Category: F.G.S.W. Faves
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恋のまち札幌のクリスマス2017
Merry Christmas, friends, family and lovers! “Wonderful Christmastime” by Paul McCartney 今年も恒例の札幌「ミュンヘンクリスマス市」に行ってきた。ちなみに札幌市とドイツのミュンヘンは姉妹都市である。 12月23日、天皇陛下のお誕生日である昨日は土曜日の祝日とあってか北の大都市・札幌も交通が緩やかだったが、街には既にクリスマスが待ち遠しい恋人たちや家族連れ、仲良しグループで溢れていた。 雪も厳しい寒さも小休止で気温も2℃と過ごしやすく、2時間ほど歩くにはちょうど良い陽気となった。いつもならファーのたっぷりついたフードのベネトンのスノージャケットを着て行くところが今年は必要がなくて助かった。このフードをかぶると頭部が巨大になり1時間歩くとだいたい20人くらいに笑われるからである。 本場ドイツのホリデイマーケットには到底適いっこないが、ドイツやロシア、ポーランドの工芸品やグルメを集めたあったかい札幌のクリスマス市はかわいらしく活気があって、とても楽しい。私は今年で5回目、これを逃しては年を越せない。 どのブースも小さいが、ところ狭しと飾られたオーナメントや雑貨に会話も弾む。ちょっと高価な雑貨を前に男の子が「もっと稼ぎがよければなあ」というと女の子が「私、別にこんなの欲しくないよ、こっちの方がいいな」と言って小さな木彫りのサンタクロースを手に取っている光景に心が温まる。つい「この二人はdestinyだ」と勝手に思ってしまう。 今年のクリスマスツリーはとてもよかった。クラッシックで温かで。奥に立つテレビ塔との相性もそう悪くはないし、周囲の人たちは皆スマートフォンやiPad を向けて何度も何度もシャッターを切っていた。 ミュンヘンクリスマス市の常連のこの店を見つけると、ああ今年もクリスマス市に来たなと華やいだ気持ちになる。置いてあるものが少し高いけどね。 光はイエス・キリストの誕生を象徴する大切な存在。人並みから外れて立ち止まりしばらく見つめているだけで神聖なクリスマスの空気が身体の中に注ぎ込まれるようだ。 毎年大人気のローステッドアーモンド・ショップ。前を通るとシナモンの良い香りに引き寄せられる。温かいグリューワインを飲みながら店の様子をうかがっていると、1000円札がカウンターを飛び交っていた。元気な札幌、豊かな日本に胸が躍る。 アーモンドショップの2大スターはムービースターのようにかっこいい。にこりともせずひたすら仕事にかかっているから余計にかっこいい。King of Christmas Market・サンタクロースも素敵、でも私は断然こちらである。 我が家は毎年このマトリョーシカのお店でオーナメントをひとつずつ買っている。ここも人気のブースで、このほか約300年前に誕生したと言われているロシアの伝統漆塗り「ホフロマ/Khokhloma)の漆器や、ロモノーソフ(現在はインペリアル・ポーセレン)と並んで知られるグジェリの食器なども見かけた。 マトリョーシカは何とかわいい工芸品だろう。これもいつも思うのであるが、若い恋人たちが楽しそうに工芸品を選ぶ姿はいいものだ。二人のクリスマスの思い出の品にもなるし、「ロシアってすごいねえ」という一瞬(どこらへんが?)と尋ねたくもなっちゃうが、とにかくイカした日本、素敵な外国を知る機会をこんなふうに身近に得られるのは幸せなことだと思うのだ。一度きりの人生だもの、たくさんのことを知りたいじゃないの。 今年この店で選んだオーナメントはこれ。我が家のオーナメントは150を超えたが、よく見てみると青いものがひとつしかなかった。清楚でかわいい仲間が増えて大満足。 恋する二人の記念撮影スポットNo.1はここだろう。クリスマスとヴァレンタインズ・デイが一度にやってきたようなロマンティックなツリー。あとからあとから若いカップルがやってきてはスマートフォンに向かって頬を寄せて、愛らしかった。 一昨日LEDを軽く批判してしまったばかりであるが、ドリームランドな散歩道は無数のLED電球で照らされ、その中を歩く笑顔がどれもとても美しかった。 人生甘いばかりではないけれど、こういう日があるから涙の味に唇をきゅっと結んでしまう日も乗り越え、忘れられる。 札幌も素敵ないい町だ。夫共々我が町旭川が一番だと思っているが、ずっと大都市で生きてきた私たちにとって札幌は肌に馴染む。ちょっとワシントンに似ているかな。ニートで洗練されていて、けれど歴史と文化が街中に漂っている。 スノーホワイトのきらめきに彩られた恋のまち・札幌。気持ちが華やぐ。 さて今年のミュンヘンクリスマス市は今日24日が最終日。 午後9時まで。近郊にお住まいでしたら急いでお支度して。まだ間に合う。 Click Here→ ミュンヘンクリスマス市 in Sapporoオフィシャルサイト
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しれとこ旅情のイノセントな裏切り #2
早い話が、北海道及び国後島に白夜はないということだ。 白夜は緯度が66.6度以北の北極圏で起こる現象で、60度34分以北でも、太陽は沈むが完全に暗くはならないため白夜に分類することがあるという。ちなみに残念ながら、北緯42~45度の北海道で白夜が見られることはないのだそうだ。 オーロラだって見られるのに、白夜があったっていいじゃん、と言いたいところであるがこればかりはどうしようもなさそうである。 なぜ事前に調べていかなかったのか、簡単なことではないか。あらためて愚かな我が身を呪った。加えて知床第1日から興奮し過ぎて夜も早いうちに眠たくなり、ウェイクアップ・コールを頼み忘れ、白夜どころか目が覚めたら午前7時40分。太陽は既にオホーツク海を笑顔で見下ろしていたという始末。 ああーん、白夜が。何も知らない私はそう叫び、朝食を済ませたらロビーで誰かに教えてもらおうと息巻くも、大恥をかく結果に。 ケイティ「すみません、知床で今の時期白夜を見るには・・・」 「どうしたらいいですか?」まで言い切る前に遮られてしまう。 スタッフさん「見たいですよね、白夜。でも残念、北海道では見られないんです」 ケイティ「でもしれとこ旅情の歌詞に」 スタッフさん「あれ、ウソなんです」 ああ、無情。ここまできっぱり言われてしまうと、あとはもうがっくり落っこちた両肩をお見せして完敗を宣言するほかない。 ケイティ「た、大変失礼いたしました」そう申し上げそそくさと退散した。 知床は、西に位置するオホーツク海側の斜里やウトロと東に位置する太平洋側の羅臼(らうす)に分かれるが、私たちはウトロに宿泊しており、斜里ー羅臼をつなぐ知床峠が冬季通行止めだったため、しれとこ旅情誕生の地、羅臼へは翌朝訪れた。 羅臼町は静かな町で、この日道の駅以外で人影を見ることはなかった。歌のとおり、羅臼から北方領土・国後島がくっきりと、とても近い距離で浮かんでいた。 ◆ その夜、ホテルに戻ってからしれとこ旅情が生まれたいきさつについて調べた。 この歌は1960年、当時森繁さんが主演した映画「地の涯に生きるもの」の撮影で訪れた羅臼で、お世話になった村の人たちへの感謝を込めて、この地を去る前夜に作ったものだそうだ(参考: 北海道Style)。慣れない極寒の地での撮影に、羅臼の人たちが尽力したという。 しれとこ旅情に森繁さんは最初「さらばラウスよ」というタイトルを付けたが、ここからも羅臼の人たちへの思いが伝わってくる。 結局、私は白夜どころか日の出さえ見ることなく知床をあとにすることとなった。 森繁さんの「白夜」の解釈に合点のいくできごとがあった。これが実は広く周知されているのか、はたまた私の持論に過ぎないのか、未だ証明できずにいるので仮説としよう。 知床から帰った直後、仕事の〆切が迫り徹夜した日があった。何時間もPCに向かい、肩が凝って首を回すとカーテンの下からうっすら明るい青が射し込んでいる。時計を見ると午前3時15分。驚いてカーテンを引くと、外は既に本を読めるほどに明るかった。 北海道の日の出がとても早いことを、その時初めて知った。首都圏で生まれ育ちアメリカでもいくつもの都市を渡り歩いたが、これほどまでに朝が早くにやってくるところは初めてだ。 そして思ったのだ。森繁さんの映画のクランクアップは7月だったというから、北海道の夏の朝事情を知らずに「白夜」と表現されたのではなかろうか。羅臼の人たちとのお別れに即興で作ったしれとこ旅情にはきっと、森繁さんの無垢な心が見た、蒼白い羅臼の夜明け前が映り込んでいるのだ。 マヌケなだけで終わった「しれとこ旅情・白夜探偵」であったが、一応の答えに出会えた思いで私の追跡は完了した。 森繁さんのあの歌詞から「白夜論争」というのが起こったのだそうだ。森繁さんは白夜を「びゃくや」と読ませたが、本来は「はくや」と言うのだそうだ。これを指摘した国語学者・池田彌三郎氏に対し森繁さんは(どうやら彼とは知り合いだったようであるが)、 「そんならあんたは白虎隊を『ハッコタイ』と読むのかい?」 と返されたという。何というチャーミングなケチのつけ方。森繁さんらしさ全開の押し問答を、その場で聞かれたらどんなに楽しかったろうと、今も時々想像する。 ◆ 結局北海道では白夜を見られることはないことが分かり残念であったが、森繁さんの歌詞には知床(羅臼)への愛がいっぱいに詰まっている。長い長い時を経た今も日本中でこの歌が歌われているのは、的確な描写などではなく、この「愛」が心に響くからだろう。 そもそも詩の世界とは作る人にも自由、読む人にも限りなく自由であるのだから、言葉の使い方が違っても、また描いた景色が真実と異なっていてもよい。むしろ紡いだ言葉で人の心が潤うならば、事実など二の次よ二の次。 ちゃらんぽらんな私などは気にもかけず、今日もしれとこ旅情を熱唱する。 では最後に、森繁さんの歌う「しれとこ旅情」。心が潤います。
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甘くて賢い朝の約束~Rise & Shine w/ Dolcedi
“Precious” by Esperanza Spalding 今日はささやかな朝のおすすめ、のお話。 夜型人間のくせに私は朝が大好きだ。これまでの長い人生で気持ちの沈んだ朝を迎えた記憶が殆どない。失恋しようが仕事で徹夜しようが、朝はなぜだか機嫌が良い。 そして私は平日朝食を摂らない。たっぷりのお茶とフルーツのコンポート&ミューズリーを加えた少量のヨーグルトのみである。が、ここ2週間は先月の多忙が祟り胃を悪くしているためミューズリーは抜いている。 世界中が健康志向を高めていく中、甘味料の見直しも進んで嬉しい限り。白砂糖を使わないという人も増え、我が家もカロリーなど気にしつつ、砂糖の代わりにメープルシロップやオリゴ糖を使っている。 GI値というのがある。Glycemic Index(グリセミック・インデックス)、食後血糖値の上昇スピードを表したものだそうで、食べ方によってずいぶんと変わるのだそうだ。 例えば、米などは精白米よりも玄米の方が食物繊維やミネラルが豊富なためGI値は低くなり、甘味料においても、身体に良いとされるハニーはミツバチが果糖とブドウ糖に分解したもののためGI値が高く、メープルシロップは樹液が原料なので低いという話だ。 小さい頃から”my honey dipper” を持つほどハニーが大好きだが、これを知ってから摂取を控えるようになった。 ハニーに代わって私の「朝の約束」となったのが、イタリアのオーガニックジャム・ブランドRigoni di Asiago社の “Dolcedi” ドルチェディというアップルシロップ。30年間マクロバイオティクスを実践し続けている友人から薦められたもので、100%オーガニックアップルで作られている。 無色透明で甘みが強く、りんごというよりそれこそハニーのような味わいがあるが、GI値が砂糖よりも20%低いという。正直なところこれだけ甘くコクがあると「ほんとかなあ」と呟いてもしまうが、原料のりんごがオーガニックであるところだけでもポイントは高いでしょう? 食生活も、おいしいだけでなく楽しく美しく、そして賢くありたいものだ。これはなかなか良いのではないかと思っている。 ほんの少しの朝食を終えてゆっくりできる朝のお茶は、20年以上愛用しているWilliams Sonomaのカフェオレボウルで飲む。このカップの何が好きかって、ティーポット1杯分が入るキャパシティ。おなかの辺りに抱えて読書をしながらいつまででもお茶をすすっている。 そして傍らにはモリエールの「人間ぎらい」。好きなものをたらふく食べられない恨みをアピールしているわけでは決してない。 それでは新しい1週間もどうぞお元気で、お幸せに。
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Solitude to Love
“Free” by Seal loneliness(ロンリネス) isolation(アイソレーション) solitude(ソリチュード) 孤独を意味する英語はいくつもあるが、中でも孤独を自由と捉えた意味を持つものが最後のsolitude である。 子供の頃は大勢で遊ぶことが多かったが、その後わざわざひとりで出直し、芝生の上で本を読んだり花を摘んだりする時間がとても好きだった。そうした日常が高じて25年前、ニューヨークの自宅で気まぐれに作ったのがこの「ソリチュード愛好家組合」。 メンバーは組合長である私のほかに家族や友人20名ほどで、特に会合や報告会があるはずもなく、皆とにかくひとりが好きなのだから、勝手にひとりの時間を楽しみ、そのための工夫があればメールでシェアするという程度の活動、活動という言葉も大袈裟なほどだ。 けれど愛読書や「その気になれるドリンクメニュー」には「なるほど~」と思えるものが多く、先細りするでもなくだらだらと続いている。 日本では未だに電車の乗り方など勝手がよく分からないので単独行動は控えめであるが、NYにいると美術館も映画もひとりで行くことが多い。静かな場所で美しいものを見ると良い考えがいくらでも浮かんでくるものだ。 反対に、何も考えず頭をからっぽにして過ごすのもひとりの醍醐味。昔大学時代の恩師が「疲れるとひとりで映画館やビーチへ行く」と言っていたのを真似てみただけだが、これがよく効く。映画館の場合はホラーや社会派を除かなければリセットにはなりそうにもないが、暗闇の中で人目もはばからずぽかんとしていられる時間もまた、大切な人との会話同様人生を豊かにしてくれる。 ソリチュード愛好家組合にはひとつだけ条件がある。「かっこよく楽しくソリチュードに浸る」である。かっこよく、は何も高いブランディを飲むとか最高級ブランドの家具を部屋に置くとかいうディテールよりも、五感を満たしてくれる過ごし方をするということだ。 美しいものを見、読み、心の震える音楽を聴き、おいしいものを嗜む。四六時中するのではなく、例えば一日の終わりにぽつんとひとり日常という時空から抜け出してこれらに囲まれる。明日を新しい気持ちで迎えるきっかけにもなるのも嬉しい。 発足25年を機に、新しくソリチュード愛好家組合のブログも始めることにした。そちらもそのうちぜひご覧ください。 本日ソリチュード愛好家に捧げるのは、白ミント・ティー。白ミントはふつうのペパーミントよりも軽い口当たりで優しいお味。私は昼下がりや夜寝る前の読書と一緒に楽しんでいる。 いかがです?ソリチュード愛好家組合。組合員番号21番に、登録しませんか?
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才能の行方~No Pipe Dreams
“Blue in Green” by Bill Evans 今日この話をしようと思い立ってから、思い出を手繰り寄せ、NYの家から持ってきた写真の箱を5つ開け、宝箱の中からPLAYBILL(ブロードウェイのミュージカルなど、各劇場で上演されている演目の情報が掲載された小さな月刊誌)を引っ張り出したりしながらだんだん寂しくなってしょんぼりしていたら午前3時をまわってしまい、結局執筆は翌日になった。 90年代、映画と言えば私はKevin Spacey かDenzel Washington だった。彼等を見られる作品なら何でも観た。ハリウッド映画の大当たり年であった1997年の”L.A. Confidential” などはW. 58丁目のDirectors Guild Theater で4度観た、毎回Sheraton New York のロビーで夫の仕事が終わるのを待ちながら。”American Beauty” は郊外の家の近くで2度観た。 1998年、Eugene O’Neill がノーベル文学賞を受賞した後に書き上げた傑作 “The Iceman Cometh(氷人来る)”のリバイバルがやってきて、これにKevinが主演した。当時時間を見つけられずにいた私は千秋楽直前の1999年7月、念願叶ってようやく観に行くことができたのだった。 仲間うちでも早くから話題になっており、もう時効であるので話してしまうと、私はこれをどうしても観たいと思って仕事をさぼり、当時入手が極めて困難だったチケットを1度は夫の伝手で、数回は劇場関係者及び役者の友人に泣きつき、最後はダフ屋から$350の2階席を買ってまで観に行ったのだからどれだけ素晴らしい芝居であったかお分かりいただけるだろう。 クライマックス、彼の演じるセールスマン、Hickey が作品のテーマであるpipe dreams(見果てぬ夢・虚夢)と自分の身の上を語るシーン。情けないことに記憶が定かでなくなってしまったのだが、おそらく約30分間、彼がたったひとりで話し続ける。長い長いセリフと身のこなし、その迫力に圧倒され、「これがプロの仕事か」と観るたび心も体も震えたものだ。 ショーが終わると観客は、私も同様に役者の出待ちをする。やがて姿を現したKevin を拍手で迎え、彼はにこりともせずに端からひとりひとり、手の届かない後ろのファンにもぐっと手を延ばしてサインに応じた。笑みもなく言葉も交わさないがやり取りがとても丁寧で、観客とのそうした一定の距離感がまたたまらなくかっこよかった。 私は、憧れのムービースターの内面や私生活にまったく興味がない。露出している部分で秀でているところを見せつけてくれればそれこそがファンにとっての醍醐味だと思っている。本来才能とはエキセントリックなものだもの、世に名を残す人、特に役者のような、別人格になるのを生業としている人には少なからず「普通でない」部分があっていい。 また素晴らしい役者だからと言って素晴らしい人間とは限らない。役者に限ることでもない。ただ彼は人を、多くの人たちを傷つけてきたというのだから、その人たちの心が癒えるだけの代償を長い時間をかけて払っていかなければならないのだろう。 人の数だけ人生があるように、愛し方にも決まった形などあるはずがない。男性であろうが女性であろうが。けれど愛は必ずや、平等な立場の上に成り立っていなければならない。 ドラマも映画も降板が決まり、今、諦めきれないほどに残念でならない。例え彼の才能が類まれなものであっても、社会は、道徳は、人の心はそう簡単に許してはくれない。が、おそらく彼には目指すところがまだまだあったのではなかろうか。それがpipe dreams に終わらぬよう願うばかりだ。 ◆ そう言えば、2度目の時だったろうか、私の斜め前の席に日本のこちらも名優、仲代達也氏がいらした。赤と白のギンガムチェックのシャツにジーンズがとてもよくお似合いで、やはり一般人とは違う才能の輝きを放っていた。きっといつかHickey を演じられるのだろうと思っていたが、その話を耳にすることはなかった。 そして来春、この”The Iceman Cometh” がDenzel Washington 主演でブロードウェイに帰ってくる。観たい。その頃NYに帰れないものか。小さな野望が頭をもたげ始めた。
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月に願いを~Under the Space Window
“Claire de Lune” composed by Claude Debussy, played by Michel Beroff 私は子供の頃、月が天国だと思っていた。誰に教えられたわけでも絵本に書かれていたわけでもない。ただ、そう思っていた。それが就学前に買ってもらった学研の百科事典に月面の写真を見た時の驚愕。夢を壊されたような気持ちを今も忘れない。 これはまったくの余談。 ほんの一時であったが学生時代を過ごしたアメリカの首都ワシントン。学びの多い都市だと訪れるたび思う。私の女子大生時代はまだ治安も悪かったが、今は夜間でなければ安心して歩けるのも嬉しい。 ここは、Washington National Cathedral, ワシントン大聖堂である。 いつ訪れても不思議とこのように青い空の中にありながらこの世のものとは思えない威厳と清らかさをバリアにしている。本当に、いつどう撮っても浮き上がって見え、やはり神様のいる場所であると、プロテスタントの私などは思ってしまうのである。 ワシントン大聖堂は聖公会の教会である。聖公会はカトリックとプロテスタントの中間に位置付けられるとされている。さまざまな宗派の礼拝堂が配置されているところも興味深い。 正面の礼拝堂は一部のアメリカ大統領の就任式や要人の葬儀など、重要な行事を取り行う場所でもある。一面に漂う荘厳な冷気に、罪深い心が洗われていくのを感じる。 思ってもみなかったのであるが、世界に残る最後のゴシック様式建築物としても知られるワシントン大聖堂。そう知ったら余計に石柱やステンドグラスの美しさに心を奪われる。私たちのみならず、周囲の人たちも老若男女みな、無言で辺りを見回していた。 またここは1968年3月31日、マーティン・ルーサー・キング Jr. が翌4月4日にメンフィスで暗殺される前の最後の演説をした場所でもあり、彼のニッチも永遠の平和を得て、穏やかに佇んでいる。彼やマルコムXに関する書物を読むたび、生きる自由と心の安寧が何より幸せであると何度でも思い、この人生に感謝する。 数あるステンドグラスの中で大聖堂の正面を飾る、「ローズ・ウィンドウ」。 1976年に設置された、女王の胸元に光るブローチさながらの華やかなステンドグラスは直径約8m、放射状の模様は創造の持つ威厳と神秘への祝福を表しているのだそうだ。 配色には古代ギリシャのエンペドクレスによる四元素、火を意味する赤、空気のグレー、水はグリーン、そして地球を表すブラウンが主に使われている。 ここで一番好きな窓が 「スペース・ウィンドウ」。アポロ11号で月面着陸を果たした二ール・アームストロング船長はじめバズ・オルドリン並びにマイケル・コリンズの3人が地球に持ち帰った「月の石」である。当時NASAでアポロ11号の任務に当たっていたトーマス・O・ペイン博士によって寄贈された。 この石は彼らが月の「静かの海」から採取したもので、7グラムととても小さい。さらに驚いたことに、この石は36億歳だという。宇宙の何故は知ろうとすればするほど混乱する。 ◆ 私も今では天国が月にないことは分かっている。だいたい人が歩いてしまったのだし。けれど月の石の下に立つと、何故だかどうしても手を合わせたくなる。大好きで大好きで大切にしてもらった、この世で一番の理解者の祖母が天に召された時私はホノルルにおり、別れに立ち会うことができなかったことが今も心残りとなっていて。 だからスペース・ウィンドウに出会ってから、私は必ず祈る。これが最も私に近い月で、こじつけでもそこは祖母のいる天国だと思いたいのだ。優しくてお茶目な祖母のことだ、私が祈れば応えてくれているに違いない。 最後に、このパネルを是非見ていただきたいと思い掲載させていただきました。 「ヘレン・ケラーと彼女の終生の友、アン・サリヴァン・メイシーは、このチャペル裏の地下墓室に埋葬されている」 パネルの上部と下部を見比べて、あなたは何をお感じになられましたか。 Washington National CathedralOfficial Website
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Gusto~心になじむもの
“Put Love, Love, Love in It” by John Staddart 「コーヒーメーカーは手入れが面倒だ」と常々思っており、それを理由に長年Chemexを使ってきたのだが先日壊してしまった。新しいものを手に入れるまでの間、さてどうするかと思案した挙句に思い付いたのが、もう30年も使っているカラフェの代用。 さて日曜日の早朝7時前。仕事が立て込んでいる朝はブレクファストを摂らない。健康のためとガマンして飲む青汁のスムージーと4種類のサプリメンツ、そして1杯のコーヒーで私の1日は始まる。食事はせずともコーヒーは必ずその朝の気分でカップを選んで飲む。 なかなかいいでしょう、これ。ニューヨーク北部、マサチューセッツ州との境にある小さなアンティークショップで見つけたカラフェで、1890年代のイギリス製だと聞きながらも安価だったため話半分に聞き、結局はアンティークでなかろうがMade in UKでなかろうが、とにかく姿と色が気に入り持ち帰って以来の付き合いである。 心がとても喜んで、その日からワインがより美味しく、ダイニングがより楽しく、食器棚がより美しく見えるようになった。 Funkyで気取らない我が家のカラフェはホームパーティーの場でも好評で、使う楽しさのみならず見せる楽しさも、この出会いのおかげで味わうことができた。 厚手で深いので保温力にも優れており、使い始めてからすっかり我が家の「朝の顔」。これはもしかするとChemixを上回ってしまったかもしれない。 コーヒーカップは、これももう20年以上使っているTiffany製。当時Tiffanyは、先だってF.G.S.W. Maruがご紹介したBordallo Pinheiro を思わせる(カップに表示はないがおそらくBordallo Pinheiro)ポルトガル・メイドの陶器シリーズをいくつか出しており、このデザインには私のマテリアルガール・サイドが抑え切れず、マンハッタンの本店で見つけるなり購入したものだった。私はこれで紅茶も飲む。 ◆ 手になじみ、心になじむ。ブランドやクオリティに関係なく愛着を持てるものと暮らすのは楽しく、人生の小さな日々を豊かにしてくれる。 だから私は心に従う。心を先頭に立たせて歩き、心の求める出会いに誠実でありたい。このカラフェのようなものにも、人にだって。
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カウガールは甘くない:Being a Cowgirl is Hard to Do
“Red Neck Woman” by Gretchen Wilson ある夏、ダラスに住む友人カール、モニカ夫妻をいつものように車で各地を旅しながら10日をかけて訪れた。 テキサスは私たちの宿敵であるが(テキサス恐怖症~Texasphobia参照)学生時代からの仲であるこの二人が私は大好きで、テキサスが近付くにつれファイトモードになりつつも楽しみでならなかった。 広大なテキサスらしい大きな屋敷に滞在中、彼等はカウボーイの町、フォートワース・ストックヤーズ (Fort Worth Stockyards) を案内してくれた。 ここは1866年以降家畜のせり市として名を馳せ、1976年国立指定歴史地域となった町。現在せりは行われておらず、昔らしさもどの程度残っているか定かではないが、カウボーイ・カウガールのパレードやロデオなどウェスタンの世界を満喫できる有名な観光名所である。 道行くリトル・カウガールに目が留まる。こういう風情が日本にもあれば国全体の文化的ブランド力が随分と上がるであろうにと思う。 遠目で申し訳ないのだが、生まれて初めて見るカウガールはキラキラと眩しいほどに美しく、まるで馬を操る生けるBarbieという感じだ。 あ、ほんとにそっくり。 私たちが見たのは彼等の息子が楽しめるファミリー向けのショーで、カウガールのマーチやロデオ、子供の牛追いならぬポニー追いなどほがらかなアトラクションばかりでとても楽しかったのであるが、私の目はとにかくカウガールたちに釘付けで、あることが頭に浮かび最後はショーを見るよりぼや~んと考え事をしていた。 ショーの後、カウガール・ミュージアムを見て廻りながらますますその世界に引き込まれた。そして「私はこれに、2,3日なれないか」というオコガマシイにも程がある図々しい欲が頭をもたげ始め、となったら本能先行型であるので早速館内案内をしていた女性に尋ねてみた。 「カウガールになるには、どうしたらいいの?」 彼女は実に誠実に、私の子供染みた疑問に答えてくれた。 カウガールになる最低条件は、 1.カウボーイ・カウガールとテキサスの歴史を学ぶ 2.これを天職と思えるか何度も自分自身に問いかける 3.カウガールらしい身なりをする 4.何度も牧場を訪れる 5.カウガールの仕事を知る(馬に乗り、牛を追う。家畜の世話など) なるほど「学ぶ」に関しては抵抗はないし、カウガールのアウトフィットはかわいいから文句なし。馬術経験者なので馬に乗るのも問題はない。やりたいことがあれば住む場所などどこでも良いし、テキサスなら敵陣に乗り込むようなものだ、行ってやろうじゃないのってくらいである。けれど威勢の良いのはここまでであった。 2、4、5で私は振り落とされることになる。 問題は、牛だ。 カウガールのカウ (cow)、は「牛」である。ゆえに牛の世話は欠かせない。あああ。 「カウガールになるかどうかは懸命に牧場で牛の世話をしてからの話よ、一日中きれいにしていられるとは冗談にも言えない仕事だから」と言い「彼女たちの服装にしても機能性重視であっておしゃれという認識は半分以下ね」と続けた。 彼女の言葉でテンションは8割方落ちた。 さらに「あ、そういえば」ふと思い出したくもないことを思い返してしまった。9歳の時、キャンプの朝牛舎の2階から干し草を落とす手伝いをしていた際干し草に足を滑らせ、穴から牛の背中目がけて落っこちたことを。その際あの牛舌で頭をベロリと舐められ、以来牛が強いトラウマになったことも。 おまけに重労働を強いられるカウガール、血の滴るようなこんな肉だって食べられなければやっていかれない。しかしこのステーキはもう凡人の許容範囲を優に超えている。 恐るべしテキサス。ムリムリ、私には絶対に無理。第一、書く仕事を諦められるのかというと、やっぱり無理だ。 情けない目で夫を見ると「あたりまえじゃん」と言いた気に口元でせせら笑っている。 無念だ、今回もテキサスに完敗である。カウガールの夢は、奇しくも修行どころか憧れの入口でその日のうちに萎え消えた。 帰路、カウガールになろうという女性たちはどういう夢を持ってその道へ赴くのかずっと考えていた。クールな人生の構築か、歴史・文化継承の担い手か、あるいはファミリービジネスか。結局私のような軟弱な女には想像もつかなかったが、ひとつだけ確実に感じ取ったことが大きな収穫となった。 Being a cowgirl is one big commitment. とてつもなく大きな決断だ。カウボーイ、カウガールには日本の武士道に似たハードボイルドなところがあると思うのだ。生半可な気持ちでは続けることどころか入り込むことさえできない。そして楽しむことは大切であるがそれ以前に、常に冷静に、ひたむきに従事するという固い決意がなければ結実しない生き方なのだというものだ。 この日出会ったカウガールたちもきっと、可憐でプレザントなだけでなく、気骨のある内面を持ちハンサムに生きているんだろうな。 とても適わない。大した取り柄もない我が身をちっぽけだ、不器用だと苦々しく見つめ直すも「彼女たちの気骨を身につけよう」という目標を得て、最後には満たされた気分でフォートワースを後にした。 ◆ 余談であるが、その年の10月、モニカから荷物が届いた。中にはカウガールのコスチュームが入っており、カードには「夢を叶えてね」と書かれてあった。 友の小さな夢を実現させようという温かい友情に思わず衣装を抱きしめた。にもかかわらず最後の「それを着てOTB(場外馬券売り場)へ行かれたら20ドルあげるよ~」というところを読むなり真意を測りきれなくなるケイティであった。…
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思い出と再会する回廊~雨竜町「豆電球」の不思議
“或る日突然” by トワ・エ・モア(1969) 私は昭和生まれの人間だから、昭和の香りには敏感だし、懐かしいし、とても恋しい。ましてや日本で大人になることなく渡米した我が身我が心は日本にいると時折記憶の中で生きているような気がしてならず、ヴィンテージ・ジャパンを探し求めて彷徨い歩くこともある。 東京にいると浅草や柴又がそれに当たるが、遠く離れた今、北海道でもようやく、ちょっと寂しげなそんな気持ちを満たしてくれる宝もののような場所に出会うことができた。 北海道雨竜郡雨竜町、「豆電球」というその店はリサイクルショップと称しているが、夫は店のマダムに「いいえ、ここはミュージアムです」と言っていた。 店の建物は旧雨竜中学校をオーナーさんが13年前に移築されたもので、敷地に入るなりタイムスリップしたような気分になる。 扉を開くと、遠い昔暮らしの中にあった古い歌が流れていて、私はもうするするとタイムワープし身体さえ小さくなったように無邪気な少女の頃に戻っていた。 昭和以前にまで遡る錯覚と、その世界をつくる古きものたち。 私から上の世代はノスタルジアを覚え、この店のマダムが言われた「世代によって感じ方が違うようですよ」の言葉どおり、若い世代には新鮮で刺激的に映ると言う。 この座敷、奥に文机があるが、ちょっとくたびれた浴衣に身を包んだ文豪が背を向け万年筆で原稿用紙に向かっている姿がふわんと浮かぶ。 流行の古民家カフェなど営む人たちも「豆電球」にインテリアを求めて通うようだ。 手前の愛くるしい車は、オーナーご夫妻の息子さん自作。 よく見てみると、病院などの大きな看板が使われている。ニューヨークやパリの街角に止まっていてもしっくりきてしまいそう。材料も風合いもアンティークでありながら新しい時代を颯爽と生き抜く潔さを持っている。人もこうありたいと思う。 ヴィンテージとは思えないほどにミントなオート三輪車は、1963年製MAZDA T600 。寄贈品で「永久保存展示品」。オーナーさんの言葉をお借りすると、「戦後の急発展中の日本を、輸送で強く支えた名車」。 明治・大正・昭和生まれも、また平成生まれも必見の風格。 私の母は若い頃ファッション業界におり、行きつけの生地屋さんがあって私もよく連れられて行ったが、このネオンをそこで見た記憶がある。そして不思議なことに、 「あ、これ知ってる」と呟いた途端、私がまだ3つくらいの頃の母が、彼女が着るととてもよく似合ったデニムのロングワンピースで仕事部屋を立ち回る姿が目の前に現れたのだ。 思わず夫にも「若い頃のママがそこにいる」と言い「しっかりしろ」と窘められたが、あまりに懐かしくて、嬉しくて、そして帰らぬ日々を実感して泣きたくなってしまった。 翌日母に電話をすると「あら、そうだった?」と素っ気なく言われてがっかりしたもののこの店を訪れることがなかったら、おしゃれでかっこよかった当時の母に再会することはなかったろう。 「豆電球」は、昭和に、というよりも昭和を生きてきた人たちが自らの思い出ともう一度出会う場所なのだと知った。 長い渡り廊下には家具や食器が「整列」している。その様子は、子供たちが先生のホイッスルで一列に並んでいるようにも見えるから「整列」。 歩くたびにぎぎっと鈍い音を立てる床の音にも聞き覚えがあり、懐かしさが心を潤していくのが分かる。 曲がトワ・エ・モアからグループサウンズ、百恵ちゃんの「いい日旅立ち」へと変わり、思わず口ずさむと、いくつぐらいの時だったろうか、当時女の子なら誰もが夢中になって遊んだゴム飛びを、幼い私が友人たちとしている光景が脳裏を過ぎった。 するとマダムが、「うちに来てくださるお客さまはね、皆さん店でかかる歌が懐かしいって、店内を歩きながら歌われるんですよ」 すごくよく分かる、その気持ち。 “いい日旅立ち” by 山口百恵 この店にはインテリアにもできそうなヴィンテージのミシンがいくつもおいてあり、この日も若い女性がひとつ買っていった。何に使うのかな、尋ねてみればよかった。 もちろんウラングラスも置かれていた。その横にはリトファニーが施された茶碗。照明をあてて怪しく浮き上がる日本髪の女性の顔はヴィクトリア時代のイギリスで人気を博した日本の技とデザイン。 カメラを向けると夫が「そ、それはやめておいたら?」と言うので思い留まった。そのくらい妖艶で、何やら今にも話し出しそうな、魂を吸い取られそうなほど精巧に(ちょっと不気味に)できていた。 薄暗い蛍光灯の明かりにも、つつましいながらも力強い戦後昭和の暮らしが見える。子供の頃の、おばあちゃんちを思い出しませんか? 「豆電球」は営業日が週3日。これだけの広さとボリューム、本当に博物館にいるように楽しめるのに「もっとお店を開けてはいかがですか?」と伺うと、「いいええ、3日が精いっぱいなんですよ」 理由がおありですか?「あとの4日は仕入れたものや陳列しているもののお手入れをしてるんです」 そう、この店に置かれたものすべて、ゴミやほこりがまったく見当たらないのだ。 リサイクルショップや古道具屋へ行くと、商品として並んでいるものも所有者が持ってきた時のままを思わせるほこりが積もっていたり、古いタグが貼りっぱなしだったりするもので私たちもそれを当然と思っているところがあるが、伺ってあらためて感激した。 オーナー夫妻の、長い年月を掛けて完成させた大切な店と、心を傾けて選んだものたちへの愛が店内いっぱいに溢れている。だからこの店の空気は柔らかく、温かいんだ。 私はこのコリドーがとても気に入った。ここに立っていると、あの突き当たりの角から記憶の外に消えていた思い出たちがあとからあとから私に向かって歩いてくるようだ。 お菓子やタバコのパッケージ、どれもとても状態が良い。きっと誰かが子供の頃、クッキーか何かの缶に大切にしまっておいて時々開けてはにんまり笑っていたのだろう、「コレクション」と呼んで。 昔の、田舎の文房具屋さんてこんなだったんじゃないかしら。そう思わせる一画には実際にノートや鉛筆、ぬりえ、小さなおもちゃなどが楽しげに並べられている。 目敏い夫が見つけたこの「くれよん」を私は初めて見たが、とてもかわいらしく、しゃがんで顔を近付け眺めてみる。運動会や「良い歯の子」の賞品だったのではないかと想像していたら、この小さな箱がとても特別なものに思えてきた。 この場所でマダムにお話を伺っていると「あのスイッチ、大きいでしょう?ふつうに使ってるんですよ」。彼女の視線を追って振り返るとそのサイズに言葉が出ない。 オーナー夫妻の遊び心、ものを作る楽しさと、作ったもので見る人を楽しませる優しさが心に沁みてくる。この時、ああいい時間だな、そう思った。 マダムはとてもかわいい方で、会話の中で最も多いのではないかと思った言葉が「夫がね」。 「夫がね、木工の作業をずっとしているでしょう、だからひと息つけるような空間を作ってあげたかったの」 荒れた庭地を土づくりから始めて何年も掛けて造り上げられたこの庭は、ご主人さまへの思いを注いで仕上げられた見事なものだ。 なるほど癒しの庭には心に安らぎを与えてくれる清楚な草花ばかりが美しく咲いていた。 この庭には一切肥料を使っていないのだそうだ。「愛情の勝利ですね」そう言うとマダムは小さくこぶしを上げて「そうかしら」と笑ってらした。 楽しいひとときをいただいたお礼を言うと、「こういう出会いが何よりの幸せ」とマダムは外まで見送ってくださった。外はすっかり日暮れ時で、店は閉店時間を過ぎていた。 ◆ 帰り道、とうに忘れていた昔のことが途切れることなく思い出され、ずっと話していた。名前さえ忘れていた友達の顔も、いくつもいくつも蘇った。 もしもあなたに会いたくても会えない懐かしい人がいたならば、「豆電球」へ行ってみて。きっとその人があの回廊であなたを待っていてくれるはずです。…
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Moments 15: Hocus Pocus in POTUS’s Umbilicus
“You Can’t Stop the Rain” by Loose Ends とても褒められた話ではないのであるが、私たち夫婦、正直に申せば常習的夜遊び隊、ニューヨーク近郊のカジノホテルではちょっと顔を覚えられた存在で、カードゲームの腕前にもそこそこ自信がある。 折に触れカジノの話をすることになるであろうが、今夜に限ってこんなことを思い出したのは、夕方外に出た時に感じた雨のにおいがあの夜と同じだったから。 ◆ 現在のアメリカ大統領、ドナルド・トランプ所有のカジノホテル “Taj Mahal” は行きつけのひとつで、ニュージャージー州アトランティック・シティーのカジノ群へ行くと、だいたい深夜2時から2時半頃別のカジノから移って夜明けまでここで遊び宿泊するというのが決まったルートであったのだが、この夜は遅くになって雨が強くなり、早くからTaj にいた。 確か深夜1時になろうという時だったかと思う。そろそろ場がまとまってテーブルの集中力が高まって来た頃、ひとり負けが続いていた壮年男性が席を離れると後ろでビアを片手に見物していた見た目30代前半の男性が席に着いた。イタリア系だったろうか、この男、最初から妙なムードを持っていた。 場を乱す素質を持っていたというのか、テーブルで遊んでいたプレーヤーは全員感じ取っていたはずだ。遊び方の悪さも際立ち、わざと彼に目をやらない人もいればまじまじと睨むように見る人もいた。 (これは自宅の娯楽用BJテーブルでカジノ内部の写真撮影は禁止されています。) 最初から2,3のラウンドはおとなしくしていた男が、次のシャッフルからその邪悪な正体を見せるのだった。 ディーラーが彼の前にカードをセットするたび「トゥーンヌッ」と鼻先から抜けるような声(本当は「音」と言いたい、だって下から上へとしゃくりあげるようなヘンな声だったんだから)を上げたのだ。ギャンブルは当然ながらお金を賭けているわけなので、不審な所作や言動があれば見張り役のピットボスと言われるスタッフに睨まれ、最悪セキュリティが来てどこぞへ連行される。途端にテーブルの空気がピリピリと張り詰める。 皆の不安は的中、「トゥーンヌッ」でテーブルの空気は乱れ始め、男が入ってくるまではプレーヤー優勢で進んでいたゲームが一転、男のひとり勝ちという無情な事態を引き起こした。彼は酒に酔っており、へらへらと笑いながらふざけていた。 本気で遊んでいる、という言い方はカジノ経験者ならではの感覚だが、賞金稼ぎさながらの真剣勝負に挑んでいる男たちも大勢いるわけだ。1回に1万ドル以上(約100万円) をベットするプレーヤーも珍しくない。私の右横にいた中国系の男性は、それまではブラックチップ(1枚100ドル)とオレンジチップ(1枚1000ドル)を何本も高く積み上げていたが、男が来るなり殆どを失った。私たちも、私たちにとってはかなりの額を負けた。 次のラウンドからピットボスがテーブル前に着いた。おそらく男に対する何らかの指示が内部からあったのだろう。迷惑になるから奇声を上げるなと生真面目な顔で男に告げたがやはり男はへらへらと笑い、トゥーンヌッを続け、耐えきれなくなった私たちを含むプレーヤー全員が席を立つなりセキュリティが2人やって来て、男はテーブルから連れ出されると人ごみに消えた。 場に平和は再来したものの、一度乱れた気はなかなか浄化されない。誰もあのテーブルに戻ることはなく、私たちも残りのチップを換金してカジノを離れた。 「もう今夜は部屋に戻ろうか」「あいつめ~」二人で話しながら、良い運を吸い尽くされたようで遊びを続ける気分にはなれず、頭でも冷やすかと外に出た。 雨は止んでいたが、ひんやりと潤った空気は雨のにおいを含み、これがいっそう私を憂鬱にした。そして驚いたことに、普段ならいくら深夜の雨上がりとは言え一人として歩いていないなどということは考えられないボードウォークに見事に人影がなく、ただネオンを映してそれを美しいと思うも、それより何より「景気が悪い眺め」としか解釈できず、眠ることのないアトランティック・シティーで有り得ないほど早くホテルルームに戻ったのだった。 ◆ それにしてもまさか世界中が注目した不動産王が大統領になろうとは、あの夜Taj で遊んでいた人たちの誰が思っただろう。個人的には今の彼よりも大富豪という姿で全米のギャンブラーたちを手のひらの上で遊ばせている方が、ずっとかっこよかったのにと思うのだが。
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グレーの海と8小節
“Sing Our Song Together” by Mari Nakamoto 私の人生の中にあるいくつもの夏の終わりには、雨の日の海と遠い日に出会った歌の欠片が鮮明に描かれている。 私はまだ小さかった。ビーチで遊び、岬から青緑の太平洋を眺めて過ごした2週間のバカンスを終えて、私たち家族は楽しかった思い出をトランクいっぱいに詰め込み千葉・御宿町を後にした。 この日はお昼を過ぎた頃から急に暗い雨雲が広がって、大粒の雨が降り始めると時折窓ガラスに強く打ち付け、それまで車窓に耳をくっつけて波の音を聴いていた私には目の前に無数に迫る雨粒が恨めしかった。 遊び疲れて誰も口をきかず、横に座る弟を見るとすやすやと小さな寝息を立てていた。音を落としたFMラジオではビートルズを特集していたがなるべく耳に入れないように、徐々に空と海の灰色の境が消えていく海岸線の風景をぼんやり眺めていた。カーペンターズの “Rainy Days and Mondays” を帰ってすぐに聴きたいと思った。 その時、静かに響くCMソングに一瞬にして引き込まれた。女性ボーカルのジャズナンバーで、たった8小節、15秒間の歌の一部はしっとりとした大人のメランコリーを歌っており、少女の幼い胸に生まれて初めての「センチメンタル」を植え付けた。 以来毎年9月が近付くと、この8小節を思い出してはせつなく気だるい気持ちになる。 It’s hard to find a love today that won’t be gone tomorrow This changing world it moves so fast It’s in one day then out なぜだか今も分からないが、この8小節を初めて聴いた時も、また家に帰ってからも誰かにこの歌について尋ねることをしなかった、何と言う歌なのか誰が歌っているのか、知りたかったはずなのに。ただひとりになった時、こっそり歌うのが好きになった。 いつかきっと最初から最後までを聴かれる日が来るだろうと信じることにしたものの何の手がかりもなく、貪欲に探すこともせずに月日が流れ、秘密の8小節は私のクセのようになって、やがてこのまま知らずに終わっても悪くはないかなと思い始めていた気がする。 “Sing Our Song Together” が日本を代表するジャズシンガー、中本マリさんの名曲であることを知ったのはつい1か月前。街のとあるカフェで偶然耳にし、店の人に尋ね教えてもらったのだ。嬉しくて嬉しくてすぐにCDを探しに行ったがどこを当たっても見つからず、そこからようやく何人かの人に尋ねてようやく手に入れることができた。 さらに、今までコスモ石油のCMソングだとばかり思っていたこの歌が実は自動車メーカー、MAZDAの「コスモ」というモデルのコマーシャルだったということが分かったのはつい先週だ。何十年も経ちインターネットが普及してからYouTubeで知ることとなった。 「記憶を辿る」という言葉が好きであるが、その気になれば瞬時に過去が手に入る現代に生きることは幸せなのか戸惑ってしまう。これからまた時が行き過ぎるにつれ、物足りなさが増えていくのかと思うと妙につまらない気持ちになるのが少しつらい。 ◆ 長年の夢が叶った今、これは実に贅沢な悩みであるのだが、これだけ長い間待ち望んだ曲の全貌を知った途端歌の印象が変わってしまい、絶対に忘れないようにと秘かに歌い継いできた8小節と、共に過ごした時間がグレーの水平線の向こうへ消えていってしまいそうで、きっといつまでも愛していくだろうこの歌を今夜も聴きながら実のところ、とても寂しい思いをしている。 ◆YouTubeは1982年に放送されたマツダ・コスモのTVCM。30秒のロングバージョン。…
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晩夏、月の沙漠にて~Desert of the Moon
“The Desert of the Moon(月の沙漠)” by Suzanne Hird 少女時代、房総半島の御宿海岸は私にとって「晩夏の庭」、そして「月の沙漠公園」は去ってゆく夏を送るさよならの港であった。 「もう2,3日ここにいようか」父の言葉に期待して私は夏休みの宿題を、プールへ行こうよという友の誘いに揺れながらも御宿のサマーハウスへ行く前に済ませたものだった。 私たち家族の夏のバカンスは毎年比較的長く10日ほどで、父が仕事で戻ることにならない限り2週間滞在することもあった。毎年休みが近くなると、 「御宿に2週間なら2学期からは学校から帰ったら真っ先に宿題をします」 守れもしない祈りをヨコシマな理由で必死に神様へ送っていたことを、今更ではありますがここに告白し、懺悔します。 夏が終わり、2学期が始まるなり私が誓いを破ったのはご想像のとおりである。 御宿町の「月の沙漠公園」には、海岸の一画に物語が立っている。 童謡「月の沙漠」は、詩人で画家の加藤まさを(1897-1977) が1923年 (大正12年) 少女向け雑誌に発表した詩に作曲家佐々木すぐるが曲を付けたもの。 この歌の舞台とされる場所には諸説あるが、加藤が病気療養で滞在していた千葉県夷隅郡御宿町が有力で、のちに御宿町がこの月の沙漠公園を設けると彼自身、御宿を舞台と認めるようになったという話もある。 また「月の沙漠」は一般的に「月の砂漠」(砂)と思われがちであるが、加藤がイメージしたのが御宿の浜であったことから砂浜を意味する「沙」の文字を使ったと言われている。 夏を遊び尽くした人々は御宿を去り、よほど波の高い日でなければサーファー達もそう多く見かけることはなくなって、日が落ちると現実から切り離されたようなあのモニュメントだけがひっそりと立っていた。夜の帳が下り始める頃、くっきりと漆黒に浮かび上がる月の沙漠の王子と妃が好きだった。 まるで国を追われ逃げていくような二人の哀しげな様子が、あの姿を見るたび幼い私の胸を騒がせた。彼等の行く手に何があるのか、最後まで逃げ切れるのかと月の浮かんだ浜辺で、深夜目が覚めた時にもよく思い浮かべた。 弟と私は波打ち際で「月の沙漠」を何度も何度も歌った。幻想的な情景とは裏腹に、描いては波に消されていくケンケンパの輪の中を飛び跳ね、軽快に、笑いながら。 遊び疲れた頃、秋の気配を感じさせる夕暮れ時の空を見上げて弟は、 「涙は出ないけどつらい空だねえ」天の淡いパープルを映したきれいな瞳で言った。 「ああほんとだ、ほんとだね」とつまらない言葉で返したのを覚えている。本当は、弟の大人びたもの言いに驚き、おかしくなったものの笑ってはいけないと唇を固く結んで耐えていた為に適当な言葉が出てこなかったのだ。 5つ違いの私の弟。小さい頃から家族の誰より温かく澄んだ心を持ち、穏やかで絵心があり、詩を好んだ。ベッドタイム、私たちは母の腕にあごをのせて子供向けの楽しい詩集を聴くのが楽しみだった。彼はケタケタとよく笑い、周囲を笑顔にする優しい言葉はいつも、パステルカラーのように柔らかだった。 互いに家族を持った今も、時折二度と戻らない無邪気な時代への愛おしさを心の奥に感じる。彼の脳裏にもこの海が残っていることを願いながら。 旅の終わり、私たちは水際で去りゆく季節に手を振ったが、ずっとここで旅をしている月の沙漠の二人は、この夏も楽しい思い出を持ち帰る多くの人たちを見送ってきたんだろうな。そしてあてもなく沙漠をゆく彼等は、月が空高く上り人気のなくなった海岸で密やかに話すのだろう、 「この海もまた静かになるね。歌でも歌って行くとしようか」 次回”グレーの海と8小節~Gray Ocean & Dim Memory” へつづく… 「月の沙漠」:「こんなに不思議、こんなに哀しい童謡の謎2」合田道人著参照