Category: Cities
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Street Tales #1: Beale Street
“All Your Love” by John Mayall & The Bluesbreakers w/ Eric Clapton(1966) 1990年代初頭だからかれこれもう30年近くも前の、我が夫Mattの話。 当時グリニッチ・ヴィレッジにThe Bottom Lineというヴェニューがあって彼も私もよく足を運んだ。残念ながら2004年に30年の歴史を閉じたのだが、実に多くのミュージックシーンがそこで生まれ、今も語り継がれている。 authorized by WNYC 確か、今日のように暑い日の午後。Mattがひとりワシントン・スクエアを歩いていると、彼の着ているTシャツを指差して見覚えのない男性が近付いてくる。そして、 「おお、それうちの店だよ」さらに、 「気に入った。今夜ボトムラインで友達が演奏するからおいでよ」 黒いTシャツには白字で “Rum Boogie Cafe” というロゴが入っており、着ている本人はその店で買ってきたわけでも、また別段何を意識して着ていたわけでもなかったものだからただ驚き、彼の差し出すチケットを言われるままに受け取った。 その日の夕方ボトムラインへ行くと、昼間会った自称「Rum Boogie Cafeのオーナー」は店の奥で誰かと話をしていたが視線が合ったので手をあげて礼を言うと彼も笑顔で手を振った。 彼の言っていた「友達」がブルース・ロックのレジェンド John Mayallだと知って、Mattは街角に転がっていた幸運を拾ったような夢心地で演奏を楽しんだと言う。 その話はここでおしまいなのであるが、数年後、旅行中メンフィスに立ち寄った時、黒に白字で店のロゴが入ったTシャツを思い出してBeale Streetを歩きながら当時の夫の話を聞いていると、 「あ、ここだ」 Rum Boogie Cafeは、トワイライト・アワーにネオンが美しく映える、居心地の良いブルース・バーだった。 実のところ、夫はその男性の言うことを話半分に聞いていたと言う。ニューヨークには人の数だけ思いもよらないおかしな出会いもあるものだから。 けれど結果的には嬉しいかたちで予想を裏切られ、普段は冷静でシニカルな夫も素直に興奮していた。そして長い時を経てボトムラインの思い出と再会したことを、彼は大いに喜んだ。 Time goes by. Life goes on. 時間とともに街は変わる。けれど心の中にある青春時代の風景は、決して色褪せ消えゆくことはない。 Rum Boogie Cafe John Mayall…
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テキサス恐怖症 ~ Texasphobia
“Why Can’t We Be Friends” by WAR 北米大陸横断決行中、何度となく訪れる「中だるみ」。前回アリゾナで「中だるみNo.8」に襲われた話をしたが、あんなの実は、かわいいものなのである。 ニューヨークからロスアンジェルスまでの旅で最も長くツライ中だるみをお見舞いしてくれるのが、696.241k㎡の広大な面積を誇る私たちの宿敵、テキサス州である。 総面積83.425k㎡の我が北海道と比べると、「でっかいどう・ほっかいどう」なはずの北海道が8個すっぽり入ってしまう大きさということになり、計算してみて驚きを新たにした。 テキサスの旅はヒューストンから始まり、途中ダラス近郊の友人宅で優雅な2泊を過ごさせてもらった後再び走り始めた。 大王テキサス、悪いことばかりではない。その広大な土地を、渋滞や信号に止められることもなくただひたすら走り続けるのは快感であり、地球を手に入れたようで気持ちも大きくなるものだ。 「ここで油田でも探すか」「来年の今頃は石油王だ」 NYに帰れば思い出しもしないこんなことを言ってみちゃったりもする。 そしてテキサスはホームに誇りを持っているなと思う。ファーストフードのデイリー・クイーンに立ち寄ると、どこにでもあるデイリー・クイーンではなく明らかに「テキサスのデイリー・クイーン」を主張している。 ちなみにここでスナックタイムをとるのは2度めだったが、相変わらず客はいなかった。 カントリー・ライカーならちょっとダイニングルームに取り入れてみたくなるデザイン。 エキストラ・ラージのドリンクカップはお土産にもなるかわいらしさ。飲み終わった後レストルームできれいに洗い店から持ち出すも、次の州に入るなり「じゃまだ」と夫に捨てられてしまった。 私たち夫婦にはこうしたケースが多々ある。今も忘れられないのは私が自分で絵付けしたクリスマスのオーナメントボール。「また描けばいいでしょ」を理由にまとめて捨てられてしまったが、これだけは今も少々恨んでおるぞ、夫。 とは言え仲良し夫婦はここまでの旅のおさらいなど話しながらぐんぐん西へと進む。 特筆すべき風景などない為、途中小さな家や牧場のサインなど見ると安心する。何しろ平坦な土地は何マイル先まで見えているのか分からないが、途中ふと宇宙のどこか小さな星にとり残されたような気持ちになるのだ。 家も牧場もあっという間になくなって、青い空と緑の大地をただ駆け抜けていくだけだ。景色に疲れることなどあるはずもないとお思いかもしれないが、何時間走っても同じ場所にいるような錯覚は「つまらない」を飛び越えて恐怖感をもたらすものである。 「ねえ、大丈夫かしら、テキサスから出られるのかしら」 真剣に夫に尋ねると、安心させてくれればよいものを無情にも「実はちょっと不安」。 唯一の救いはこれ。テキサスを通り抜けるうち何度となく目にするパンプジャックは油井の掘削機。広大な農地や野原のみならずこれもまたテキサスを代表する光景。なかなか味がある。 パンプジャックに叫んでしまったりもする。どうせ通る車もないことだし、手なんか振ったりもしてしまう。することも話すこともないものだから、この頃には旅にありがちな大胆行動がおかしな方向へ傾いている。 「ありがとう、私たちの目の前に現れてくれて、ありがとう」 けれどもう、奇行さえも億劫になって、二人じっと前を見据え走るだけ。テキサスを侮っていた。と言うよりテキサスを避けて別の州を通り過ぎてくればよかったと猛省するのだった。 ラジオからWARの “Why Can’t We Be Friends” が流れてくる。まさにテキサスへ訴えかけたい歌である。歌詞の意味などおかまいなしに、会話を失った愚かな夫婦は大声を張り上げこの歌を合唱しながら暮れゆく夕陽に向かって走り続けた。 決してテキサスがフレンドリーでないということでなくこっちが精神崩壊を起こしかけているだけであるが、どこまで行っても同じ景色、どこまで走ってもニューメキシコまであと何マイル、なんて出てこないのだから仕方ない。 山もなく、小さな丘も川もなく、ただずーっと平地が広がっているだけのテキサス。この我慢比べ、とっくに私たちの負けは決まっていた。 テキサスは、直進する迷路だ。 日が暮れてもやっぱり同じ風景。ああもう耐えられない。とうとう私は、長時間愚痴も言わず運転し続けている夫へ決して言ってはいけない言葉を発してしまった。 「飽きた」 更に悪いことに、配慮のない妻はこのひと言を吐き捨てるなり、図々しくも寝落ちたのだった。 どこだったか、日記でも出してこなければ思い出すことができないが、おそらく小さな町のモーテルで1泊でもして翌朝またしばらく走ると、ようやく「ようこそニューメキシコへ」のサイン。テキサス滞在ほぼ4日。この時点で私はもうニューメキシコが大好きになっちゃった。 さすがの夫も「次はテキサス抜きね」。私は夫に握手を求め「ありがとうありがとう」と何度も言った。 さらばテキサス。もう当分おぬしに会うこともなかろうが、中だるみの苦しみと敗北感を忘れた頃、今度は何か強力なマンネリバスターを引っ提げて再度挑む。
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Moments 11: Happy 4th of July
7月4日は独立記念日 / Independence Day、アメリカは今日241歳になった。 ニューヨークの家にいると、この日はどこかしらのBBQパーティーに呼ばれて行くか、旅行先で花火を見るか、予定がなければ夫とマンハッタンか、あるいは自宅から近い港、ビーチ、ゴルフ場で催される花火大会に行く。地元の小さな花火大会も、退役軍人のカルテットによるジャズセッションなどがあったりして趣深く良いホリデイを過ごせるものだ。 旅行もアメリカ国内と決めている。国の誕生日に海外へ行く気にはなれず、特にこの日を目的にするならフィラデルフィアや首都ワシントンへと足が向く。 ここはアメリカ合衆国が誕生したフィラデルフィア市、インディペンデンス・ホール前モールのパビリオン。 独立戦争に勝利したアメリカの「自由の象徴」のひとつであるLiberty Bell(リバティ・ベル=自由の鐘)が、ガラスのケースに入れられることもなく、誰もが身近に感じられるよう展示されている。上部に刻まれているのは旧約聖書の言葉; 「全ての土地と全居住者に自由を宣言せよ」- レビ記 25:10 この鐘の前に立つたび、勝ち得たものが「自由」であることの真の意味と、人としての正しい生き方を考えさせられる。 この鐘はアメリカの大事を知らせる為にたびたび打ち鳴らされてきたが徐々に傷み始め、最後にその音が響いたのは1846年2月12日、アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの誕生日であったと言われている。 役目を終えたリバティ・ベルは、今のアメリカを一体どう見ているのだろう。 さて我が家であるが、独立記念日を自宅で過ごす場合のディナーが決まっている。 Philly Cheesesteak(フィリー・チーズステイク)。フィラデルフィア生まれの、あくまでもカジュアルでどこまでもアメリカなホーギースタイルのサンドウィッチである。ホーギーとは薄切り肉や野菜を長細いパンに挟んだサンドウィッチを言う。 レシピと言えるほどのものはなく、オニオン、マッシュルームと共に炒め塩コショウしただけの薄切り牛肉にチーズを乗せるだけ。パンはイタリアンロールなどがよいが都心でも見ることがなかったので、口当たりの軽いバタールなどを選ぶといい。この美味しさとアメリカへの想いを新たにする為、私たちは大好きなこのサンドウィッチを独立記念日のこの日にのみ食べることにしている。 Philly Cheesesteakが毎年夏を連れてくる。そして早速、道北旭川は明日以降3日間とても暑くなるようだ。 もうひとつ、外せないのがアメリカ国歌。The Best National Anthem Ever!! と言えるのが1991年のスーパーボウルでウィットニー・ヒューストンが歌ったこれ。試合前テレビの前でこの国歌を聞いた時は胸が震えた。そして私たちのNY Giants 優勝を確信したのだった。ちょうど湾岸戦争の最中でもあり、彼女の歌う国歌はより特別なものとなった。 We’ll miss you, Whitney, and Happy Birthday, America!! YouTube uploaded by CavBuffaloSoldier all photos by Katie Campbell / F.G.S.W.
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Reminiscence ~ 思い違いの贈りもの
“Nothing’s Gonna Change My Love for You by George Benson 人は思い出の多い時代に触れたものをいつまでも忘れないものだ。それが文学であったりファッションであったり。音楽や香りなどは特に深く心に刻まれる。 1980年代をハワイで過ごした。あの頃、MTVやラジオから流れた歌には今よりもっとメロディアスでストレートな純愛を歌ったものが多かったように思う。今日のこの歌も同様だ。 1985年にリリースされたジョージ・ベンソンの”Nothing’s Gonna Change My Love for You” は世界中で大ヒットし、ホノルルのカラオケバーでも恋人に捧げる歌としてそれはそれはひと晩に何度も聴かされたものだ。 確か、Hawaiian TelephoneかどこかのCMになっていたのではなかったか、とハワイを離れワシントン、ニューヨークへと移ってからもずっと勝手に懐かしんでいた。 私の中ですっかりHawaiian TelのCMソングとして定着し、「ハワイアン・テルの歌」という固有名詞化すらしてしまったこの歌に特別な思い出があったわけではないが、朝学校へ行く前に耳にし、学校から帰ってきてTVやラジオをつけると流れており、そのたび心地良く耳に響いた。 あれから30年以上が経ち、今日ふと気になって調べてみるも、どうにもこの歌がCMソングであったという事実が出てこない。そう言えばジョージ・ベンソンの後、ハワイ出身のポップアイドル、グレン・メディロスがカバーしていたが、私の記憶の中では彼のバージョンではなかった。 午後に入るとますます気になって用事を済ませるなりデスクに着き、YouTubeで探してみると「こ、これではないか」という動画がひとつ見つかった。 ジョージ・ベンソンの”Nothing’s Gonna Change My Love for You” と間違えていた Hawaiian TelのCMソングはこれだった。 もう会うこともないだろうという人との奇跡のような再会にも思えた。 これを見た途端、私を乗せたタイムマシンが宇宙の渦に巻き込まれて瞬時に80年代へと遡り、懐かしい人たちが次々と現れ、この歌と今はなきCMの中のGina Jenkinsの爽やかな笑顔を見なければきっと還ってくることもなかったであろう楽しい友の笑い声や、部屋でひとり流した涙までもが私の心に戻ってきた。 学校が終わって家に帰ると、私はよくリビングルームの窓際に座って冷たいフルーツパンチを飲んだ。金曜の夕方などその窓からワイキキ沖に出ているたくさんのヨットとダイアモンドヘッドを暮れゆく夕陽が赤く染めていて、グラスの中のパンチと同じ色だと思いながら眺めていたあの光景がこの曲とともに浮かぶ。 恋人との間に別れ話が出た夜、彼の親友がワインクーラーとKFCのフライドチキンを山ほど持ってやってきて、やけ食いしながら泣いたり怒ったり、朝まで半狂乱で踊っていた時もこのCMが流れていた。 夕方、母とアラモアナ・センターへ買い物に行った帰りの黄昏時の空や、その夜食べたTVディナー(マイクロウェイブでチンしてでき上がるディナープレート)、当時アラモアナ・センターのスーパーマーケットでしか手に入らなかった絶品オニオン・ブレッドの味まで蘇って、もう二度と戻ってこないあの時間を思い胸が何度も何度も締めつけられた。 どこかで、何らかのかたちで記憶のすり替えが起きたのだろう。ジョージ・ベンソンとCMの温かい声が重なったか、それとも単にどちらも毎日5回も10回も聴いていたからなのか、今の私にはもう判別がつかない。が、いずれにしても、ジョージ・ベンソンの歌とこのCMソングの持つ思い出はまったく違ったものだったということが分かったし、愛して止まないハワイ時代を彩る2つの歌が手に入ったことをとても嬉しく思っている。 遠い過去に置き忘れてきた美しい思い出が、間の抜けた私の小さな勘違いが返してくれたものだったのだと思うと、昨日までの私自身にもほんの少し感謝したい気持ちになった。 それにしても、”Nothing’s Gonna Change My Love for You” に特別なメモリーがないということは、あれだけカラオケバーで歌われていたにもかかわらず当時私の為に歌ってくれた人はいなかったということであり、そう思うと今更ではあるがちょっと面白くなかったりもする。
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Tender Words on Say Something Nice Day
“You Can Have Charleston” by Darius Rucker, born and raised in Charleston, SC 毎年6月1日は”Say Something Nice Day” (優しい言葉をかける日)。 発祥はアメリカ、サウスキャロライナ州・チャールストン。2006年、北チャールストンと南チャールストン市長・キース・サメイが「私たちの人生に関わってくれた特別な人たちに感謝の気持ちを伝えよう」と宣言したホリデイで、国で制定されている祝日ではないが現在も市長は毎年市議会でこの日を称えるのだそうだ。 雨が多くても、きらきらと輝く夏の日差しがぴったりな美しいこの町だからこそ生まれた、ポジティブで愛らしいホリデイであると、遠い日の短い旅を振り返るたび思う。 特別なイベントなどが催されるといったことはないものの、家族や友人、普段お世話になっている人たちに「いつもありがとう」と声をかけ、オフィスや学校ではデスクの上にメモを残したり、また病院ではドクターやナースに、郵便配達に来てくれるメイルマンにも感謝を伝えようというアクティビティは、チャールストンからやがて全米各地へと広まった。 中にはイヤな思いをさせられて良い言葉なんてとても浮かばないという人もいるに違いない。そんな時は、こんないいことを言った男の子がいる。 「優しい言葉を伝えられないなら、何も言わなければいいんだよ」 ディズニーの「バンビ」に登場するバンビの友達、うさぎのサンパー。気分が悪くて誰かに嫌味を言ってしまいそうならむしろ、何も言わず気持ちを軽くしてくれる詩集を読んだり、画集を眺めたりしてみる、ハーブティーでも飲みながら、せめてこの日だけは。これもまた、ささやかな幸せのつくり方。 心のこもった優しい言葉には人を幸福にする力がある。誰かと誰かが優しい言葉をかけ合ってそこで生まれたふたつの小さな幸せが世界中に広がっていけば、この地球はもっともっと美しい星になるだろうに。Say Something Nice Dayには、こうした願いも込められている。 今日車を走らせながらふと子供の頃に食べていた母のお弁当を思い出し、もう食べることもないんだなと思ったら年齢を重ねることの寂しさを感じたのだった。 母のお弁当はバラエティに富んでいた。定番だったのは、唐揚げとゆで卵の黄身の部分をマッシュポテトとマヨネーズで和えてソフトクリームのように、半分にカットした白身の中に絞り出したエッグカップサラダのコンボくらいで、ホームメイド・バーガーの日もあれば、六本木の明治屋で時々買ってきた、見たこともなければ子供の口にはお味もちょっと微妙な「中近東のパン」なる名前のグレーのパンを使ったフライドチキンのサンドウィッチ、そして干しぶどうとにんじんのバターピラフの真ん中にドライカレーという日の丸弁当の日もあった。正直なところ、友人たちから「あ、ケイティの日の丸弁当、ヘン!」とランチボックスを覗き込むように笑われた苦い思い出もあるが、母には永遠にコンフィデンシャルとする。 今では珍しくもないシンプルなエッグカップサラダは東京・麻布で生まれ育った母らしく、すぐ隣に住んでいたアメリカ人家庭で祖母が教わったものだ。おかげでこのひと品は親子三代に渡る我が家の伝統料理になった。 年老いた母は今も気丈でしんみりした話など好む人ではないが、「あなたのお弁当が食べたいわ」と今の気持ちを贈ったら、きっととても喜んでくれるだろう。 もうすぐ現役を引退する父には、「ありがとう、私の幸せな人生はパパがつくってくれたものです」と、電話は恥ずかしいからメイルしよう。 両親以上に大切になった夫には、そうだな、”You’re my eternal OAO(one and only) buddy (あなたは永遠に唯一無二の大親友)” と彼の肩をたたいて言おう。どうせおちゃらけられて終わるのだろうけど。 最後に、6月1日、ここに遊びにきてくれたあなたへ。 大切なお時間を私たちF.G.S.W. のために使ってくださってありがとうございます。 今日一日、フレッシュな空気を胸いっぱいに吸い込んでいつものごはんもより美味しく、大切な人たちとの会話も楽しみながら、幸せな気分でお過ごしください。 そしてこれからあなたが歩いていく道に、いつも明るく暖かな光が注がれていますように。 tulip photo by Roman Kraft…
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Moments #6: Shiretoko – Sea Breeze Kind of Welcome
日々の営みに疲れたら行ってみるといい。 ペルシャンブルーの海、常緑樹の知床連山、平和に暮らす命。 人生観を変える旅は、小さな奇跡と限りない歓喜に満ちている。 まばたきせずに見つめていると、ほら、 オホーツクの海風がくれる、これがようこその挨拶。 ・海の向こうに見える青き雪山は、北方領土・国後島。 知床斜里町観光協会ホームページ photos by Katie Campbell / F.G.S.W.
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Moments #5: Chelsea Morning on the Upper East Side
“Chelsea Morning” by Joni Mitchell I’m on the Upper East Side but having a Chelsea Morning Because from the window I see pigeons fly and hear sparrows chirp Without milk and toast and honey and a bowl of oranges, I’m having a Chelsea Morning Because indeed the sun pours into the room like butterscotch…
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Emperor Gold Mystery
“I Will Survive” by Chantay Savage あの夜は始まりからおかしかったのだ。 ミッドタウン・マンハッタン、午後6時。 徹夜明けで疲れていたのもあるとは思う。サロンの予約時間を間違え諦めて出てくることになったり、夫の仕事が終わるのを待つカフェで、注文したヴィエナ・コーヒーの代わりにココアが運ばれてきたり、店を出る時7ドルのコーヒーに10ドルを差し出したらおつりの3ドルに10ドル札が1枚紛れていたり(自分の名誉の為に申し上げておくが、この10ドルはその場でお返しした)。 どうも調子が狂っていると思いながら、普段どおりSheratonのロビーで夫を待ち、その後仲間4人と合流、メキシコからハネムーンでニューヨークにやってきた友人夫婦を囲んで食事。ダウンタウンへ行った。 お祝いということもあって、全員食事の席でけっこうな量のワインを飲み、終わって彼等を見送ると午後11時を過ぎていたのではないだろうか、その時ミッドタウンに戻っていたのだが、地下鉄に乗ったのかタクシーだったのか、もうそのあたりはぜんぜん覚えていない。Broadwayか6th Ave.の57丁目から南へ歩いて行ったように思う。 誰かが「飲み直そう」と言い、その時一緒にいたメンバーの半分がこう覚えているので確かだとは思うのであるが、おそらく何の理由もなくNovotelのラウンジに向かった(はずだ)。 小さなバーラウンジのストゥールに着くと、皆でBudを頼んだ、かも。 すると、これだけは覚えているのだが、東洋系のバーテンダーが言った。 「お金は要らないから、これちょっと飲んでみない?」 取り敢えず口直しにと水を勧められて、皆してグラスの水をひと口ふた口飲んだ。それから彼は見たこともないラベルの(申し訳ないがまったく記憶にない)ビアを運んできて私たちの前に置いた。 「僕が造ってるビアなんだ」 名前は確か「エンペラー・ゴールド」。中国の何とかという場所に水のとても美味しい場所があり、そこの水で造ったと言っていたような気がするので、彼はチャイニーズ・アメリカンだった可能性が高い。 冷たい水でワインの残り香をもう一度さらい、あらためてグラスの中のビアを見てみると、非常の細かな泡と薄い金色が上品でとても美しい、と思った気がする。 キンキンに冷えたエンペラー・ゴールドをのどに流し込むと、一瞬酔いが醒めた。実においしいのだ。ホップのえぐみや余計な風味はまったく感じられず、滑らかですっきりとした後味と鼻先から抜けるフルーティな香りも極上だった。何となくではあるが、アメリカ人なら誰もが大好きなMiller Genuine Draftを更に爽やかにして、1664の繊細な香りを加えたようなお味だったように思う。大量のワインなどすっかり忘れて、タンブラーのビアを最後までおいしく飲み干した。 私が覚えているのはここまでだ。 週末にまた昨夜と同じメンバーが集まると、あのビアの話になった。口火を切ったのは確か夫だ。 「それにしてもうまかったよね、エンペラー・ゴールド」 「え?」「は?」「へ?」 誰も覚えていなかった。エンペラー・ゴールドを勧められたことも、バーテンダーと話をしたことも、Novotelのバーに立ち寄ったことすらも。 覚えているのは夫と私だけで、あとの4人は酔い潰れた状態だったのか、あの夜のディナーからあとの記憶がないと言う。結局この話がこのあと6人の間でされることは二度となかった。 それから夫と私はエンペラー・ゴールドを思い出しては探してみたが、あれから15年、まだ見つかっていない。あの味だけでも忘れないよう、近い味と香りを求めて世界中のあらゆるビアを取り寄せては飲み続けてきた。けれど残念ながら「これかも」と思えるものにも出会えていない。 かなりの確率で私たちは、エンペラー・ゴールドに辿り着くことはないだろう。むしろあれは夢だったような気さえする。けれど脳裏に小さくとも残る限り、まだまだ探し続けるつもりだ。 どなたかあのすっきりとキレの良い、デリケートなエンペラー・ゴールドに巡り会ってらしたら是非Katieまでお知らせいただきたい。そして教えてください、どこで出会ったか、そしてそれは本当にエンペラーゴールドか。 NYC photos by Ben Dumond Beer photos by Katie Campbell / F.G.S.W.
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Ancient Mushroom?
“Tin Man” music by America 振り返ればもう10年以上も前になる。31日をかけて夫と二人ニューヨークからロスアンジェルスまで、くたびれかけてもなかなかファンキーだった愛車のBMW325isに乗って2度目の北米大陸横断を敢行した。これはその時の写真である。 確かな場所を覚えていないのであるが、アリゾナ州のどこかで間違いないと思う。ニューメキシコに2泊した後グランドキャニオンに向かう途中、こんな感じのロッキーな道ばかりで流れる景色にほとほと飽き、やがて「中だるみNO.8」が二人を襲った。 因みにアメリカを横断する人は必ず経験するだろう、同じような道が何時間も続き、特に南西部に多いのであるが、隣で運転する相手との会話も重たくなって車内の空気が写真のように乾燥してくるあのいやな感じ。その時の為に、旅に出る前予め手帳に話題を500は書き留めておくとよい。 さて、私たちにも「まだこんな?いつまでこんな?」な空気が立ち込め始めた頃、突然起死回生のそれが目に入った。こちらである。 近くに車を止めて近くまで歩いていくと、188cmの夫の3倍、いや4倍あったようにも思える(実際には3倍くらいだったかもしれぬ)巨大なマッシュルーム型の岩。 「こんなセンセーションに出会えるなんて、やっぱり旅には幸運が付きものだね」 「これはもしや、古代マッシュルームの化石なんじゃなかろうかね」 などと、先程までのどよ~んとした無言の3時間をさらりと忘れ、ありもしない話に狂乱する愚かな夫婦を巨岩と、そして近くで水仕事をしていたネイティブ・アメリカンの若い女性は情けなさそうな笑顔で快く受け入れてくれた。 ネイティブ・アメリカンの歴史と文化には彼等の信仰や神話に基づいた物事がたくさんある。この岩についても何かしら彼等にとって大切な意味があるといけないと思ってエピソードや物語がないか尋ねることもせず、またマッシュルーム岩に触れもしないまま早々に車に戻った。 このような形の岩は世界各地の特に砂漠地帯に見られ、主に風や水による侵食によって数千年を掛けてマッシュルーム型になると言う。自然の営み、というよりも私は神様のいたずらと思いたいくらいにコミカルで人の心を和ませる穏やかな風貌の岩であった。 先程は調子に乗って言っていたが、「旅には幸運が付きもの」これはまんざら旅疲れした二人の寝言でもないように思う。長い長い道中、こんなに楽しいひとときを与えてくれるものに出会えるのだもの。 さて、3度目の大陸横断はいつになることか。 all photos by Katie Campbell / F.G.S.W.
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Otaru Pathos After 6
“Gotcha Love” music by Estelle 閉店間際まで北一ホールで話をし、空想をし、詩集を読んで外に出ると午後5時50分。 空が青いうちは大いに賑わっていた通りもひとり、またひとりと消えていき、町が紅く染まるにつれて恋が始まったときのようなセンチメントに包まれる。 愛と郷愁はどこか似ている。 北一硝子のサインにも灯りが入った。日中の小樽は仮の姿で、亡霊が夜を待つように、日が暮れるにつれ真の姿を現し始める。50年前、100年前へと戻っていくような目眩をも誘う。 小樽の夜は早く訪れる。 蔵造りのガラスショップや飲食店の殆どが午後6時には扉を閉めて、通りは黄昏時にはもう静まり返る。正直な気持ちを言えばせめて8時くらいまでは開いていてほしいけれど、現代人の、ましてやアメリカからやってきた人間の思いなど嘲笑されるだけなのだ、「分かってないね、小樽を」と。 ここからは恋人たちの時間。 ふたりは小樽運河を臨む道路に出る。目の前を、家路を急ぐ車が少し冷たくなった春風を切って通り過ぎてゆく。夜の群青が下りて地上に残る紅を溶かしてゆく様子を彼女は見逃さない。 「寒くない?」彼が尋ねると、 「大丈夫。これが北海道の4月なんだね、きっと忘れないだろうな」 信号が青になって、運河へ。 団体の観光客はホテルへ、食事へと散っていき、揺れる水辺を眺めながら語り合う恋人たちが数組。フランス語、韓国語、ロシア語、そして英語。言葉は違うがみな一様に肩を寄せて佇み、小樽に漂う爽やかな哀愁で心を潤す。 午後7時。運河を後にしたら、少し飲もうかと目指すのは坂の途中の「小樽バイン」。 恋するふたりが人目も気にせず見つめ合うには少し明るくて広過ぎるが、すっきりとしたケルナーから始めて3つめのグラスを空ける頃、小樽ワインは瑞々しい媚薬であることを彼女は知る、今夜が忘れられない夜になる予感とともに。 小樽バインをあとにすると、通りの向こうに怪しく光る旧「日本銀行小樽支店」。この町が大切に守る歴史的建造物も夜には彼等の思い出づくりにひと役買ってくれる。 「ホテルに戻る?」 「せっかくだからもう少し歩こう、酔いを醒まさないと」 彼は彼女の手を取ってまた坂を下りていく。一生に一度の大切な言葉は、運河で贈ることに決めたようだ。
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Moments #1: Sweet Illusion of Hopper’s New England
2017年5月3日、根室・納沙布岬近く。 心が乱れはじめたのは、海風のせいじゃない。 北海道最東端で出会った、Edward Hopperの描く風景。 見晴らしのよい乾いた土地に スモーキーグリーンのコロニアルハウスでも建っていたなら おそらく私はそこをCape Codと錯覚しただろう。 そう思ったら少し、故郷New Yorkで過ごす夏が恋しくなった。 Written by Katie / F.G.S.W. Top photo by Michael Mroczek
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Honolulu City Lights
music by Keola & Kapono Beamer “Honolulu City Lights” 音楽でも聴きながら。 お聴きいただいている”Honolulu City Lights” をご存知の方はハワイ通、もしくは留学や駐在などロングステイの経験をお持ちではないだろうか。 ホノルルを去るせつなさを歌ったこの曲は1979年のリリースから今日まで、どれだけの人の心を潤してきたことだろう。 ホノルルの夜景といえば殆どの人が「タンタラスの丘」からの眺望を思い浮かべるはずだ。ハワイを代表するミリオンダラービューは日本からの観光客を魅了し、ロコボーイ&ガールに幾度となく恋の魔法をかけてきた。 が、私と仲間たちの好きなホノルルの夜景は、タンタラスから見る華やかなワイキキの輝きよりも友人リアンの部屋から見る、ミルキーウェイさながらに広がるマウンテンビューだった。 本土の大学へ編入が決まったリアンが旅立つ日。彼女の恋人テディとルームメイトのサラ、私を含む友人10人は観光名所から行き着けのベーカリーまで彼女を1日振り回し、アラモアナでアイスティーを飲みながら「日が暮れてきた、そろそろタンタラスへ行こうか」と誘うと、どこにも行きたくない、最後はうちからマウンテンビューを見ていたいと言った。 タンタラスから見るような煌びやかな光はほかの町でも楽しめる、けれどあの、手の届きそうな天の川はうちでしか見ることができないからと。 アラワイ運河に程近い彼女のアパートメントからは山側の夜景がよく見えた。ラナイに出て、悲しくなるから思い出話などせずに時間ぎりぎりまでただ、みんなで眺めていた。 あとから行くと言ったテディが空港に着いたのは私たちより10分ほど経ってからで、左手には小さなカセットプレイヤーを持っていた。80年代ハワイでも徐々にカセットからCDへと移行していったが、学生の殆どがまだカセットを使っていた。 それにハワイにはカセットがよく似合った。 フライトの時間が迫り、湿った海風の行き来するコリドーでテディは”Play”ボタンを押した。静かにHonolulu City Lightsが流れ出す。リアンの目からはみるみる涙が溢れ、こぼれ落ちた。ひとりひとりと抱き合い、最後にテディがピカケのレイを彼女の首にかけると二人にしか聞こえない小さな声で会話し、キスをして、あとから行くよと大きく手を振ると彼女はゲートの奥へと消えていった。 彼女を乗せた深夜の飛行機が飛び立つのを見届けてワイキキに戻る途中、何度も何度も繰り返し吹き込んだHonolulu City Lightsに誰かが「しつこくて最後は笑えてくる」と言った。皆涙を拭きながら笑った。 ひとり黙って窓の外を眺めるテディのために、私たちは空が白んで山の灯りが消えるまで、島じゅうをドライブした。 そうして朝は、残された者たちのためにまた訪れ、”Honolulu City Lights”は次に旅立つ誰かを待ち、眠りにつく。 ホノルルという町がある限りこの歌は愛され、いつの日も人の心に温かい涙を注ぎ続けていくのだろう。 そう言えばつい数日前初めてカーペンターズの”Honolulu City Lights”を聴いた。カレン・カーペンターのスムースな歌声はこの歌のムードにぴったりだし、こちらを先に聴いた人には「これこそがHonolulu City Lights」と思うのかもしれない。が、ホノルルに暮らし、去った経験のある人にとってはやはり、Beamer Bros.のオリジナルでなければ「あの日」には戻れない。 音楽はどんなに遠い昔の思い出も一瞬にして鮮やかに蘇らせる不思議な力を持つ。今夜は、この曲が連れてきた懐かしい人たちと語り合おう、ワインじゃなくて、学生時代に戻ってパンチでも飲みながら。 all photos by Katie Campbell from F.G.S.W.