Category: Culture
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今なお熱き生命の痕跡~鹿追町・神田日勝記念美術館
If passion drives you, let reason hold the reins. – Benjamin Franklin song: A Mi Manera (Comme d’habitude) – Gipsy Kings 思うところあってPCからしばらく離れてみようと、仕事をほっぽらかして時折読書をしにふらりと出かける別宅で2週間を過ごした。その家の近所には気に入った古本屋があり、行くと必ず108円の本ばかり10冊ほど買い込んで読み漁る。古本を好んで買うことに文字を扱う仕事をする者として気が引けたりもするが、古本屋の豊富な蔵書にいつも感激する。 そんな中ある朝早く、小説の文字に目が霞み時間を持て余している私のために夫が芸術散歩を提案してくれた。 「神田日勝を見に行ってみない?」 神田日勝(かんだにっしょう) ー 4,5年も前だろうか、Eテレ(どうもこの名称に馴染めない。「教育テレビ」が好き。何でもデジタル仕様にすればいいってもんじゃないぞ)の「日曜美術館」ではなかったかと思うが特集番組を見る機会に恵まれた。北海道に生きた画家ということで興味津々で45分間一歩も動かず見ていた。テーマとされた絶筆で未完の「馬」に衝撃を受け、同時に今回展覧会のパンフレットになっている「室内風景」が心に留まって忘れられず、夫の誘いに二つ返事で出かける支度を始めた。 神田日勝が家族とともに戦災を逃れ8歳の時にやってきた十勝地方・鹿追町(しかおいちょう)は、今は爽やかな風の通る整ったきれいな町で、芝生の庭がみずみずしいコテージレストランで優しいお味のランチを摂った後、美術館へ向かうことにした。 館内は小さいがスタイリッシュな造りで程良い重厚感を持ち、天井が高く温かい光が絵画を包んでいた。その空間に私はアメリカ横断の途中どこかで立ち寄った小さな教会を思い出した。そうした神聖な空気の宿る室内であった。 入るとすぐ右から神田日勝の画家としてのヒストリーを巡る旅が始まる。最初の3作は赤墨色や柿渋色が古い写真を思わせる色彩で描かれていたが、センチメンタルに描こうとしたわけではないことは、力強い彼の画風を知るにつれ理解ができた。 ー 農民である。画家である。 農民画家と言われることを嫌ったと言われる神田日勝の心情を、苦しい労働を強いられていたであろうこの絵の朴訥とした男たちの、束の間の安らぎに体を沈める姿を見ながら想像してみた。戦火を逃れ開拓民として疎開してきた人々が新天地・十勝での苦労に打ち勝てず次々と去る中で、家族の明日のためひたすらに働き、何より好きな絵を描きながら彼は胸に抱いていたのは、厳しい環境を耐え抜いた開拓農家の跡取りとしての誇りと独学で自らの画風を確立した芸術家としての誇り。前者は彼の血肉に漲るものであり、後者は高度成長期のせわしい外界を寄せ付けない広く深く屈強なまでのインナーセルフに輝くものではなかったか。 「飯場の風景」1963年 作品写真:神田日勝記念美術館 “Landscape of the Camp” 1963, KANDA Nissho 横たわって眠る男の穏やかな寝息と左に目を閉じて瞑想する男の鼓動、冷え切った二人の肉体を温めるストーブのパチパチという小さな音が聞こえてくるようで、この絵の前を通り過ぎる時、二人を起こしてはいかんとつい音を立てないようにそうっと爪先で歩いてしまったりするのは私だけではないだろう。 神田日勝が描く男たちは、彼の描く馬と似たところがある。手足が大きく逞しい。彼が苦楽を共にした農耕馬もまたしっかりとした足を持つ。大地に足をつけて真摯に生きるものの姿は彼の生と芸術に対する情熱を投影したものと思われた。 また、この「飯場の風景」の全体像を見たとき、学生時代に学んだジョルジュ・ブラックの “Violin and Candlestick”という作品が頭に浮かんだ。背景のコンポジションや色使い、黒く太いシルエットラインが似ているように一瞬感じられたのだった。 “Violin and…
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初恋時計~桜桃忌に寄せて
「太宰は青春時代と同じなのよ、一度は通る道」と母は言った。 少女時代太宰に心酔していた娘(私)への戒めの言葉である。食い入るように「人間失格」を読む娘の背中を見ながら、あの子はやがてダメ男に人生をボロボロにされるのではないかと懸念したと言う。 以前にもお話したとおり、私は著名人のプライベートライフにまったく関心を抱かない。才能で仕事をしている人のその才能にエクスタシーを感じるからであるが、太宰だけは違った。この人のこと、もっと知りたい。そう思ってしまった。おそらく太宰は私の初恋だ。 小学5年生の時、初めて太宰の著作を読んだ。推薦図書にもなっていた「走れメロス」ではなく、実家の書棚に見つけた「斜陽」であった。「走れメロス」の内部事情(太宰と檀一夫の逸話)を母から聞かされて、理由は今もって解明されていないが、読まない方が良いような気持ちになったのだった。 私の母は教育熱心であったが自身も小学6年で尾崎士郎の「人生劇場」を読んだという武勇伝を持っており、書物はどんなものでも読ませてくれた。どうせ分かりゃしないだろうと思っていたのかもしれない。当然のことながら言葉の意味、ストーリーの全てを解釈できるわけがなく、けれど当時強烈に本から漂う戦後のケオティックな空気に私は落ちた。 それから勉強もお稽古ごともそっちのけで調べた。コンピューターなどない時代であるから地元横浜は青葉台の図書館から都内の図書館を渡り歩き、自由が丘や渋谷の書店を廻り、虎ノ門に勤めていた父をも六本木・赤坂・日本橋とこき使い、塾の帰りには神田の古本屋街にも通い詰め、ある書物からヒントを得ると次の書物を探した。 そんなふうに太宰漬けの日々を送りながら出会った長篠康一郎著「太宰治 武蔵野心中」は、一番に欲しかった「斜陽」のモデル・太田静子著「あはれわが歌」がどうしても見つからず、代わりにすずらん通りの古本屋でちょうど私の目線に陳列されていたのを見つけたもの。当時でも入手が少々難しい本であると言われたのを記憶している。 この本は、太宰の編集者であった野原一夫著「回想 太宰治」などとともに何度も何度も読み返した愛読書のひとつだが、太宰と心中した山崎富栄の日記文が多く掲載されており、禁断の恋に溺れた二人の生々しい会話は特に当時10代の私には刺激が強過ぎ、一時は嫌悪感に悩んだものだった。小説からも伝わる、すかした口説き文句で都合よく女性に甘えちゃうような、ちょっと安っぽい男の恋心と太宰が彼女に実際に語り掛けた言葉とが重なって、煮詰めたハチミツさながらのしつこい甘さに処女心が胸やけを起こしたのだった。 スキ。キライ。スキなのにキライ。キライだけどスキ。太宰は少女にさえ複雑な愛し方を植え付け、あの頃から私も太宰の愛人の一人であるような気分で生きてきた気がする。 太宰に関する書物で最近見つけたものに「太宰治必携 – 三好行雄・編」がある。美しい初版本で1981年に出版されたものだ。作家論事典、作品論事典、現代の評価といった大きなテーマ分けがされ、彼を知る、あるいは研究した専門家たちそれぞれにとっての太宰像が披露されている。 私はあくまでも恋しい気持ちで太宰の本を読むし、思ったように解釈したいので誰の意見に左右されるでもないが、物語や随筆についての記述には当時の雑誌等に掲載された書評の抜粋もあり、芥川賞選考で太宰を酷評した川端康成が「女生徒」で大絶賛している一文などは「おお、プロの仕事」と興味深く読み、タイムマシンにでも乗って当時へ立ち戻って生きた言葉を目の前で聞いているような高揚感に背中がぞくっとした。 太宰文学は理屈で解釈してはいけないと思っているから良い気分で読めるばかりではなかったが、知らないことにも多く出会え、なかなか楽しい本であった。 時が経ち、日本を離れ、多くの小説や小説家と出会い太宰との時間が少なくなっても、折に触れ書棚に、まるで墓石のように腰を落ち着けて私を見つめる彼の小説群を前にすると、懐かしさと愛しさが、何度でも込み上げてくる。 太宰治を形容するとしたらどんな言葉を選ぶかと尋ねられたら、私は迷わず “charming” と答えたい。長編も短編も多く残し私はどれもとても好きだが、無頼派と位置付けられた彼の名作たちはもとより、「フォスフォレッセンス」のように夢現な物語がとてもチャーミングな作家だと思うのだ。 ◆ 太宰を「ブーム・メーカー」、本の虫として成長させてもらった存在だと言った母は松本清張に終着した。私にも好きな作家は多くいるが、愛すべきこの小説家への想いを閉じ込めた初恋の時を、私はこのまま止めておくつもり。ネジは巻かない。先へ進めなくたって一向に構わない。何十年と太宰文学に酔いしれながらも人並みに分別は身についたと自負しているし、幸運なことに男を見る目にも長けている(はず)。それを証拠に太宰さんのような男に引っ掛かったことなど一度足りとない(はず)。 6月19日、桜桃忌。ふと思った。太宰さんは一体何人の初恋の人になったのだろう。やっぱりなかなかに罪な人。
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Hopperを追い求める旅
私の家はニューヨークにあるのでぎりぎりニューイングランド地方には属さないのであるが、隣州コネチカット以東のロードアイランドやマサチューセッツは週末のドライブコースで、目的地は決めず目に飛び込んでくる大自然や美しい街並みを眺めるためだけに車を走らせる。 生涯ニューイングランドを描き続けたEdward Hopper をマンハッタンのWhitney Museum で初めて間近に見たのはもう30年も前ではないだろうか。全米有数のリゾート地という名刺とは別に、故郷のもの哀しい顔を見つめたその視線が数ある風景画に美しくせつなく映し出されており、以来とても好きなアーティストになった。 長い時を経てやってきた北海道で、ホッパーに出会うことが多いことに気がついた。以前ブログでもご紹介したが(“Sweet Illusion of Hopper’s New England”)山間、海沿いを走りながら現れる風景が、まるでホッパーの作品がキャンバスからはみ出しているように見え、その瞬間に遭遇するなりとても嬉しくなる。 これは日本海側の沿岸道路で私の好きなドライブラインであるが、人の気持ちにはそっぽを向きながらも寂しげな空気を漂わせている。ホッパーだなあと思う。ちなみにこれらの写真、撮ったままで加工などはまったくしていない。 あまり真面目に見ちゃだめなのよ、「ああ何となくそんなような」くらいの気持ちでごらんいただけると私は野望を果たせたことになる。 明日はOFF. どこへ行こうか、雪解けの進む北海道を走り抜ける。 ホッパーの絵画を追い求める旅は始まったばかり。またひとつ、北海道の新しい暮らし方とKHC(Kate the Hopper Chaser)、ただ勝手に楽しいだけの肩書を手に入れた。
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クリスマス準備ただいまNo.6
“Jingle Bell Rock” by Hall & Oates 私の主観だが、日本のクリスマスの過ごし方はとても華やかだ。宗教行事とは別の捉え方が主体であるからだろうか。子供のいる家庭ならクリスマスを家というケースが多いかと思うが、大人の世界は、例えば私の独身の友人などはパーティー三昧、恋人と極上ホテルステイ、ディナーショーと、言葉からきらきらと星が飛び散りそうなほどゴージャスである。 アメリカでは、クリスマスは一般的に1年で一番静かな日である。離れている家族が帰ってきて共に食事をし、テレビを見たりおしゃべりを楽しんだりする。大学時代、クリスマス休暇で学校が休みになると、学生寮に住んでいた友が一斉に実家へ帰っていく光景を見ながら、ああもうすぐクリスマスだなとしみじみ思ったものだ。私も帰省する一人であった。 一方、街も静まるクリスマス当日に反し、その日までの準備もまた日本にはあまり馴染みの深いものではないかもしれない。 サンクスギヴィング(11月第4木曜日)の午後からクリスマスの準備は始まる。日本にも導入された(個人的には、何かちょっと違うんじゃないかと思うのであるが)ブラック・フライデイもホリデイ・ショッピングのための日で、予め誰に何をプレゼントするか決めておき、一大セールを狙って多くの人が朝早くからデパートの前に並んで開店を待つ。大手デパートなども朝5時オープンなど、かなりの熱である。 家族・親族の多い友人のケースだと、サンクスギヴィングの日、夜にターキーを食べると夫婦は出かける準備をし、その夜0時に始まるブラック・フライデイのセールに夫と妻が手分けして並ぶ。連絡を取り合いながら次々とメモに書かれた品物を買い求め早朝6時、やりきった二人のショッピング第1ラウンド終了。いったん家に帰り仮眠をとり、その日の午後再び買いものに繰り出す。 12月初旬の彼女の家には、かわいらしくラッピングされた方々へのホリデイギフトが50以上も並び、私などはそれを見て毎年感心するというよりむしろ「引っ越しか」と圧倒され魂を抜かれてしまう。 ところで、一般的なアメリカのクリスマス準備は次のようなものだ。 1.カードやギフトのリストを作る。 2.帰省する家族のエアチケットを取る。 3.ディナー(パーティー)メニューを決める。 4.ターキーやハムをオーダーする。 5.ギフトショッピングをする。 6.クリスマスツリーと家を飾る。 7.クリスマスカードを書く。 8.ギフトラッピングをする。 9.クリスマスカードやギフトを送る。 10.パーティーや家族の帰省前の大掃除 など。 我が家は今年は出足が遅れ、今夜ようやくクリスマスツリーを飾っている。アメリカはこの時季大忙しだから、カードやギフトは週明けには送れるようにしておかなければならない。 今日・明日は、大量のリボンとの戦いである。ホリデイソングには「クリスマスに欲しいのはあなただけ」なんて歌詞をよく見かけるが、これが現実。 週明け、己の身体がリボンの切れはしまみれになっているのを想像しただけでくしゃみが出そう。もちろんそれでも、クリスマスは大好きなのだけど。
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Happy Vintage Thanksgiving!
今日のニューヨークはとても良いお天気で、Macy’s Thanksgiving Day Paradeが行われているが、我が家はいつの頃からからパレードを見に行かなくなった。凍てつく寒さに耐えられないのと同時に好きなバルーンが次々にリタイアしてしまったからである。 この写真、30年くらい前のものではないだろうか。デジカメが登場する前の一眼レフで撮影したためかなり哀愁が漂ってしまっている。でもこの頃のニューヨークが好き。 Kermit the Frog にしても、今のバルーンはもっと明るい色合いでトイザラスで手に入りそうなポップな雰囲気を持つが、これはどちらかというとフェルトの人形のような温かみを持つ。この時確か、とても風が強くてバルーンが撃沈しまくっていたのを覚えている。 Kermit the Frog は、1977年に初登場だそうだ。 Raggedy Ann は小さな頃から大好きで、人形はもちろん部屋のカーテンやクッションもAnn のデザインだったなあと、サンクスギヴィング・パレードのたびに思い出した。 Raggedy Ann が初めてパレードに現れたのは1984年というから、この写真はその頃、ちょうど30年くらい前であろう。 こちらもお気に入りのひとつ、Happy Dragonであるが、やはりこの頃よりもだいぶポップな感じに変わってしまった。時は流れ、私は古くなっていく、ということである。 Happy Dragon は何と、1937年に初登場した古株中の古株だ。 アメリカのお祝いだもの、歴代の大統領も練り歩く。今もまだあるのだろうか。 サンクスギヴィングは、イギリスから渡ってきたピルグリムスと彼等を病気や飢餓から救ったネイティブ・アメリカンの感謝祭。ターキーの写真が見つからなくて残念だったが、こういう山車を見るとホリデイ気分も一気に盛り上がるものだ。 最後に登場するのはもちろんサンタクロース。ホリデイシーズンの到来を告げる。 我が家は毎年パレードをテレビで見たのちステーキハウスでターキーディナーを食べ、そのまま日曜の夜まで旅行に出るが、今年は家に友人たちを招いて、夜はフットボールを見ながら大宴会。Traditional Thanksgiving な一日になりそうだ。 Happy Holidays!!
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Solitude to Love
“Free” by Seal loneliness(ロンリネス) isolation(アイソレーション) solitude(ソリチュード) 孤独を意味する英語はいくつもあるが、中でも孤独を自由と捉えた意味を持つものが最後のsolitude である。 子供の頃は大勢で遊ぶことが多かったが、その後わざわざひとりで出直し、芝生の上で本を読んだり花を摘んだりする時間がとても好きだった。そうした日常が高じて25年前、ニューヨークの自宅で気まぐれに作ったのがこの「ソリチュード愛好家組合」。 メンバーは組合長である私のほかに家族や友人20名ほどで、特に会合や報告会があるはずもなく、皆とにかくひとりが好きなのだから、勝手にひとりの時間を楽しみ、そのための工夫があればメールでシェアするという程度の活動、活動という言葉も大袈裟なほどだ。 けれど愛読書や「その気になれるドリンクメニュー」には「なるほど~」と思えるものが多く、先細りするでもなくだらだらと続いている。 日本では未だに電車の乗り方など勝手がよく分からないので単独行動は控えめであるが、NYにいると美術館も映画もひとりで行くことが多い。静かな場所で美しいものを見ると良い考えがいくらでも浮かんでくるものだ。 反対に、何も考えず頭をからっぽにして過ごすのもひとりの醍醐味。昔大学時代の恩師が「疲れるとひとりで映画館やビーチへ行く」と言っていたのを真似てみただけだが、これがよく効く。映画館の場合はホラーや社会派を除かなければリセットにはなりそうにもないが、暗闇の中で人目もはばからずぽかんとしていられる時間もまた、大切な人との会話同様人生を豊かにしてくれる。 ソリチュード愛好家組合にはひとつだけ条件がある。「かっこよく楽しくソリチュードに浸る」である。かっこよく、は何も高いブランディを飲むとか最高級ブランドの家具を部屋に置くとかいうディテールよりも、五感を満たしてくれる過ごし方をするということだ。 美しいものを見、読み、心の震える音楽を聴き、おいしいものを嗜む。四六時中するのではなく、例えば一日の終わりにぽつんとひとり日常という時空から抜け出してこれらに囲まれる。明日を新しい気持ちで迎えるきっかけにもなるのも嬉しい。 発足25年を機に、新しくソリチュード愛好家組合のブログも始めることにした。そちらもそのうちぜひご覧ください。 本日ソリチュード愛好家に捧げるのは、白ミント・ティー。白ミントはふつうのペパーミントよりも軽い口当たりで優しいお味。私は昼下がりや夜寝る前の読書と一緒に楽しんでいる。 いかがです?ソリチュード愛好家組合。組合員番号21番に、登録しませんか?
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才能の行方~No Pipe Dreams
“Blue in Green” by Bill Evans 今日この話をしようと思い立ってから、思い出を手繰り寄せ、NYの家から持ってきた写真の箱を5つ開け、宝箱の中からPLAYBILL(ブロードウェイのミュージカルなど、各劇場で上演されている演目の情報が掲載された小さな月刊誌)を引っ張り出したりしながらだんだん寂しくなってしょんぼりしていたら午前3時をまわってしまい、結局執筆は翌日になった。 90年代、映画と言えば私はKevin Spacey かDenzel Washington だった。彼等を見られる作品なら何でも観た。ハリウッド映画の大当たり年であった1997年の”L.A. Confidential” などはW. 58丁目のDirectors Guild Theater で4度観た、毎回Sheraton New York のロビーで夫の仕事が終わるのを待ちながら。”American Beauty” は郊外の家の近くで2度観た。 1998年、Eugene O’Neill がノーベル文学賞を受賞した後に書き上げた傑作 “The Iceman Cometh(氷人来る)”のリバイバルがやってきて、これにKevinが主演した。当時時間を見つけられずにいた私は千秋楽直前の1999年7月、念願叶ってようやく観に行くことができたのだった。 仲間うちでも早くから話題になっており、もう時効であるので話してしまうと、私はこれをどうしても観たいと思って仕事をさぼり、当時入手が極めて困難だったチケットを1度は夫の伝手で、数回は劇場関係者及び役者の友人に泣きつき、最後はダフ屋から$350の2階席を買ってまで観に行ったのだからどれだけ素晴らしい芝居であったかお分かりいただけるだろう。 クライマックス、彼の演じるセールスマン、Hickey が作品のテーマであるpipe dreams(見果てぬ夢・虚夢)と自分の身の上を語るシーン。情けないことに記憶が定かでなくなってしまったのだが、おそらく約30分間、彼がたったひとりで話し続ける。長い長いセリフと身のこなし、その迫力に圧倒され、「これがプロの仕事か」と観るたび心も体も震えたものだ。 ショーが終わると観客は、私も同様に役者の出待ちをする。やがて姿を現したKevin を拍手で迎え、彼はにこりともせずに端からひとりひとり、手の届かない後ろのファンにもぐっと手を延ばしてサインに応じた。笑みもなく言葉も交わさないがやり取りがとても丁寧で、観客とのそうした一定の距離感がまたたまらなくかっこよかった。 私は、憧れのムービースターの内面や私生活にまったく興味がない。露出している部分で秀でているところを見せつけてくれればそれこそがファンにとっての醍醐味だと思っている。本来才能とはエキセントリックなものだもの、世に名を残す人、特に役者のような、別人格になるのを生業としている人には少なからず「普通でない」部分があっていい。 また素晴らしい役者だからと言って素晴らしい人間とは限らない。役者に限ることでもない。ただ彼は人を、多くの人たちを傷つけてきたというのだから、その人たちの心が癒えるだけの代償を長い時間をかけて払っていかなければならないのだろう。 人の数だけ人生があるように、愛し方にも決まった形などあるはずがない。男性であろうが女性であろうが。けれど愛は必ずや、平等な立場の上に成り立っていなければならない。 ドラマも映画も降板が決まり、今、諦めきれないほどに残念でならない。例え彼の才能が類まれなものであっても、社会は、道徳は、人の心はそう簡単に許してはくれない。が、おそらく彼には目指すところがまだまだあったのではなかろうか。それがpipe dreams に終わらぬよう願うばかりだ。 ◆ そう言えば、2度目の時だったろうか、私の斜め前の席に日本のこちらも名優、仲代達也氏がいらした。赤と白のギンガムチェックのシャツにジーンズがとてもよくお似合いで、やはり一般人とは違う才能の輝きを放っていた。きっといつかHickey を演じられるのだろうと思っていたが、その話を耳にすることはなかった。 そして来春、この”The Iceman Cometh” がDenzel Washington 主演でブロードウェイに帰ってくる。観たい。その頃NYに帰れないものか。小さな野望が頭をもたげ始めた。
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月に願いを~Under the Space Window
“Claire de Lune” composed by Claude Debussy, played by Michel Beroff 私は子供の頃、月が天国だと思っていた。誰に教えられたわけでも絵本に書かれていたわけでもない。ただ、そう思っていた。それが就学前に買ってもらった学研の百科事典に月面の写真を見た時の驚愕。夢を壊されたような気持ちを今も忘れない。 これはまったくの余談。 ほんの一時であったが学生時代を過ごしたアメリカの首都ワシントン。学びの多い都市だと訪れるたび思う。私の女子大生時代はまだ治安も悪かったが、今は夜間でなければ安心して歩けるのも嬉しい。 ここは、Washington National Cathedral, ワシントン大聖堂である。 いつ訪れても不思議とこのように青い空の中にありながらこの世のものとは思えない威厳と清らかさをバリアにしている。本当に、いつどう撮っても浮き上がって見え、やはり神様のいる場所であると、プロテスタントの私などは思ってしまうのである。 ワシントン大聖堂は聖公会の教会である。聖公会はカトリックとプロテスタントの中間に位置付けられるとされている。さまざまな宗派の礼拝堂が配置されているところも興味深い。 正面の礼拝堂は一部のアメリカ大統領の就任式や要人の葬儀など、重要な行事を取り行う場所でもある。一面に漂う荘厳な冷気に、罪深い心が洗われていくのを感じる。 思ってもみなかったのであるが、世界に残る最後のゴシック様式建築物としても知られるワシントン大聖堂。そう知ったら余計に石柱やステンドグラスの美しさに心を奪われる。私たちのみならず、周囲の人たちも老若男女みな、無言で辺りを見回していた。 またここは1968年3月31日、マーティン・ルーサー・キング Jr. が翌4月4日にメンフィスで暗殺される前の最後の演説をした場所でもあり、彼のニッチも永遠の平和を得て、穏やかに佇んでいる。彼やマルコムXに関する書物を読むたび、生きる自由と心の安寧が何より幸せであると何度でも思い、この人生に感謝する。 数あるステンドグラスの中で大聖堂の正面を飾る、「ローズ・ウィンドウ」。 1976年に設置された、女王の胸元に光るブローチさながらの華やかなステンドグラスは直径約8m、放射状の模様は創造の持つ威厳と神秘への祝福を表しているのだそうだ。 配色には古代ギリシャのエンペドクレスによる四元素、火を意味する赤、空気のグレー、水はグリーン、そして地球を表すブラウンが主に使われている。 ここで一番好きな窓が 「スペース・ウィンドウ」。アポロ11号で月面着陸を果たした二ール・アームストロング船長はじめバズ・オルドリン並びにマイケル・コリンズの3人が地球に持ち帰った「月の石」である。当時NASAでアポロ11号の任務に当たっていたトーマス・O・ペイン博士によって寄贈された。 この石は彼らが月の「静かの海」から採取したもので、7グラムととても小さい。さらに驚いたことに、この石は36億歳だという。宇宙の何故は知ろうとすればするほど混乱する。 ◆ 私も今では天国が月にないことは分かっている。だいたい人が歩いてしまったのだし。けれど月の石の下に立つと、何故だかどうしても手を合わせたくなる。大好きで大好きで大切にしてもらった、この世で一番の理解者の祖母が天に召された時私はホノルルにおり、別れに立ち会うことができなかったことが今も心残りとなっていて。 だからスペース・ウィンドウに出会ってから、私は必ず祈る。これが最も私に近い月で、こじつけでもそこは祖母のいる天国だと思いたいのだ。優しくてお茶目な祖母のことだ、私が祈れば応えてくれているに違いない。 最後に、このパネルを是非見ていただきたいと思い掲載させていただきました。 「ヘレン・ケラーと彼女の終生の友、アン・サリヴァン・メイシーは、このチャペル裏の地下墓室に埋葬されている」 パネルの上部と下部を見比べて、あなたは何をお感じになられましたか。 Washington National CathedralOfficial Website
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カウガールは甘くない:Being a Cowgirl is Hard to Do
“Red Neck Woman” by Gretchen Wilson ある夏、ダラスに住む友人カール、モニカ夫妻をいつものように車で各地を旅しながら10日をかけて訪れた。 テキサスは私たちの宿敵であるが(テキサス恐怖症~Texasphobia参照)学生時代からの仲であるこの二人が私は大好きで、テキサスが近付くにつれファイトモードになりつつも楽しみでならなかった。 広大なテキサスらしい大きな屋敷に滞在中、彼等はカウボーイの町、フォートワース・ストックヤーズ (Fort Worth Stockyards) を案内してくれた。 ここは1866年以降家畜のせり市として名を馳せ、1976年国立指定歴史地域となった町。現在せりは行われておらず、昔らしさもどの程度残っているか定かではないが、カウボーイ・カウガールのパレードやロデオなどウェスタンの世界を満喫できる有名な観光名所である。 道行くリトル・カウガールに目が留まる。こういう風情が日本にもあれば国全体の文化的ブランド力が随分と上がるであろうにと思う。 遠目で申し訳ないのだが、生まれて初めて見るカウガールはキラキラと眩しいほどに美しく、まるで馬を操る生けるBarbieという感じだ。 あ、ほんとにそっくり。 私たちが見たのは彼等の息子が楽しめるファミリー向けのショーで、カウガールのマーチやロデオ、子供の牛追いならぬポニー追いなどほがらかなアトラクションばかりでとても楽しかったのであるが、私の目はとにかくカウガールたちに釘付けで、あることが頭に浮かび最後はショーを見るよりぼや~んと考え事をしていた。 ショーの後、カウガール・ミュージアムを見て廻りながらますますその世界に引き込まれた。そして「私はこれに、2,3日なれないか」というオコガマシイにも程がある図々しい欲が頭をもたげ始め、となったら本能先行型であるので早速館内案内をしていた女性に尋ねてみた。 「カウガールになるには、どうしたらいいの?」 彼女は実に誠実に、私の子供染みた疑問に答えてくれた。 カウガールになる最低条件は、 1.カウボーイ・カウガールとテキサスの歴史を学ぶ 2.これを天職と思えるか何度も自分自身に問いかける 3.カウガールらしい身なりをする 4.何度も牧場を訪れる 5.カウガールの仕事を知る(馬に乗り、牛を追う。家畜の世話など) なるほど「学ぶ」に関しては抵抗はないし、カウガールのアウトフィットはかわいいから文句なし。馬術経験者なので馬に乗るのも問題はない。やりたいことがあれば住む場所などどこでも良いし、テキサスなら敵陣に乗り込むようなものだ、行ってやろうじゃないのってくらいである。けれど威勢の良いのはここまでであった。 2、4、5で私は振り落とされることになる。 問題は、牛だ。 カウガールのカウ (cow)、は「牛」である。ゆえに牛の世話は欠かせない。あああ。 「カウガールになるかどうかは懸命に牧場で牛の世話をしてからの話よ、一日中きれいにしていられるとは冗談にも言えない仕事だから」と言い「彼女たちの服装にしても機能性重視であっておしゃれという認識は半分以下ね」と続けた。 彼女の言葉でテンションは8割方落ちた。 さらに「あ、そういえば」ふと思い出したくもないことを思い返してしまった。9歳の時、キャンプの朝牛舎の2階から干し草を落とす手伝いをしていた際干し草に足を滑らせ、穴から牛の背中目がけて落っこちたことを。その際あの牛舌で頭をベロリと舐められ、以来牛が強いトラウマになったことも。 おまけに重労働を強いられるカウガール、血の滴るようなこんな肉だって食べられなければやっていかれない。しかしこのステーキはもう凡人の許容範囲を優に超えている。 恐るべしテキサス。ムリムリ、私には絶対に無理。第一、書く仕事を諦められるのかというと、やっぱり無理だ。 情けない目で夫を見ると「あたりまえじゃん」と言いた気に口元でせせら笑っている。 無念だ、今回もテキサスに完敗である。カウガールの夢は、奇しくも修行どころか憧れの入口でその日のうちに萎え消えた。 帰路、カウガールになろうという女性たちはどういう夢を持ってその道へ赴くのかずっと考えていた。クールな人生の構築か、歴史・文化継承の担い手か、あるいはファミリービジネスか。結局私のような軟弱な女には想像もつかなかったが、ひとつだけ確実に感じ取ったことが大きな収穫となった。 Being a cowgirl is one big commitment. とてつもなく大きな決断だ。カウボーイ、カウガールには日本の武士道に似たハードボイルドなところがあると思うのだ。生半可な気持ちでは続けることどころか入り込むことさえできない。そして楽しむことは大切であるがそれ以前に、常に冷静に、ひたむきに従事するという固い決意がなければ結実しない生き方なのだというものだ。 この日出会ったカウガールたちもきっと、可憐でプレザントなだけでなく、気骨のある内面を持ちハンサムに生きているんだろうな。 とても適わない。大した取り柄もない我が身をちっぽけだ、不器用だと苦々しく見つめ直すも「彼女たちの気骨を身につけよう」という目標を得て、最後には満たされた気分でフォートワースを後にした。 ◆ 余談であるが、その年の10月、モニカから荷物が届いた。中にはカウガールのコスチュームが入っており、カードには「夢を叶えてね」と書かれてあった。 友の小さな夢を実現させようという温かい友情に思わず衣装を抱きしめた。にもかかわらず最後の「それを着てOTB(場外馬券売り場)へ行かれたら20ドルあげるよ~」というところを読むなり真意を測りきれなくなるケイティであった。…
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思い出と再会する回廊~雨竜町「豆電球」の不思議
“或る日突然” by トワ・エ・モア(1969) 私は昭和生まれの人間だから、昭和の香りには敏感だし、懐かしいし、とても恋しい。ましてや日本で大人になることなく渡米した我が身我が心は日本にいると時折記憶の中で生きているような気がしてならず、ヴィンテージ・ジャパンを探し求めて彷徨い歩くこともある。 東京にいると浅草や柴又がそれに当たるが、遠く離れた今、北海道でもようやく、ちょっと寂しげなそんな気持ちを満たしてくれる宝もののような場所に出会うことができた。 北海道雨竜郡雨竜町、「豆電球」というその店はリサイクルショップと称しているが、夫は店のマダムに「いいえ、ここはミュージアムです」と言っていた。 店の建物は旧雨竜中学校をオーナーさんが13年前に移築されたもので、敷地に入るなりタイムスリップしたような気分になる。 扉を開くと、遠い昔暮らしの中にあった古い歌が流れていて、私はもうするするとタイムワープし身体さえ小さくなったように無邪気な少女の頃に戻っていた。 昭和以前にまで遡る錯覚と、その世界をつくる古きものたち。 私から上の世代はノスタルジアを覚え、この店のマダムが言われた「世代によって感じ方が違うようですよ」の言葉どおり、若い世代には新鮮で刺激的に映ると言う。 この座敷、奥に文机があるが、ちょっとくたびれた浴衣に身を包んだ文豪が背を向け万年筆で原稿用紙に向かっている姿がふわんと浮かぶ。 流行の古民家カフェなど営む人たちも「豆電球」にインテリアを求めて通うようだ。 手前の愛くるしい車は、オーナーご夫妻の息子さん自作。 よく見てみると、病院などの大きな看板が使われている。ニューヨークやパリの街角に止まっていてもしっくりきてしまいそう。材料も風合いもアンティークでありながら新しい時代を颯爽と生き抜く潔さを持っている。人もこうありたいと思う。 ヴィンテージとは思えないほどにミントなオート三輪車は、1963年製MAZDA T600 。寄贈品で「永久保存展示品」。オーナーさんの言葉をお借りすると、「戦後の急発展中の日本を、輸送で強く支えた名車」。 明治・大正・昭和生まれも、また平成生まれも必見の風格。 私の母は若い頃ファッション業界におり、行きつけの生地屋さんがあって私もよく連れられて行ったが、このネオンをそこで見た記憶がある。そして不思議なことに、 「あ、これ知ってる」と呟いた途端、私がまだ3つくらいの頃の母が、彼女が着るととてもよく似合ったデニムのロングワンピースで仕事部屋を立ち回る姿が目の前に現れたのだ。 思わず夫にも「若い頃のママがそこにいる」と言い「しっかりしろ」と窘められたが、あまりに懐かしくて、嬉しくて、そして帰らぬ日々を実感して泣きたくなってしまった。 翌日母に電話をすると「あら、そうだった?」と素っ気なく言われてがっかりしたもののこの店を訪れることがなかったら、おしゃれでかっこよかった当時の母に再会することはなかったろう。 「豆電球」は、昭和に、というよりも昭和を生きてきた人たちが自らの思い出ともう一度出会う場所なのだと知った。 長い渡り廊下には家具や食器が「整列」している。その様子は、子供たちが先生のホイッスルで一列に並んでいるようにも見えるから「整列」。 歩くたびにぎぎっと鈍い音を立てる床の音にも聞き覚えがあり、懐かしさが心を潤していくのが分かる。 曲がトワ・エ・モアからグループサウンズ、百恵ちゃんの「いい日旅立ち」へと変わり、思わず口ずさむと、いくつぐらいの時だったろうか、当時女の子なら誰もが夢中になって遊んだゴム飛びを、幼い私が友人たちとしている光景が脳裏を過ぎった。 するとマダムが、「うちに来てくださるお客さまはね、皆さん店でかかる歌が懐かしいって、店内を歩きながら歌われるんですよ」 すごくよく分かる、その気持ち。 “いい日旅立ち” by 山口百恵 この店にはインテリアにもできそうなヴィンテージのミシンがいくつもおいてあり、この日も若い女性がひとつ買っていった。何に使うのかな、尋ねてみればよかった。 もちろんウラングラスも置かれていた。その横にはリトファニーが施された茶碗。照明をあてて怪しく浮き上がる日本髪の女性の顔はヴィクトリア時代のイギリスで人気を博した日本の技とデザイン。 カメラを向けると夫が「そ、それはやめておいたら?」と言うので思い留まった。そのくらい妖艶で、何やら今にも話し出しそうな、魂を吸い取られそうなほど精巧に(ちょっと不気味に)できていた。 薄暗い蛍光灯の明かりにも、つつましいながらも力強い戦後昭和の暮らしが見える。子供の頃の、おばあちゃんちを思い出しませんか? 「豆電球」は営業日が週3日。これだけの広さとボリューム、本当に博物館にいるように楽しめるのに「もっとお店を開けてはいかがですか?」と伺うと、「いいええ、3日が精いっぱいなんですよ」 理由がおありですか?「あとの4日は仕入れたものや陳列しているもののお手入れをしてるんです」 そう、この店に置かれたものすべて、ゴミやほこりがまったく見当たらないのだ。 リサイクルショップや古道具屋へ行くと、商品として並んでいるものも所有者が持ってきた時のままを思わせるほこりが積もっていたり、古いタグが貼りっぱなしだったりするもので私たちもそれを当然と思っているところがあるが、伺ってあらためて感激した。 オーナー夫妻の、長い年月を掛けて完成させた大切な店と、心を傾けて選んだものたちへの愛が店内いっぱいに溢れている。だからこの店の空気は柔らかく、温かいんだ。 私はこのコリドーがとても気に入った。ここに立っていると、あの突き当たりの角から記憶の外に消えていた思い出たちがあとからあとから私に向かって歩いてくるようだ。 お菓子やタバコのパッケージ、どれもとても状態が良い。きっと誰かが子供の頃、クッキーか何かの缶に大切にしまっておいて時々開けてはにんまり笑っていたのだろう、「コレクション」と呼んで。 昔の、田舎の文房具屋さんてこんなだったんじゃないかしら。そう思わせる一画には実際にノートや鉛筆、ぬりえ、小さなおもちゃなどが楽しげに並べられている。 目敏い夫が見つけたこの「くれよん」を私は初めて見たが、とてもかわいらしく、しゃがんで顔を近付け眺めてみる。運動会や「良い歯の子」の賞品だったのではないかと想像していたら、この小さな箱がとても特別なものに思えてきた。 この場所でマダムにお話を伺っていると「あのスイッチ、大きいでしょう?ふつうに使ってるんですよ」。彼女の視線を追って振り返るとそのサイズに言葉が出ない。 オーナー夫妻の遊び心、ものを作る楽しさと、作ったもので見る人を楽しませる優しさが心に沁みてくる。この時、ああいい時間だな、そう思った。 マダムはとてもかわいい方で、会話の中で最も多いのではないかと思った言葉が「夫がね」。 「夫がね、木工の作業をずっとしているでしょう、だからひと息つけるような空間を作ってあげたかったの」 荒れた庭地を土づくりから始めて何年も掛けて造り上げられたこの庭は、ご主人さまへの思いを注いで仕上げられた見事なものだ。 なるほど癒しの庭には心に安らぎを与えてくれる清楚な草花ばかりが美しく咲いていた。 この庭には一切肥料を使っていないのだそうだ。「愛情の勝利ですね」そう言うとマダムは小さくこぶしを上げて「そうかしら」と笑ってらした。 楽しいひとときをいただいたお礼を言うと、「こういう出会いが何よりの幸せ」とマダムは外まで見送ってくださった。外はすっかり日暮れ時で、店は閉店時間を過ぎていた。 ◆ 帰り道、とうに忘れていた昔のことが途切れることなく思い出され、ずっと話していた。名前さえ忘れていた友達の顔も、いくつもいくつも蘇った。 もしもあなたに会いたくても会えない懐かしい人がいたならば、「豆電球」へ行ってみて。きっとその人があの回廊であなたを待っていてくれるはずです。…
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旭川のいなせな夏。永山屯田まつり2017
日本各地、夏祭り真っ盛り。北海道も毎週末どこかしらで花火大会同様大小さまざまな夏祭りが開催されている。 旭川も、来月3~5日の「旭川夏まつり」に先駆けて29、30日と「永山屯田まつり」が開かれた。毎年最も楽しみにしているイベントのひとつだ。 旭川夏まつりには規模も内容も到底かないっこないわけだが、こんなに粋でカッコイイ祭りはないと、おそらく殆どの地元住民が思っているに違いない。私などは5月になり、風が柔らかくなり始め窓を開けられるようになると夜毎聞こえるお囃子の練習に早くもソワソワし始める。 永山屯田まつりは今回が31回目。旭川が発展するにつれ住民のライフスタイルが変わると地域のコミュニケーションが希薄になった。これを憂いた市民委員会、商業団体、農業団体が住民のための「手作りの祭り」をつくろうと1984年に誕生させたのがこの祭りと言う。 祭りを最高に盛り上げるのは30~40に及ぶとも言われる山車のパレード「屯山(みやま)あんどん流し」だ。当日夕方になると、これを見る為に近隣住民は沿道に集まる。デッキチェアをセットしたり、中には家の玄関先でジンギスカンパーティー(地元では「ジンパ」と呼ぶ)をしながら楽しむ人たちもいる。 静かな住宅街での催しものであるため道路もそう広くはなく、行燈は少しずつ間隔を置いてゆっくりと通り過ぎていく。お囃子と掛け声に、小さな子供は一緒に叫び、踊る。子供の声、人々の笑顔、歓喜の踊り。ここには平和が凝縮されているなとつくづく思う。 あんどん流しの主役は、道内最大級の和太鼓「永山屯田太鼓」。サラシを巻いたうら若き乙女が2人1組で意外にも淡々と打ち鳴らす姿は圧巻、そして何ともいなせだ。「いなせ」という言葉は主に江戸っ子の男性に対して使うものらしいが、なんのなんの、旭川の女たちの雄姿こそ「いなせ」という言葉がぴったりである。 あ、もちろん男性陣も。荒々しく逞しい姿は祭りの花だ。 あんどん流しのアイドル、とは私が勝手に言っているだけであるが、毎年楽しみにしている旭川農業高校の行燈。目が赤く光り、首が動いたり口から煙を吐くこともある。 躍動感のあるとても美しい行燈。この高校は生産物の販売など、地域への貢献度も高い。 こんなアクロバティックな行燈もある。2時間にわたる屯山あんどん流しはずっと立って見ていても飽きることもなく、気分が高潮しているから疲れも感じない。あとになって「こ、腰が・・・」ということにはなるのだが。 後先になったが、あんどん流しのトップを切ったのは永山小学校。見ていてとても微笑ましく、掛け声もかわいい。 交差する行燈に沿道の観客の心も躍る。こうして行燈は行き過ぎ、最後は「おまつり広場」に集結して最後の盛り上がりを見せ、フィナーレを迎える。 おまつり広場では、すべての行燈が輪になるように集まり、しばしそれぞれに乱舞する。訪れた私たちも大きな掛け声に続き、屯田まつりの最後を共に飾る。 今年は2日間天候に恵まれ、涼しさも助けになったか夜にも関わらず多くの地元住民や観光客で大いに賑わった。やはりとてもよい祭りだ。私はそのうちニューヨークへ帰っていく身であるが、屯田まつりのあとは必ず「老後もここにいようか」と考える。冬の寒さは厳しくとも、穏やかに楽しく暮らせる旭川が好きで好きでたまらない。 ◆ 夜が更けて今、東の窓からひんやりとした風が舞い込んだ。誰もが感じる祭りのあとの寂寥感がせつなくもあり、心地良くもある。 こうして無事に屯田まつりが終わり、来週の夏祭りが終わりお盆が明けるころ、道北旭川には秋風が吹き始める。
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Sanctuary Named “God of the Forest” (森の神様)
“Fall In” music by Esperanza Spalding 北海道にもようやく春が訪れて、と言っても日中まだまだ15度に満たない日も多いのでジャケットやストールが必要な日も多いのであるが、それでも日差しの明るい晴れの日には森だけでなく街中の緑もどんどん育ち、人の目にも心にも活力を与えてくれるようになった。そんなとき、日々色濃くなっていく木々の葉に命の強さを感じる。 パワースポットというカルチャーワードを私は日本に来て初めて知ったが、まさに命に力を与えてくれる場所だと言う。信仰を持つ人にとっては勿論聖地と呼ばれる「神聖な場所」が実際に存在するが、信仰を持たない人にとってのサンクチュアリーは心にエナジーと安らぎを与える場所であり、自然と心が赴くのもまた信仰のひとつなのかなと思ったりもする。 もうだいぶ前のことだが、私が愛して止まない隣町、東川町の小さな骨董品店に立ち寄った折、首振りのかわいいキタキツネの置きものに目が留まり「ニューヨークに帰る時のお土産になりそう」と夫と同時に肯いて手に取るなり「紅茶でもどう?」と勧めてくれた店主さんの言葉のままに座り込んでお茶をいただいていると、私たちが選んだキタキツネは「オンコの木」でできていると言われ「初めて聞く名前です」と答えるとイチイ(またはアララギ)という種類でオンコという名は北海道や東北で呼ばれるのだと教えてくれた。 それから神話を織り交ぜながら木々に纏わるさまざまな話を聞かせてくれた中で「森の神様はカツラの木で」の「カツラ」ではなく「森の神様」という言葉に私の好奇心アンテナがトゥルトゥルと両耳から立ち上った。その店に行ったのはクリスマスの頃で道北はすっぽりと純白のパウダースノーに覆われており、森の神様には春から秋でないと会えないのだと言われて(雪が深い為森の中に入れないというだけ)ひたすら次の春が訪れるのを、デスクの前に「森の神様に会いに行く」と書いて待った。 森の神様は、私の家から程近い美瑛町の、何でもない深い深い森の中に、いる。東川町から天人峡までは道道213号線一本道なのだが、森の神様は経済効果をもたらすような観光スポットではないので大きなゲートやましてや売店などあるはずもなく、道路沿いに「森の神様まで400m」の看板があるものの北海道生活5年目にもなる私はこれを頼りに辿り着けたことがまだ一度もない。必ず通り過ぎては戻ることになる。 そうして2キロほども行き過ぎてからUターンし、ゆっくり左側を注視しながら戻っていくと、小さな立て札が見えてくる「森の神様」とだけ書かれた立て札が。 213号線から車で林道に入るとしばらくして行き止まり。その奥に森の神様が鎮座している。 北海道森林管理局の公式発表によると、この木は推定樹齢900年、幹の周りは11メートル以上、高さは31メートルにも及ぶという。 神様だ、と誰もが思うのではなかろうか。周囲には無数の木々が立つもそれらがまるでこのカツラの巨木を崇めるかのように少し距離を置き、守るかのように囲って立ち並んでいる。1本の大木ではなく数本が天高く伸びている様子は何か物語が潜んでいるようにも見え、威厳というよりも凛としている、の方がこの木にはよく似合う。 道道を走る車の音が聞こえないのは鬱蒼としている森のためか、それとも人間には見えない神秘のヴェールがこの場所を包んでいるからなのか、森の神様の袂に立ち、聞こえてくるのは風と、さやさやという木の葉の触れ合う音、そして時折微かに響いてくる鳥のさえずりだけだ。 森の神様の前に立ったら、まず下から上へ向かって眺めてみる。右へ左へと伸びている枝はしなやかな女性の腕にも似て、訪れた私たちを優しく迎え入れてくれているようだ。角度によって違って見える森の神様、ゆっくりぐるりとひと回りしてみるとその大きさに驚き、900年もの間どれだけの生きものたちを見守ってきたのだろうと思う。 ここに来て必ず気付く。大地から頭の先へ向かって何かが辿り上がって来、実際に吹いている風とは違う清々しい気がまっすぐ胸に入り込んでくる感覚。いい気持ちだ。 ここでの深呼吸は森の神様を仰ぎながら、降り注ぐ生命の粒とそこに湛えた閑けさをいただくようにするのがいい。いつもとは違う穏やかな気持ちで帰れるはずだ。それからそうっとその体に触れてみるといい。疲れた心を癒し、浄化してくれるはずだ。そして話をしてみるといい。何かよいことを、幸せな生き方のヒントを教えてくれるはずだ。 カツラには香りがあるのだそうで、森の神様に近付いていくといい香りがすると言う。これを感じられるようになるにはまだまだ森を歩く必要がありそうだがひとつだけ確信したのは、この木が私にとって初めての、心のサンクチュアリーになったということだ。 美瑛や富良野、旭川の観光名所巡りに疲れた頃には半日時間をとってほんのひととき森の神様と過ごしてみるといい。北海道の美しさをまたひとつお土産にできるだろう。 「森の神様」というソフトな名前もいいものだなと思ったら、これは1998年に美瑛町の小学生たちが命名したのだそうだ。森の神様もきっと、子供たちの清らかな心によってつけられた自身の名を気に入っているに違いない。 北海道森林管理局「美瑛・森の神様」 美瑛町ホームページ 「ようこそ東川」ホームページ all photos by Katie Campbell / F.G.S.W.