皆の不安は的中、「トゥーンヌッ」でテーブルの空気は乱れ始め、男が入ってくるまではプレーヤー優勢で進んでいたゲームが一転、男のひとり勝ちという無情な事態を引き起こした。彼は酒に酔っており、へらへらと笑いながらふざけていた。 本気で遊んでいる、という言い方はカジノ経験者ならではの感覚だが、賞金稼ぎさながらの真剣勝負に挑んでいる男たちも大勢いるわけだ。1回に1万ドル以上(約100万円) をベットするプレーヤーも珍しくない。私の右横にいた中国系の男性は、それまではブラックチップ(1枚100ドル)とオレンジチップ(1枚1000ドル)を何本も高く積み上げていたが、男が来るなり殆どを失った。私たちも、私たちにとってはかなりの額を負けた。 次のラウンドからピットボスがテーブル前に着いた。おそらく男に対する何らかの指示が内部からあったのだろう。迷惑になるから奇声を上げるなと生真面目な顔で男に告げたがやはり男はへらへらと笑い、トゥーンヌッを続け、耐えきれなくなった私たちを含むプレーヤー全員が席を立つなりセキュリティが2人やって来て、男はテーブルから連れ出されると人ごみに消えた。 場に平和は再来したものの、一度乱れた気はなかなか浄化されない。誰もあのテーブルに戻ることはなく、私たちも残りのチップを換金してカジノを離れた。 「もう今夜は部屋に戻ろうか」「あいつめ~」二人で話しながら、良い運を吸い尽くされたようで遊びを続ける気分にはなれず、頭でも冷やすかと外に出た。 雨は止んでいたが、ひんやりと潤った空気は雨のにおいを含み、これがいっそう私を憂鬱にした。そして驚いたことに、普段ならいくら深夜の雨上がりとは言え一人として歩いていないなどということは考えられないボードウォークに見事に人影がなく、ただネオンを映してそれを美しいと思うも、それより何より「景気が悪い眺め」としか解釈できず、眠ることのないアトランティック・シティーで有り得ないほど早くホテルルームに戻ったのだった。 ◆ それにしてもまさか世界中が注目した不動産王が大統領になろうとは、あの夜Taj で遊んでいた人たちの誰が思っただろう。個人的には今の彼よりも大富豪という姿で全米のギャンブラーたちを手のひらの上で遊ばせている方が、ずっとかっこよかったのにと思うのだが。
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時を脱ぐ~Leave the Time Behind
“Crazy You” by Zo! feat. Sy Smith 水平線に紅く大きな太陽がゆっくりと落ちていくのをビーチに座って眺めながら、「今何時かな」「このあとはどこへ行く?」何のあてもなく隣に座る愛しい人と風の吹く方向へ流されていくような、そんな夏を探しに出かけよう、腕時計はデスクに置いて。 アメリカ最古のシーサイド・リゾートは訪れる人の平均年齢が60代?70代?と思えるほどに落ち着いた海辺の町。サーフィンやヨットよりも波打ち際を犬を走らせ散歩する人が似合う、大人の夏を過ごす場所。 ニューヨークの家を朝6時に出発してゆっくりとNew Jersey Turnpike を下って行き、11時前には全米トップ10ビーチにも選ばれたことのあるニュージャージー州最南端、ケープ・メイの美しい浜辺が見えてきた。 「ビクトリアンスタイル・ジンジャーブレッドハウス」が軒を連ね、歴史と異国文化を感じさせるこの風景に誰もが心を奪われる。ヴィンテージの絵本を開いたような美しい街並み。 宿は1867年に建てられたビクトリアンスタイルのB&B。老夫婦の経営で、ハイシーズンだと言うのに一歩足を踏み入れると人影もなく、波の音も聞こえない。遠い昔に来たような、突然知らない国を訪れたような、とても家から4時間の距離とは思えない驚きとせつなさを帯びたディスタンスを覚える。 「この時間は、やっぱりゲストはここにいないのね」オーナーに尋ねると、 「そうね、馬車に乗って街を廻ったりワイナリーに行ったり、ここは見かけよりアトラクションがあるのよ。あなたたちはまだ若いから、自転車でツアーするといいわ」過剰なアクションもなくさらりとした、けれども正直な瞳で語る彼女を私はとても気に入った。ここでの1週間はきっと良い思い出になる。 予約しておいた部屋に通されると時計も、テレビも電話もない。飛び乗らなければ横になれないほど背の高いベッド、広くてゆったりと海を眺められるバルコニー、そして夜風に当たらずとも漆黒の海をいつまでも眺めていられるサンルームのついた贅沢な空間は、私たちを秒針の響かない自由な世界へと連れ出してくれた。 いつしか昼下がり。ランチに出ようと言いながら、バルコニーのチェアに腰を沈めると急にまぶたが重くなって、うたた寝。規則的にやって来る波や馬車馬のポクポクという蹄の音が運ばれ、その心地良さにもうここを動けない。 次に目が覚めたのは首元がひんやりと冷たくなったのを感じた時。日はだいぶ傾いていた。 裏のアートギャラリーやギフトショップを少し見て、明日はゆっくりウィンドーショッピングをしようと決めてから海に戻ってきた。 広い広い砂浜は繊細な白い砂。素足で歩くともうだいぶ冷たい。ロングドライブで今日は疲れたし、二人ビーチに腰を下ろして、手ですくった砂を足先にこぼしながら話をした。 砂の中から、角が取れてまるくなったグラスボトルか何かの破片を見つけた。手に取ると、直径1cmほどの小さい石のような、涙のかたまりのようなもの。そこに通りかかった老人が手のひらの破片を見て言った。 「よかったね、Cape May ダイアモンドだ」 この町では、海を旅して戻ってきたまるいガラスの欠片をこう呼んだ。 人気もまばらになったビーチにもうすぐ日が落ちる。 淡いイエローの大きな太陽は大西洋の空気をたっぷり含んで潤んで見えた。周囲を黄金色に、オレンジ色に、やがて群青が差し始める空は色彩で時を刻み、それを見届けた人々は宿へ、バーへと散って行った。 「今何時ごろかな」「まだトワイライトアワーではないね」 そもそもtwilight hour とは何時から何時を指すのだろう、dusk とはどの程度暗くなるまでを言うのだろう。普段なら大して面白いと思えることでもないこんな話も、分刻みの暮らしを脱ぎ捨てると興味深く感じられてくる。 日本語でdusk は「薄暮(はくぼ)」と言うことを、ニューヨークに戻ってから調べて知った。情景が目の前に広がるような、良い言葉だ。 そうして海から寄せるやや強い風は私たちをコテージへと帰らせた。 「ディナーは軽く飲みながら」。シャワーを浴びて、夏の夜風をよく通すインド綿のドレスに、彼はリネンのボタンダウンに着替えると再び外に出た。 午後6時55分。この町の小さなアーケードで今日初めて時計を見る。 腕時計を外して初めて分かった。私たちは、ベッドに入る時間さえも時に支配されていたことを。仕事をするようになってから、「眠いな、そろそろ寝よう」を理由に寝室に入ったことなど一度もなくなっていた。余裕。この言葉さえ忘れそうだった。 そう彼に伝えると「どうやら野生に目覚めてしまったようだな」と笑った。なるほど、それもおもしろい。これからは本能に任せて生きてみるとしようか。 さし当たって明日、海が朝日に輝き始める頃、海岸線の長い道のりを思いのままにどこまでも自転車で走ろう。 CapeMay.com
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Moments 12: NOLAholic Amnesia
“Tipitina” by Professor Longhair 恥ずかしげもなく言ってしまうが、ニューオーリーンズに滞在中しらふでいる時間はおそらく殆どない。朝はさすがにミネラルウォーターやアイスティーで始めるものの、日中35℃を超える炎天下、20分散歩してはバーに入って冷たいベリーニを飲み干し、また15分歩いては別のバーに吸い込まれ、今では言葉にしにくくなったがキンキンに冷えた「ハリケーン」を頼む。酔いと頭痛とファジーな記憶は私の「ニューオーリンズ3大症状」である。 その日も午前中から飲み始め、午後になると身体を突きぬけるほどに強い日差しと頭痛に意識が薄れてホテルに帰り、エアコンをMAXにして昼寝をすると、次に寒くて目が覚めたのは午前1時前。この町はここから始まる。そろそろ起きるか。 夜が更けるにつれ、片手にビアやカクテルの入ったプラスティックカップを持ち大声で会話する人たちが通りを埋め尽くしていく。 熱いシャワーを浴びても酔いが醒めた感覚はない。のどが渇き空腹も感じて、私以上に苦しんだ夫と二人、「今夜は止めておくか」と一夜の酒断ちを決意してホテルを出たはずなのに、夜空の星もかすむ通りのネオンを目にするなり記憶の彼方へと飛んでいく。 「おなかすいたね」どちらからともなく言って、さして気に入ったわけでもない小さなバーのエントランスをくぐる。 カウンターのストゥールに座ると、バーボンソーダとガンボを注文して奥でコピーバンドの演奏するプロフェッサー・ロングヘアーに耳を傾けた。 今夜も朝まで飲む。私たちはおそらく「ニューオーリーンズ性健忘症」だ。
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旭川のいなせな夏。永山屯田まつり2017
日本各地、夏祭り真っ盛り。北海道も毎週末どこかしらで花火大会同様大小さまざまな夏祭りが開催されている。 旭川も、来月3~5日の「旭川夏まつり」に先駆けて29、30日と「永山屯田まつり」が開かれた。毎年最も楽しみにしているイベントのひとつだ。 旭川夏まつりには規模も内容も到底かないっこないわけだが、こんなに粋でカッコイイ祭りはないと、おそらく殆どの地元住民が思っているに違いない。私などは5月になり、風が柔らかくなり始め窓を開けられるようになると夜毎聞こえるお囃子の練習に早くもソワソワし始める。 永山屯田まつりは今回が31回目。旭川が発展するにつれ住民のライフスタイルが変わると地域のコミュニケーションが希薄になった。これを憂いた市民委員会、商業団体、農業団体が住民のための「手作りの祭り」をつくろうと1984年に誕生させたのがこの祭りと言う。 祭りを最高に盛り上げるのは30~40に及ぶとも言われる山車のパレード「屯山(みやま)あんどん流し」だ。当日夕方になると、これを見る為に近隣住民は沿道に集まる。デッキチェアをセットしたり、中には家の玄関先でジンギスカンパーティー(地元では「ジンパ」と呼ぶ)をしながら楽しむ人たちもいる。 静かな住宅街での催しものであるため道路もそう広くはなく、行燈は少しずつ間隔を置いてゆっくりと通り過ぎていく。お囃子と掛け声に、小さな子供は一緒に叫び、踊る。子供の声、人々の笑顔、歓喜の踊り。ここには平和が凝縮されているなとつくづく思う。 あんどん流しの主役は、道内最大級の和太鼓「永山屯田太鼓」。サラシを巻いたうら若き乙女が2人1組で意外にも淡々と打ち鳴らす姿は圧巻、そして何ともいなせだ。「いなせ」という言葉は主に江戸っ子の男性に対して使うものらしいが、なんのなんの、旭川の女たちの雄姿こそ「いなせ」という言葉がぴったりである。 あ、もちろん男性陣も。荒々しく逞しい姿は祭りの花だ。 あんどん流しのアイドル、とは私が勝手に言っているだけであるが、毎年楽しみにしている旭川農業高校の行燈。目が赤く光り、首が動いたり口から煙を吐くこともある。 躍動感のあるとても美しい行燈。この高校は生産物の販売など、地域への貢献度も高い。 こんなアクロバティックな行燈もある。2時間にわたる屯山あんどん流しはずっと立って見ていても飽きることもなく、気分が高潮しているから疲れも感じない。あとになって「こ、腰が・・・」ということにはなるのだが。 後先になったが、あんどん流しのトップを切ったのは永山小学校。見ていてとても微笑ましく、掛け声もかわいい。 交差する行燈に沿道の観客の心も躍る。こうして行燈は行き過ぎ、最後は「おまつり広場」に集結して最後の盛り上がりを見せ、フィナーレを迎える。 おまつり広場では、すべての行燈が輪になるように集まり、しばしそれぞれに乱舞する。訪れた私たちも大きな掛け声に続き、屯田まつりの最後を共に飾る。 今年は2日間天候に恵まれ、涼しさも助けになったか夜にも関わらず多くの地元住民や観光客で大いに賑わった。やはりとてもよい祭りだ。私はそのうちニューヨークへ帰っていく身であるが、屯田まつりのあとは必ず「老後もここにいようか」と考える。冬の寒さは厳しくとも、穏やかに楽しく暮らせる旭川が好きで好きでたまらない。 ◆ 夜が更けて今、東の窓からひんやりとした風が舞い込んだ。誰もが感じる祭りのあとの寂寥感がせつなくもあり、心地良くもある。 こうして無事に屯田まつりが終わり、来週の夏祭りが終わりお盆が明けるころ、道北旭川には秋風が吹き始める。
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The Cobaltest Blue ~ サンタ・フェの青い空
“Pretty World” by Sergio Mendes & Brazil ’66 ニューメキシコ州サンタ・フェは私が最も好きな町のひとつ。訪れるたびに思うのが「なぜこの町の空はここまでコバルトブルーなのか」。 全米多くの町を旅してきたが、一瞬2次元に入り込んでしまったのではないかと思うほどに絵画のような美しさで、気が付くと空を見上げている。一日の終わりに首が痛いなと思うのはおそらくこれが原因だ。 ネイティブ・アメリカンの伝説が多く残るニューメキシコ。彼等が「地球を包む美しき青空」を象徴し聖なる神の石として珍重してきたターコイズ、ジュエリーや窓枠のペイントなどに使われているのを見かけるが、ここを訪れたら実際の空の色も忘れずに眺めてほしい。 どこまでも青の美しい町なのだ。 サンタ・フェのキャニオン・ロードは長さ1.5kmの1本道に200以上のギャラリーやアート・スタジオが軒を連ねアートの聖地としても知られるが、その道を歩きながら両手でフレームをかたどりその中に空と家々を収めてみると、美しい絵画の完成だ。 散歩をしながら自然の芸術を楽しめるのもこの町が誇る特徴のひとつ。 ここに載せた写真はすべて、別の日に撮影したものだ。朝を選んでいることもあるが、遠く宇宙まで突き抜けるような青は奥深く、無限、永遠を感じさせる。 乾いた風を受けて空を眺め立ち尽くしていると、その壮大さに目眩すら覚える。 ここに暮らす人々はきっと、毎日朝が訪れるのを楽しみにしていることだろう。カーテンを開いて、真っ先に目に入る青空はその日一日の完璧なスターターになるはずだ。 サンタ・フェの青空は、世界一のコバルトブルー。The cobaltest blueである。
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Old Pic & Car Radio
“Love Over and Over Again” by Switch ニューヨークの家から持ってきた古い写真を整理していたら、中から自分でも驚くほどに昔のものが顔をのぞかせた。 それはブルックリンから撮ったマンハッタンの写真で、確か夜10時ごろではなかったかと思う。この時私の左隣りには背の高いハンサムな男の子がいて、NBAのチケット欲しさに二人で献血に行った話やら、週末一緒に行くNFLゲームの予定やら、互いの過去の話やら、ニューヨーカーにありがちな、NYのどこが好きかという他愛もない話もただ楽しくしていた。 けれどこの時、彼と私の間には友情とは違う空気が、確かに漂っていた。私は彼の軽快なおしゃべりを聞きながらウィットに富んだスマートな語り口調に夢中になっていたはずだし、少しビターな瞳もじっと見つめていたに違いない。そしてこの懐かしい夜景は二人を予感という名の空気で包んでいたのだと、今だから言える。 マンハッタンへ戻る途中も二人の会話は続いていたが、カーラジオからこの曲が流れてくると、途中で言葉が途切れた。Queensboro Bridge の中央に差し掛かった頃、迫りくる摩天楼を眺めながらこの歌を聴き、私は何となく、彼と恋をするのだろうなとこの時思った。 ◆ それから20年が過ぎた今、彼は隣の部屋で深夜2時、無邪気にもゴルフ観戦にエキサイトしている。こんな彼と私があるのは、あの日の夜景とこの歌、小さな思い出が積み重なったからなのだと妻がひとり感傷に浸り幸せを噛み締めているというのに。 ◆ 恋は、始まる少し前が一番素敵だ。友達と恋人の境に苦しみ、二人でいると帰り道がせつなくなり、明日の私たち、あさっての私たちを期待したくなる。 今夜は久し振りに懐かしい写真と再会しこの曲を聴いて、あの頃始まったばかりの恋心が胸に戻ってきたような気分。いい夜だ。 ・・・しかし、夫の熱の入れよう。”Keep it down” ひとこと言ってこよう。
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Photograph
“Photograph” by Nickelback This is a little story that actually happened during our journey from home in New York to Los Angeles; about the fleeting friendship among me, my husband and this guy named Joe met at an auto repair shop in New Mexico and also about a picture disappeared a year later from the bar…
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Signs #1: Heartbreak Hotel
“Heartbreak Hotel” by Elvis Presley 旅先で、また暮らしの中でもふと目につく看板やシンボルがある。それは特別私に関わりのあるものでなくてもどこか気になり、好きになり、「あのサインを見ると心が晴れる」「この看板の下に立つとイヤなことを忘れられる」そんなふうにいつしか心のお守りになっていたりすることもある。 本当のことを言えば、特別エルヴィスが好きだというわけでもない。けれどアメリカにいる限りこの人の存在を100%スルーして生きるなどできないのだから、やはりKingと言われるだけの存在なのだ。 そして「特別好きでもない」とか言いながら彼の歌なら何曲でも歌えるし、メンフィスを訪れるたびやっぱりGracelandに立ち寄ってしまうし、エルヴィスの好物だったというバナナプディングだって作れちゃうのだから、調子の良いことに実はけっこう好きだったりするのかもしれない。 Elvisの名曲 “Heartbreak Hotel”は、こんな歌。 Well, since my baby left me / かわいいあの子が僕のもとを去ってから I found a new place to dwell / 新しい住処を見つけたんだ Well, it’s down at the end of Lonely Street / ロンリー・ストリートの突き当たり At Heartbreak Hotel / ハートブレイク・ホテルさ Where I’ll be, I’ll be so lonely baby / 寂しいよ、寂しくてたまらない…