Category: Country Living
-
11番目の部屋
私の心にはひと月ごとの思い出が詰まった12の部屋があって、中でも11月の部屋はもう、扉を開けようものなら思い出がぱーんと飛び出してきそうなほどに忘れがたい思い出でいっぱいなのであるが、ニューヨークの家を離れてから毎年この時季に記憶が連れてくるのが、11月になると訪れた小さな町の風景である。 ペンシルベニア州ランカスター郡。アーミッシュ居住区である。日本ではハリソン・フォードの主演映画 “Witness (邦題は「刑事ジョン・ブック 目撃者」)”で知られるところではないかと思う。 ニューヨークの家から車で2時間弱のこの町にはキリスト教を重んじるドイツ系移民が暮らす。厳しい規律によって移住当時の暮らしを守っており、基本的に電気のない自給自足の生活を伝統的に続けているという。 町を車で走っていると、道端を馬車で走るアーミッシュの女性に出くわす。反対車線からは自動車が連なり、人種とかライフスタイルとかよりも、彼らと私たちの相容れぬ哲学の境界線を見ているような気分になる。例えば衣服についても、彼らは無地の生地で作った決まったデザインの洋服を身に着ける。確かに街を歩くと子供たちの洋服には大人よりも多少カラフルなものがあるが、フリルの入ったワンピースなど着ているアーミッシュの少女など、当然なのだろうが見たことがない。到底真似のできない信仰の深さと意志の強さに畏れさえ感じる。 が、彼らこそが現代社会との関わり方に苦悩しているのだそうだ。情報社会のアメリカで電話やテレビのない生活はとても難しかろう。実際、アーミッシュの家族が住んでいるらしき家のすぐ横に立つ電信柱にその苦労が垣間見える。 現在は実際のところどうなのか知る由もないが、アーミッシュの基本的な戒律を紐解くと、彼らの教育は日本でいう中学2年までで終了するようである。その後16歳になると「ラムスプリンガ(Rumspringa, Rumschpringe)と呼ばれる「猶予期間」が与えられる。宗教生活から解放され、所謂「俗世」の仲間入りをしてみる2年間で、その後教会へ戻るか、アーミッシュとしての人生を捨てアメリカ人として生きていくかを選ぶことになる。驚いたことに、85~90%の若者たちが教会へ戻っていくそうである。 *アーミッシュの人たちは宗教上の理由から基本的に写真撮影を拒否する。上の写真は声をかけて「私と分からないように遠くからなら」と了承を得たもの。 ただやはり、ランカスターにも妥協点はある。今やどの国も観光産業なしには成り立たないと言えるだろうが、この町もすっかり観光スポットと化し、ギフトショップのカウンターにはコンピューターを操作するアーミッシュの店員がいたりする。文明社会に生きる私たちにとっては特段目にも入らない光景であるが、ここに来てそれを目の当たりにすると、心の片隅がほんの少し痛む。 同情とかそんなことではなく、本来あるべき自分たちの姿と、アメリカという巨大先進国に在る現実との狭間でどう折り合いをつけていくかを常に問われているのではないかと考えた時、大きな壁に沿って歩く彼らの運命に、畏敬の念が溢れ出すのだ。 尤も、彼らのコミュニティから地球と冥王星ほども離れた場所で生きるゆるキャラ・ケイティが勝手に考えることで、実はもっと大らかに捉えているのかもしれないが。 けれど私にとってこの町の記憶はきっといつまでも、己の存在価値を再考させる場所である。これでいいのかな、いいわけないなと教会へ行くような気持ちで、思い出すたびに悔い改め、姿勢を正す。あっという間に忘れるところが相も変わらない私の愚かさであるが、それでも毎年11月に懺悔の気持ちを呼び起こしてくれるランカスターは心の洗濯場所で、いつも感謝している。 今年も11月が来るなりアーミッシュキルトの鍋敷きをキッチンのアクセサリーに飾った。もう30年近く使っているためボロボロでとてもお見せできないが、これを見つけた時の喜びやお店の様子、カウンターの女の子との会話までしっかりと覚えている。彼女は「実はニューヨークチーズケーキが好き」とほんのりピンクの頬で愛らしく笑っていた。ラムスプリンガの間に多くの刺激を受け、それを思い出に戻ってきたんだろうな、彼女も。 * そろそろThanksgivingだ。アメリカにいれば4連休を使って小旅行に出かける計画があって今頃はハートうきうき新しい靴だのバッグだのを見て回っているのであろうが、今年などは忙しくて七面鳥を焼く時間さえ見つけられそうにない。せめてパイくらいは用意して「仕事まみれの感謝祭」とこんなタイトルの小さな思い出を、ランカスターの雄大な秋へと心を返し「これではいけない」と毎年のように悔いながら、扉を開ければ数々の思い出がぱーんと飛び出す11月の部屋にまたひとつ、詰め込むことにしよう。
-
伝統に集う~旭川市・男山酒造「酒蔵開放」
2月10日、日曜日。仕事の合間を縫って、北海道生活7年目にして初めて以前よりの望みであった催し物を訪れた。この日は午前9時の段階で-13℃、厳しい寒さではあったが穏やかな空で、酒など飲めもしないくせに「祭り」が好きだというだけですっかり酒豪気分であった。 開館は午前10時。その少し前に到着すると、広い駐車場のある店舗はすべてこの日のために、男山酒造「酒蔵開放」のために開放されていた。我が家は近隣のホームセンターに車を止めて時々ずるずると滑りながら軽やかなパウダースノーの中を歩いて行った。 そう、この日は年に一度の「酒蔵開放」酒造り真っ只中の男山酒造の庭で地元民に酒をふるまってくれる行事である。1979年に始まったこの催し、今年は40周年に当たる。 我が町旭川に現存する老舗酒造は私の知る限り「国士無双」で知られる高砂酒造と今回訪れた男山酒造、1887年創業の老舗である。 男山酒造の庭には小さな庭園があって、春から夏にかけては美しい花が咲き誇り、秋になると紅葉を眺めながらその前を通る。また市内にある「男山自然公園」はその昔アイヌの人たちの暮らしの場であった突硝山という丘の南に位置し、4月になるとカタクリやエゾエンゴサクといった北海道の春を告げる愛らしい花が咲き、ちょっとしたトレッキングコースになっていて日差しが暖かくなってくると私たちも散歩に出かける。開園期間は短いが無料で散策でき、「地元あっての」といった心意気を感じる。そういえば、ザゼンソウという不思議な植物を初めて見たのも男山自然公園だった。 酒蔵開放では2回の鏡開きを行うが、縁起をかつぎ?1回目をしかと見届ける。 当日男山がふるまってくれた2種類のうち、清らかな雪解け水のように美しい、澄んだこちらが樽酒。寒さもあったろうが、香りのきつい酒ではなかったためか本当に水のように見えてこれなら1杯飲み干せるだろうと、前身は江戸時代に遡る老舗酒蔵の逸品を軽く侮る。 隣のブースでふるまっていたのは「平安~室町の酒」かめ酒。発酵途中の酒だろうと夫は言っていたが本当?酒を知らぬ私はしゅわしゅわの甘酸っぱいこの濁り酒をとても気に入った。「これはおかわりだ」と思うや否や身体がかる~くなり始め、異変に気付いた夫が「ゆっくり飲みなよ」と警告を与える。が、私は滅多に人の言うことを聞かぬ我儘一徹な性分である。 左がスムースな口当たりとキリッとしたお味の樽酒、右が微炭酸の嬉しいマイルドなかめ酒。「少しだけお願いします」と言ったのになみなみ注いでくれ、「絶対飲めないのに~」と言いながら気がつくと平気で減っているのであった。いかん、これはいかんぞ。 「かわいい雪国」でおなじみの北国冬の風物詩 “Kids on the Sleigh” である。あとひと月もすればこのかわいらしい姿も見られなくなるな、ちょっと寂しい。 この日最も衝撃的だったのは朝摘み野菜ならぬ朝搾り酒「今朝ノ酒」。試飲できることもあってか長い列ができており、やめておけと諭す夫を振り払い愚かな妻は列に加わる。私の前でこのボトルを買っていた人が「これ何度?」と尋ねると「21度ね」。無理だ、さすがにこれは飲めない。せっかくしおらしく「すみません、ほんの1cmくらいお願いします」と言ったのに「なあに言ってんの、ほらいいからいいから」とやはりなみなみ。 仕方ない、それに縁起ものである、何事もチャレンジだと口にしてみるもさすがに強い。個人的にはヴォッカを口にした感覚。当然ながら半分で断念。すぐさま大好物の甘酒試飲コーナーへと急いだ。男山の甘酒は非常に美味であったはずだが無念、どうにも思い出せない。 これより奥のフードコート広場も飲んだり食べたりの幸せな人たちで溢れており、更に奥の倉庫内では男山のブランドを彩る多くの品種が販売され、試飲も勧められていた。けれどこの頃になると、表情も口調も変わらないが意識が確かに遠のいており、これ以上の試飲は断念せざるを得なくなっていた。 楽しい冬の催し物と酒を含んだ温かさが嬉しい朝であった。人出は分単位で増えていき、私たちが帰る頃にはたいそうな人だかりとなっていた。旭川の伝統を味わおうと市民が集結する。この賑わいには独特の温度と躍動感がある。地元民の心の結びつきなのか、それともこの旭川で町とともに生きてきた男山酒造の吸引力なのか。 いつにもましてぼんやりな頭で考えてみるまでもなく、まだまだひよっこの旭川市民は己の町に愛着を持つ地元の人たちが誇らしく思え、ここに住まう己の幸運に浸り、どっしりと優しい男山酒造の存在感に安らぎを得たような有難い心持ちで意気揚々の男山の庭を後にした。 心踊る酒蔵開放、きっと来年もと思ったのは私だけではない。幾種類もの酒を続けざまに飲み干す妻を横目に「来年はさ、タクシーで来ようね」と呟く夫であった。
-
Sky Palette 2018
The year has passed so hectically and fast. Reaching its goal, the two best things to be grateful for were the warmth of time for good reading and rendezvous with the sky of the great Hokkaido land. The reason why we feel purified looking up at the morning sky and soothed standing before the ocean…
-
図書館までの道
雨上がり、旭川小記。 私たちの人生は道でつながっている。私の生にもさまざまな意味を持つ多くの道が延びており、交差している。それらの中には避けたいものもあれば、大好きな虹色ロードというのも超個人的見解onlyで存在する。 一応は文章を書く人間であるから書物との関わりは深く、図書館との付き合いもひと月の半分ほどの頻度なのだが、図書館で過ごす時間もさることながら私はそこへ辿り着くまでの散歩道を実に気に入っていて、いや気に入っているなんてものではなくむしろ至福のひとときとさえ言いたいほどに好んでおり、それを理由に図書館へ行くこともある。 旭川市中央図書館は大きな公園の中にある。 駐車場に車を止めると目の前には大きな池が広がる。池の前から左へ行けば程なく図書館。けれど陽気が穏やかなら右へ折れ散歩道をぐるりと一周して図書館へ行く。 ここ常磐公園は旭川を代表する名所のひとつで「旭川八景」に、また「日本の都市公園100選」にも選定されている緑豊かな市民の憩いの場である。明治43年(1910)開設、大正5年(1916)開園というからどれだけの人がどのような出で立ちで誰と歩いたのだろうと考えると想像が尽きず胸が躍る。 平成最後の2018年はこうである。揃いのウェアでウォーキングをする俊足老夫婦、野原で小さい子供を遊ばせる美脚の若い母、先へ先へと急ぎたいトイプードルに着いていくのが大変な苦笑いの少女。三世代、四世代、公園への慈しみが漂う。 公園の敷地には図書館の他に上川神社頓宮や道立旭川美術館も設けられている。私は神道について知識を持たないので調べて初めて知ったのであるが、頓宮とは仮のお宮さんという意味だそうだ。親しみやすい佇まいの、居心地の良いお宮さんである。 旭川美術館は個人的な憩いの場であり、公園散歩とは別に安らぎと刺激を求めて訪れる。年に一、二度の大きな展覧会と旭川ならではの美術・工芸展は私の年間スケジュールにも組み込まれている。小さいが大切な、旭川の美術室。 九ちゃんの歌とは反対に「下を向いて歩こう」が私の公園散策のテーマである。殊に秋の公園は足下がとても楽しい。銀杏が山吹色に染まる頃など散歩中の犬さながらに興奮する。夫はそれを微笑みもせず、かと言って笑い種にするでもなく(たぶん)見守っている。 森の香りが喉にいいんじゃないかとか、常磐公園のダックは日本語で鳴きNYの家の前のダックは英語で鳴くに違いないだとか、何の意味もない話をしながら行き交う人たちと「こんにちは」「今年はいつまでも暖かいですね」とこちらも他愛もない挨拶を楽しみゆっくりゆっくり、散策路を廻る。 池の畔に沿って美しい園内を眺めながらベンチに座って休み、お宮さんに立ち寄り、栞にする色鮮やかな落ち葉を拾いながら30分ほどかけて図書館に辿り着く。秋の図書館前は私の旭川八景である。私はこの景色を100枚以上写真に収めているが、図書館の職員さんおひとりくらいは我が愚行にお気付きかも知れぬ。 館内に入ると混み具合を確かめ、午後の陽光が木漏れ日となって入る窓際の椅子を選んで読書を始める。本はその時興味を引くものであるが、毎回のように手に取るのはドナルド・キーン先生の著書である。名立たる文豪とのやりとりなど、その場で障子の陰からこっそり見ているようなくすぐったい気分にさせてくださる。 一度に借りられるのは10冊。毎回だいたい夫6冊、私は4冊。そのうち1冊は就寝前に読む洋書を混ぜ込んでいる。2週間借りていられるが、読んでは返しを繰り返す。 持ち帰りたい本を決めてデスクへ。2週間後の返却を約束して外に出ると、すっかり日が沈んでいる。必ず思う。図書館からの帰り道はコローの美術館にでもいるようだ。子供の頃に見た “Goatherds on the Borromean Islands” を思い出す。ああ、きれいだな、寒くなるまでしばらくここに居たいわ。 ガーガー グワッグワッ グェッグェ~ 静寂をぶち壊し私の感傷を木端微塵にする衝撃。 人も去り体感温度が10℃ほども落ちた蒼い池で「さあ夕食だみんな集まれ」と楽しげに鳴くダックの群れが水面を揺らす。「彼らはどこで寝るのかね」と小学生も考えないような疑問を題材に車に乗るまで話す。「さすがに水も冷たいだろうし、まあ草むらだね」という何とも安直且つ稚拙な結論に。けれどその道すがらがとても楽しい。 帰路、必ず旭川の象徴「北海道遺産」旭橋をくぐっていく。黄昏時の空に浮かぶ旭橋の灯りをとても気に入っている。時折感じる時代を遡りゆくようなアトモスフィアは旭川独特であり、拙著にも書くほどこの橋が、そして我が町旭川が好きである。 我が町。ニューヨークが私の町だ、故郷だと思ってきたがそれは成熟できないでいた私の意固地であった。故郷とは、日々の中から生まれる町への愛なのだとここにいて思う。 最近借りている書物の中で猛烈に気に入った一冊が、国木田独歩著「空知川の岸辺」の足跡を辿る「国木田独歩 空知川の岸辺で」(岩井洋著・道新選書)である。 恋狂いだ。愛した女との新しい門出の為に縁も所縁もない北海道の地へ土地の購入にやってくるのだ。情熱的な人は好きであるがこういった男と恋をすることはないなと笑いながら、滞在中の人との関わりや独歩の心境の変化、それだけでなく明治時代の北海道の様子や厳しい自然までも美しい文章で綴ってくれていることにひたすら喜びを感じた。 この本、返却したくなくてしばらく借り続けていた。しかたがないからとりあえずノートをとり、おそらくは後日購入することになるであろう。そのくらい楽しい本であった。 図書館への道は、名著と私を結ぶ赤い糸。図書館への道は、旭川が私にくれる心嬉しい30分。そしてまた、人生のジグソーパズルを完成へと向け毎日毎日探し見て、迷いながら合わせていくうちに見つけた、幸せの1ピースである。 昨日、図書館前のクローバー畑にかわいい花が咲いているのを夫が見つけた。嬉しい半面、眠りに就けずにいる花たちにはそろそろ疲れも溜まってきているだろうと申し訳なくなった。人はどこまで自然の邪魔をして生きてゆかねばならぬのだろう。
-
青春時代の入口で~西高野球部闘魂注入ダンサーズ
Everybody’s youth is a dream, a form of chemical madness. – F. Scott Fitzgerald 仕事にかまけて短い夏に背を向けていたら、いつしか旭川には涼やかな風が吹き、9月。辺りを見回せば、ススキやコスモスが揺れている。 無類の旅好きがこの夏は極小旅行にも出かけずいじけ気味であるのだが、日本に来てから夏の楽しみになった高校野球がひとつ、私にレモンスカッシュな思い出をつくってくれた。 遡ること6月28日。前日雨で順延になった高校野球旭川地区予選の試合がどうやら開催される模様。時計を見るとあと20分で試合開始とある。大急ぎでその日は休日の夫を起こして支度をし、ブレクファストに用意しておいたアップルデニッシュを持ってスタルヒン球場へと急いだ。 スタルヒン球場は本当は旭川市民球場と言うのだそうだが、ロシア帝国に生まれ旭川で育った伝説の投手、ヴィクトル・スタルヒン(1916-1957)の功績を称え「スタルヒン球場」と名付けられたそうである。ロシア革命、第二次世界大戦と激動の時代に苦しめられた彼の人生に触れ、あらためて戦争への憤りと平和でなくてはならない日本が変わっていきそうな懸念に胸が痛む。 さて、記憶に残る最後の野球観戦は確か Yankee Stadium. しかも現在のスタジアムではなくBabe Ruth や今も我等夫婦が愛して止まない “Donnie Baseball” Don Mattingly のホームグラウンド、旧球場であった。Hideki Matsui も大活躍していた頃だから随分前のことになる。 学生時代はほぼ毎週末ヤンキースを観に行っていた。当時はそれを誇らしく思えるほどの弱小チームで、現在とはまったく違った、昔ながらのワイルドなヤンキースだった。あのムードがなくなっていくにつれ、私はMLBを見なくなったように思う。 ヤンキースに纏わるエピソードは尽きることがないが、球場近くの駐車場に車を止め外に出ると、ブラスバンドの演奏と応援団の声が高らかに響いていた。 「初めてのスタルヒン球場」の感動もそこそこに球場に入ると、地区大会だからか午前中の試合だったからか観客数はそれほど多くもなく、私たちはバックネット裏中段辺りに腰を下ろし、アップルデニッシュを食べながら観戦し始めた。 楽しい。もう楽しい。その場に座っているだけなのに、初々しい熱気が球場いっぱいに広がって見ている私たちにも伝わってくるのだ。 強豪旭川実業高校対旭川西高校の戦いは、1回の裏西高校の攻撃中であった。北海道の高校野球を知らなくとも地元対決というのはそれだけで見応えがあった。が、ひとつ問題が。どうせならどちらかひとチームを応援したいスポーツ観戦、なのにどちらを応援してよいか分からない。両校の選手たちが一生懸命プレイしているのにどちらか一方を選ぶだなんて、私にはできない。強い方?弱い方?うちに近い方?いくら何でもそれは違うだろう。そこで試合を観戦しながら心が傾くのを待つことにした。 どこかのサイトに北北海道は旭川実業が優勝候補の一校であると書かれてあって、なるほど引き締まったプレイにまとまりのある応援団。強豪と言われるのにただただ肯く。トランペット・ソロもなかなかの腕前。盛り上げるなあと感心。 すると突然、びびびと私の好奇心アンテナが10時の方向へと伸びる。左前方、西高校の野球部員らしき男の子が5人、半狂乱(でもないか)でブラスバンドの演奏に合わせ舞っているのである。ダンスを、しているのだ。 今はどこの学校もこうなの?確かに野球部員だ、ダンス部員ではなかろう。曲によってダンス、そう、闘魂注入ダンスも違うフォーメーションで実にかっこよく、実におもしろい。これが野球場でなければパフォーマンスだと思ってしまうくらいだ。チアリングも変わったものだなあと、時代比較、日米比較しながら実感する。本人たちにはおそらく「真剣なんだ、おもしろいなどと言ってくれるな」と言いたいところであろうが申し訳ない、見ているこっちは楽しくてたまらない。 にじりにじりと3塁側に近寄って行く怪しい中年夫婦。 そして気が付けばこんなところに。時折飛んでくるファウルボールに怯えつつも西高野球部闘魂注入ダンサーズ「ウェスト・ハイ・マイティ・ロケッツ(West High Mighty Rockets)」(勝手に命名)は休むことなく踊り続ける。真剣な、というより無表情でマーチングバンドに導かれるまま飛び跳ねる。ヒットが出ると大歓声。点が入るとまた飛び跳ねる。青春は、跳躍だ。 彼等5人とブラスバンド、チアリーダーズ、声援に駆け付けた生徒たちの声と動きが一つになってフィールドに注がれていた。甲子園の大舞台でなく、地区大会だからこそ強くそれを感じられた。マイティ・ロケッツは休むことなく、次々と繰り出される楽曲に合わせダンスを送り届ける。選手たちを、また応援席にいる全員を奮い立たせるように。 試合は惜しくも10-5で敗退となってしまったが、彼等は試合を大いに撹乱し、私たち見ている人の心を震わせた。勝った旭川実業の攻守も、応援も素晴らしかった。 選手たちが3塁側の応援席へと駆け付け美しい一列をつくると、応援団も前方へ駆け寄り大きな拍手を送った。ここにいる西高生全員が猛烈に感動しこの瞬間を心に刻み込んでいるのだろうと思ったら、遠い昔の高校時代が脳裏に浮かんで私の胸も熱くなった。 西高野球部の今年の夏は終わったが、去って行く背中を見送りながら、あの子たちは今、青春の入口に立っているんだなとふと思った。青春時代は人生のうちで最も楽しくて苦しくて、甘くて切ない季節。初めて味わう感情をいくつも積み重ねていく時間。熱い思いを抱いて足を踏み入れて行く彼等の足下は明るい光に照らされ、頭上には虹のアーチが歓迎していることだろう。何十年も経ってから、夢のような時代であったと振り返ってもらいたい。 そういえばこの日のスタルヒン、涼しい顔をしているようで実は笑いをかみ殺しているのを私は知っている。 両校の応援の中に、こんなふうに叫ぶのがあったのだ。 「オマエハイイオトコ ○○○」…
-
Moments 27:海の青を守る積丹菩薩~Pray for the Blue, Buddha of Compassion
自宅のある旭川は北海道内でも夏の暑さが厳しいことで知られるが、今年の猛暑は残酷とも言え、これで道内のクーラー普及率が上がってしまうかと思うと涼やかな自然風が自慢の北海道にも温暖化の悪影響が広がることは必至、心配でならない。 「地球温暖化は作り話だ」また昨年厳しい寒波に見舞われた自国に対し「我が国にもほんの少し地球温暖化が必要だ」などと平然とツイートしてのけるアノ方の言葉をよりにもよってこんな時に思い出してはカッカカッカと勝手に暑さを助長する愚かな我が身が情けない。 ならば気分だけでも爽やかな夏をと出かけたドライブも異常気象に完敗、どう頑張ってもクーラーは必要であり、ゆえに車内は涼しいには涼しい、けれど強力な日光が肌にチリチリと射し込み「どこかでおいしいシーフードでも」とか言ってたくせにすっかり食欲も落ちてアイスバーばかりペロペロ舐めている始末であった。 積丹町から美しい積丹ブルーを眺めながら小樽・札幌方面へと向かう途中、巨大なこの岩に出会う。実際に名称を持つのかは分からないが、柔らかい鼻やあごのラインと穏やかな風貌から私は「積丹菩薩」と呼んでおり、彼女の前を通り過ぎる時には必ず声を掛けている。 「こんにちは、よろしくお願いいたします」 彼女は積丹の美しい海を望み、背後にちっぽけな私の声を感じながら何を思っているのだろう。平和な世、美しい地球の存続を念じてくれているようには見えまいか。 だからついお願いしてしまう「よろしくお願いいたします、明日も、10年後も100年後もこの海が青く、ここに暮らす人たちが夏を楽しんでいられますよう守ってあげてください」。私は本当に微力だから、つい。 「ならばまずはあなたも日々の暮らしに気を配りなさい」と積丹菩薩に窘められそうで気が引けるが、菩薩を通り過ぎてからも、私の左に広がる青い海と北海道の短い夏がいつまでも変わらぬよう、クーラーを切って窓を開け、手のひらいっぱいに暖かな海風を受けて祈った。 ◆後日談: 私の名付けた「積丹菩薩」実は「弁天岩」と呼ばれているのだそう。そうか、弁天様か。でもなあ、菩薩の方が、イメージに合うんじゃないかなあ。
-
今なお熱き生命の痕跡~鹿追町・神田日勝記念美術館
If passion drives you, let reason hold the reins. – Benjamin Franklin song: A Mi Manera (Comme d’habitude) – Gipsy Kings 思うところあってPCからしばらく離れてみようと、仕事をほっぽらかして時折読書をしにふらりと出かける別宅で2週間を過ごした。その家の近所には気に入った古本屋があり、行くと必ず108円の本ばかり10冊ほど買い込んで読み漁る。古本を好んで買うことに文字を扱う仕事をする者として気が引けたりもするが、古本屋の豊富な蔵書にいつも感激する。 そんな中ある朝早く、小説の文字に目が霞み時間を持て余している私のために夫が芸術散歩を提案してくれた。 「神田日勝を見に行ってみない?」 神田日勝(かんだにっしょう) ー 4,5年も前だろうか、Eテレ(どうもこの名称に馴染めない。「教育テレビ」が好き。何でもデジタル仕様にすればいいってもんじゃないぞ)の「日曜美術館」ではなかったかと思うが特集番組を見る機会に恵まれた。北海道に生きた画家ということで興味津々で45分間一歩も動かず見ていた。テーマとされた絶筆で未完の「馬」に衝撃を受け、同時に今回展覧会のパンフレットになっている「室内風景」が心に留まって忘れられず、夫の誘いに二つ返事で出かける支度を始めた。 神田日勝が家族とともに戦災を逃れ8歳の時にやってきた十勝地方・鹿追町(しかおいちょう)は、今は爽やかな風の通る整ったきれいな町で、芝生の庭がみずみずしいコテージレストランで優しいお味のランチを摂った後、美術館へ向かうことにした。 館内は小さいがスタイリッシュな造りで程良い重厚感を持ち、天井が高く温かい光が絵画を包んでいた。その空間に私はアメリカ横断の途中どこかで立ち寄った小さな教会を思い出した。そうした神聖な空気の宿る室内であった。 入るとすぐ右から神田日勝の画家としてのヒストリーを巡る旅が始まる。最初の3作は赤墨色や柿渋色が古い写真を思わせる色彩で描かれていたが、センチメンタルに描こうとしたわけではないことは、力強い彼の画風を知るにつれ理解ができた。 ー 農民である。画家である。 農民画家と言われることを嫌ったと言われる神田日勝の心情を、苦しい労働を強いられていたであろうこの絵の朴訥とした男たちの、束の間の安らぎに体を沈める姿を見ながら想像してみた。戦火を逃れ開拓民として疎開してきた人々が新天地・十勝での苦労に打ち勝てず次々と去る中で、家族の明日のためひたすらに働き、何より好きな絵を描きながら彼は胸に抱いていたのは、厳しい環境を耐え抜いた開拓農家の跡取りとしての誇りと独学で自らの画風を確立した芸術家としての誇り。前者は彼の血肉に漲るものであり、後者は高度成長期のせわしい外界を寄せ付けない広く深く屈強なまでのインナーセルフに輝くものではなかったか。 「飯場の風景」1963年 作品写真:神田日勝記念美術館 “Landscape of the Camp” 1963, KANDA Nissho 横たわって眠る男の穏やかな寝息と左に目を閉じて瞑想する男の鼓動、冷え切った二人の肉体を温めるストーブのパチパチという小さな音が聞こえてくるようで、この絵の前を通り過ぎる時、二人を起こしてはいかんとつい音を立てないようにそうっと爪先で歩いてしまったりするのは私だけではないだろう。 神田日勝が描く男たちは、彼の描く馬と似たところがある。手足が大きく逞しい。彼が苦楽を共にした農耕馬もまたしっかりとした足を持つ。大地に足をつけて真摯に生きるものの姿は彼の生と芸術に対する情熱を投影したものと思われた。 また、この「飯場の風景」の全体像を見たとき、学生時代に学んだジョルジュ・ブラックの “Violin and Candlestick”という作品が頭に浮かんだ。背景のコンポジションや色使い、黒く太いシルエットラインが似ているように一瞬感じられたのだった。 “Violin and…
-
雨音を聴く水曜午後3時
Music: Jeux d’eau – Ravel 冷たい雨の水曜日。晴れていればスタルヒン球場に高校野球の予選でも見に行こうと張り切っていたのに中止の発表。しかたがないから町の小さなソリチュードでも探しに出ようと支度をした。 2時間走って辿り着いたのは空港近くのアイスクリーム・パーラー。私たちとすれ違いに2色のアイスクリームを手に車に戻るパリッとグレーのスーツを着こなした男性。ふと夏のマンハッタンを歩くビジネスマンを思い出す。 新鮮な雨水を受けてすくすくと育つぶどうの葉の喜ぶ様子が手に取るように分かる。秋にはこのぶどう棚いっぱいにプヨンと弾力のある甘酸っぱい実をつけるのだろう。 道民は雨が降ろうが雪が舞おうが老若男女アイスクリームを食べるトライブなのである。例え5年選手でもね。エアリーもコクの深い上質なアイスクリームに午後の気だるさが吹き飛ぶ。 今日のフレイバー: Mocha + Strawberry 店には店主の女性と私たち夫婦のみで、店先の水たまりに雨粒が落ちる音が聞こえる。 ポロン、ポロン、ポロン、トゥン。最後のトゥンは、高く響く。 淀みのない澄んだ雨の音楽はリズムよく、休むことなく続く。それはピアノのような、あるいはグロッケンシュピールの鍵盤の上でマレットがはじけるような、軽快な音。 6月の雨を好きだと言う人は少ないが、6月の緑は一年で一番美しい。秋色の葉も、憧れの眼差しで生き生きと季節を満喫する豊かな緑を眺めているよう。 「どんな植物も、6月だけは緑でないと」かわいい愚痴が聞こえてくる。 夏を待てないパティオのチェアは少し寂しげにベンチに向かって恨みごとを言うと、ベンチは涼しげに微笑んでチェアを宥めるに違いない。 「もう7月になろうってのに、ああもう冷たい。体が冷えるわ、ねえ」 「鉄の椅子になったことも北海道に送られたことも、すべて運命、受け入れることよ」 ◆ When it rains in Japan, they often make the hanging dolls with papers or fabrics called “Teru-Teru Bozu” meaning “the boys that bring the sunshine” as a kind of good-luck charm…
-
Etymology for Two~二人の語源香る美瑛・アスペルジュの皿
Song: You Taught My Heart to Sing – Cheryl Bentyne 良いお天気の暖かな、結婚記念日にありがたい4月のとある木曜日。単身赴任で夫が普段家にいないためゆっくり計画を立てることもできないまま、酒の苦手な夫婦は急遽せめておいしいランチでもと午後1時の予約をとってお昼過ぎ、美瑛へ向かった。 美瑛町・アスペルジュ(Asperges)は、多くのメディアで取り上げられミシュランガイド北海道2012年にひとつ星をも獲得したカジュアルフレンチで、隣接する美瑛選果を訪れるたび外から覗いてみては賑わっている様子に「次は必ず」とその場を離れていたのであるが、ようやく機会が巡ってきた。 ガラスの扉越しに見える白い店内はこのあと目の前に運ばれてくるであろう色鮮やかな料理の数々と楽しいひとときを予感させた。野菜が、美味しいはず。 ◆ 「結婚生活、どう?」と独身の友人たちに尋ねられるたびその時のムードで思いつくことを話していたものの、その答えは実に適当であった。そう簡単に表現できるものでもないし。けれど不思議と二十余年にわたる私たちという関係の語源になるような言葉が、この日出会った絵画のように美しいひと皿ひと皿の上に漂うようで香るようで、次々と浮かぶのだった。 人参のムース Infatuation ー 心酔 アミューズブーシュはにんじんのムース。最初のひと品は本の表紙だ。タイトルと装丁によって与えられる第一印象。恋の始まりに似た、恥じらいを含んだような柔らかさと、ふんわりとした甘さに夢中になる。美瑛の森に遊ぶキューピッドの羽さながらの軽やかさも記念日のランチにふさわしい。 美瑛の畑 ー 20種類の野菜を使った取り合わせ Rapture ー 歓喜 「混ぜてお召し上がりください」そう勧めてくださった彩り鮮やかなサラダは花盛りを迎えた7月の美瑛を思わせる。混ぜてしまうのが躊躇われ、散りばめられた何種類ものソースとともに少しずつ食べ比べながら、人が感じる最もシンプルな、けれど胸躍らせる「美味しい」という魔法にかかり、また意外なボリュームにも驚いたのだった。 越冬じゃがいものピューレ “淡雪” Labyrinth ー 迷宮 結婚生活はまさに迷宮、一度その扉を開いて足を踏み入れたら幸せと同時に戸惑いや不安もついてくる。けれど恋から始まった二人の人生、立ち止まるわけには行かぬ。そうして時折分かれ道を前に逡巡しながらも一歩ずつ奥へと進んでいくにつれ分かってくる、優しさ、平穏、そして二人でいることの心地良さ。 淡雪はほんのりポタージュのお味で、島のように中央に顔を見せているマッシュポテトの滑らかな口当たりと温かさに心身の凝りもほぐれる。ああ、美味しい。飾られた山わさび(ホースラディッシュ)は北海道らしい遊び心を感じた。 新玉ねぎブレゼ Nature ー 本質 シンプルな玉ねぎの煮込みは母の言葉のように優しく胸に沁み込んでいく。 毎日の暮らしを共に重ねていきながら、夫婦は互いの善きも悪しきも受け入れていくようになる(私には悪しきエゴやらアクやらがゴマンとあるが、ひいき目なのか夫にはさして見当たらないのが哀しき現実)。10年後、20年後、やがて見えてくる相手の心の一番奥底で輝いている魅力が、夫婦という間柄だからこそ見つけることのできるその人の本質と言えはしまいか。 夫と私の間にはしみじみという雰囲気が漂わないが、玉ねぎのレイヤーが小さな日常を重ねていくような日めくりカレンダーにも似て、穏やかな日々に感謝したくなった。 私たちはこの層の、今どの辺りだろう。 北海道産牛頬肉の赤ワイン煮込み Maturation ー 熟成 「深み」という言葉が、年々好きになる。 夫と私のような成長の遅い夫婦にはなかなかしっくりこないこの言葉ではあるが、そういえば学生時代から今日までの二人の時間も会話もシルエットも、徐々に丸みを帯びてきたような気がしたり、しなかったり。 フォークを軽く当てただけでほろりと崩れるワイン煮込み、まさに「深み」という言葉がよく似合う。繊細な頬肉と香り高く艶やかなワインソースは五感を酔わせる官能的な料理だ。しなやかな夫のカトラリー使いにも惚れ惚れする。 美瑛産豚ロースのグリエ It is not…
-
Hopperを追い求める旅
私の家はニューヨークにあるのでぎりぎりニューイングランド地方には属さないのであるが、隣州コネチカット以東のロードアイランドやマサチューセッツは週末のドライブコースで、目的地は決めず目に飛び込んでくる大自然や美しい街並みを眺めるためだけに車を走らせる。 生涯ニューイングランドを描き続けたEdward Hopper をマンハッタンのWhitney Museum で初めて間近に見たのはもう30年も前ではないだろうか。全米有数のリゾート地という名刺とは別に、故郷のもの哀しい顔を見つめたその視線が数ある風景画に美しくせつなく映し出されており、以来とても好きなアーティストになった。 長い時を経てやってきた北海道で、ホッパーに出会うことが多いことに気がついた。以前ブログでもご紹介したが(“Sweet Illusion of Hopper’s New England”)山間、海沿いを走りながら現れる風景が、まるでホッパーの作品がキャンバスからはみ出しているように見え、その瞬間に遭遇するなりとても嬉しくなる。 これは日本海側の沿岸道路で私の好きなドライブラインであるが、人の気持ちにはそっぽを向きながらも寂しげな空気を漂わせている。ホッパーだなあと思う。ちなみにこれらの写真、撮ったままで加工などはまったくしていない。 あまり真面目に見ちゃだめなのよ、「ああ何となくそんなような」くらいの気持ちでごらんいただけると私は野望を果たせたことになる。 明日はOFF. どこへ行こうか、雪解けの進む北海道を走り抜ける。 ホッパーの絵画を追い求める旅は始まったばかり。またひとつ、北海道の新しい暮らし方とKHC(Kate the Hopper Chaser)、ただ勝手に楽しいだけの肩書を手に入れた。