Category: GOD – Good Old Days
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桜も女もところ変われば
数日前、両親から電話。 「今ね、桜を見てきたのよ」と母が言う。する今度は父が「すっかり春だよ」と続ける。能天気な老夫婦は代わる代わる東京にやってきた美しい季節を語り、それを聞く娘の目線は窓の外の猛吹雪だったりするから日本は小さいなんてとても言えないなと思う。 遠い昔暮らしたワシントンD.C. のポトマック川沿いには日本から贈られたソメイヨシノがこの時季咲く。日米両国の友情の証であることを訪れるたび肌で感じられる、私のように外から母国を学んできた者には心の安らぐ優しい河畔である。 春の訪れを祝う「桜まつり」も開催される。 早春のポトマック川を彩る桜は我が国有数の桜処、奈良県・吉野山の木なのだそうでアメリカでも “Yoshino cherry trees” と紹介するが、これがところ変われば水変われば、であろうか。驚くなかれ、優美で儚いはずの私たちのソメイヨシノが、帽子のみならずバッグまで飛ばされるほどの強風にも花弁一枚手放さないのである。 ち、散らない。梃子でも動かんぞくらいの枝の力強さに目がテンになる。 むしろこのアーチの中を歩くと風さえブロックしてくれるワシントンの桜。リンカーン大統領は日本のソメイヨシノをご存知のはずもなく、河畔を指差しつい教えてあげたくなる。 「こんなんじゃないんですのよ本当に、日本の桜は。もっとこうはらはらと舞って」 次の瞬間、この偉大なる大統領に向かって何の意味もない仁王立ちでこれまた言っても仕方のない主張をする己の姿に体が固まる。見上げるとリンカーン大統領も私になど目もくれず小さな溜息をついている、「なんだコイツ」と。 少女時代の私は、お転婆で怖いもの知らずなところは今と何ら変わりはないが、発しようとする言葉を風に乗せてやり過ごしてしまう性質を持っていた。油彩の先生は「絵画や音楽で表現することを覚えた人間は言葉を失いがちになる」と言葉で主張することを仕事にしていた我が母を宥めたようだが、口から出る考えや思いに対しての意識の低さは確かにあった。実際スピーチよりも文章を書く方をずっと好んでいた。それがどうであろう、やはりところ変わり水が変わり、振り返ればまあ、随分と図太くなったものだと思う。思いついたことを言わずにいるのはどうだろうというのが今の私。アメリカ教育の賜物?と言ってよい。 私だけではない。アメリカ、オーストリア、ドイツで教育を受け現在世界中を飛び回っている幼馴染もまた、日本にいる頃はおっとりとして黙ってフランス人形の髪を梳いている印象であったが、今では主張を戦わせたら私など1分で撃沈である。 小さな花弁を脅かす春の嵐にも動じないワシントンの桜はまさに、海外で活躍する日本女性(私は活躍などしていないのでここは除外するが)の姿そのものである。凛として逞しく、溌剌と生きる美しさだ。己を見失いそうになった時ワシントンの春を思い出すのは、この桜が背中を叩いてくれるからなのだろう。 時には「はらはらと春風に舞う」ソメイヨシノを取り戻したい気持ちになったりもするが、おそらくワシントンの桜で生きていくんだろうな、きっと。 去年から仕事が忙しくなって、今年は桜を見に旅に出ようなどと言っている場合ではなさそうなのが恨めしいところであるが、5月初旬、ここ北海道・旭川にも桜の便りが届くのを心待ちにしている。隅田川の桜よりも桃色の強いエゾヤマザクラと、桜餅の香りがたまらないチシマザクラの蕾が開くのを。 ◆ 昨日、新元号「令和」が発表になりこの歴史的瞬間に老いも若きも心を弾ませた日本であった。新しい時代がやってきて世界がどう歩みを進めていくのか分かる由もないが、何年何十年何百年と時は過ぎ今ここに生きる私たちが皆いなくなっても、何度も歩き愛でてきたポトマック川の桜がいつまでも美しく大きく平和に育ち、同時に日本女性たちが生き生きと活躍できる日本であろうことを、魂を込めて願う。
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茂吉vsベン
強い寒波によって積雪量が50cmに到達し白銀美しい我が町旭川が戻ったものの数日前まで雪は少なく、そんな12月、毎日のようにニューヨークでの日々が脳裏に浮かんだ。帰りたい、帰りたいと泣いていた日々は北海道のおかげで去っていったが、この郷愁が消えることは彼の地を離れている限り、また私が「帰る」と決めたその日までないのであろう。 学生時代、日系少年・ベンの家庭教師をしていた。当時8年生(中学2年生)、ニューヨークで生まれ育った彼にとって日本語教育はまったく必要のないもので、けれど立派なお母上のもと現地校のお成績は優秀、スポーツ万能にしてクラッシック音楽に造詣も深く何種類もの楽器演奏を見事にこなす、実に才能溢れるneat な男の子であった。 知人よりの紹介でお母上と知り合った。初日のベンは彼女から逃げに逃げ、首根っこを掴まれるように連れて来られ見ているこちらが申し訳なくなったほどであったが、母が去り二人になると学校生活や好きな音楽の話など、お稽古の時間いっぱいに楽しく話してくれて、翌週かららはお稽古を休むことなどなかった。 和歌や俳句は日本、また日本人の美しい情緒を学ぶ素晴らしい教材であるから私は読み書きの技術を教授する前の段階として教えていたが、これが彼にとってはいきなり長文を読まされるよりもとっつきやすかった様子、日本語に対する抵抗感さえ持っていた彼には「言葉遊び」程度の気軽さで楽しめるものであったようである。 ある時斎藤茂吉が「赤光」に収めた「死にたまふ母」59首から日本人なら一度は学ぶこの歌を「意味を考えて書いておいで」とお宿題に出した。 ー みちのくの母のいのちを一見見ん一見見んとぞただにいそげる 歌の意味をより深く知ることを目的に、は口実で彼の解釈が毎回面白くてたまらず予め難解な語句についての解説を私は一切しなかった。彼はそれをよく分かっていて半分ふざけている向きもありはしたがお宿題をしてこないことは一度もなかった。ただ漢字に馴染みのない子供であるから漢字の読み方だけは前もってお稽古で一緒に読みながらふり仮名をさせていた。 翌週のお稽古、「どうやってケイティをギャフンと言わせてやるか」とでも思っていたのだろう、ベンは不敵な笑みでお宿題のノートを広げて見せた。 さてベンはこの歌をどう解釈したか。 「みちのくは、母の命をひと目見たい。見たいから急いでキャブを拾う」 みちのくは、彼の母「いのち」にひと目会いたい。会いたいから急いでキャブ(タクシー)を拾わなくっちゃ。母の名はいのち、そして当然みちのくは息子の名である。 解釈の詳細はこのように書かれていた。 「みちのくはシティで働いてて母の命はタウンにいて、母は再婚が決まってパリス(Paris)へ行く。これからは会うのがもっと大変になるからその前にひと目見たいけど、みちのくは貧しくて車を持ってない。間に合わないからキャブでエアポートに急いで行く。」 「ごめん」と前置きして私は大笑いした。彼もしてやったりな様子で笑っていた。利口な彼のことである、もしかすると正解を出していたかもしれない。それを証拠に作者・茂吉の真意を「正解」という形ではなくあくまでも茂吉の気持ちとして話して聞かせたが「フン、そんなの分かってたよ最初から」みたいな瞳で私を見ていた。けれど作者の「正解」よりもこの歌に向かったベンの姿勢を素晴らしいと思った。ベンはきっと様々なアングルからこの歌を理解しようとし、彼なりに思いきり楽しく想像してこの答えを作ったに違いなかった。 小説にしても詩にしても歌にしても、また絵画にしても完成させて世に送り出せばひとり歩きし始める。感じ方も解釈も読む人、見る人、聴く人の自由なのだから仕方がない。が、これには茂吉も苦笑いであろう。 子供の心は神秘に満ちているなと、己も通ってきた道でありながらそれとはまったく別の世界として考える。精神がある程度成長してしまうと物事の解釈に計算が導入される。相手の答えを想定しながら答えを作ろうとしてしまったり、ややもするとその答えがたとえ己の出したものでなくても相手の求めるものを優先してよそゆきに創り上げてしまう。 決して悪いとは思わない。それこそが大人の思いやりと言えるのだろうが、やがてそうした時代が訪れておそらくこの世の役目を終えるまで続けていくわけだから、決して長くない子供の頃には果てしなく自由に思考の野原を駆け巡ってもらいたいものだ。 ベンとは彼が大学に入ってもしばらくは付き合いがあったがどうしているだろう。家庭があってもよい年頃。あのお母上のご嫡子だ、立派になっただろうな。 外は雪。お茶を片手に窓辺に立つと、舞い降りるパウダースノーのずっと向こう、あの頃のベンが今「今日は何でケイティを笑わせよう」パキッシュな瞳でほくそ笑んでいる。
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怖いもの見たさの1031
私は 1) 高熱を出す 2) 恐怖映画を鑑賞する、と悪夢を見る傾向にある。子供の頃からの癖のようなものでどうにもならないのであるが、10日前に熱を出し深夜、夫が飛び起きるほどの絶叫をした模様、未だに熱も下がらないし、ゆえに仕事も読書も捗らないしで「ミスター鶴の一声」=夫の助言。 「横になって映画でも見てたら?」 あ、そうねそれがいいわ。というわけでDVDを並べてある書棚の前に立ってみるも熱が原因の倦怠感からかなかなか決まらない。いっそ最下段の “24” を一気見するか ー やはり判断力が鈍っているようだ。ならばしっとり秋らしい映画にしようかなとも思えてくる。 ところが今日10月31日はHalloween なのである。アメリカのTVはこの時季どこも恐怖映画祭りで、新旧とり混ぜ毎日毎夜放送される。そうした大衆文化が体内を巡っている為に10月突入のファンファーレを聞くや否や怖がるくせに恐怖映画を渇望し始め、当日の今日などはもうカラッカラ。そこで映画チャンネルをくまなく探すも見たいのは今夜のThe Shining だけだ。しかもDVDを持っていたりする。 基本的に陰湿なばかりの映像が汚いホラー、特に邦画は一切見ない、いや見られない。「今夜悪夢が私を襲う」度100%な上に食欲不振が後を引くからである。第一に恐怖の中にも美がないと嫌なのである。一方海外のオカルト映画は25歳を超えたあたりから好んで見るようになった。子供の頃、映画館の前を通るたび目を逸らした「エクソシスト」のポスター。一生見ることはないだろうと思っていたが学生時代、それが事実に基づいていると知った途端に興味が湧き、両手バリアの隙間からおそるおそる見ているうちに夢中になったのが初めてだった。ワシントンに住んでいた頃は神父が悪魔に打ち勝ったあの階段も見に行き意味の分からない自信をつけた。 以来夫がいない夜だって独りで見られるようになったし、今ではChild’s Playなど子供騙しだと鼻先で笑えるほどにもなった。心が汚れてしまったからだとしたら哀しき成長である。 あまりにありきたりではあるが、私の好きな恐怖映画はこんな感じ。 1.The Shining (1980) 2.The Omen (1976) 3.The Exorcist (1973) 4.Horror of Dracula (1958) 5.Sleepy Hollow (1999) クラッシックばかり。緻密なからくりよりもじわりじわりと精神を震わせるものが好きである。CGを駆使した作品も入り込めないので見ないが、Sleepy Hollowはファンタジーとして楽しめると思っている。それからCGフリーの The Blair Witch Project は楽しみにシアターへ行ったが映像があまりに揺れるので別な意味で心身弱り、私を辛い目に遭わせたという罪状から生涯圏外とした。 私は中学に上がる頃までサンタクロース同様ドラキュラの存在を心底信じており(因みにアメリカの子供たちにはこういったケースは珍しくない。ニューヨークで生まれ育った日本の子供たちもその多くが13歳くらいでもサンタクロースを信じていたりする)、小5の時、両親がテレビでChristopher Lee の Horror of Dracula を見ている時偶然リビングルームを通りかかってよりにもよって吸血シーンを目にしてしまった。「早く寝た方がいいよ」と吸血鬼の恐怖から娘を守ろうとする優しい父に対して母などは「最後まで見る価値はある」とか言って11歳の娘を惑わせた。結末まで見届けた私がその夜悪夢にうなされ翌日冷蔵庫からにんにくを持ち出し母に見つかるまでこっそり携帯していたのは言うまでもない。 Stephen Kingの “Misery” やスペインの “El Orfanato” […]
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GOD: Kamehameha Day, 1988
The vanquisher of life is the one who has more good old days in his heart at the end of the road. – SLU Song: One More Try – George Michael GOD – Good Old Days. 古き良き時代は国や町の歴史に留まらず、私たちの人生にも必ずあるものだ。 古い写真をニューヨークから持ってきており、折に触れデスクに広げてみては思い出の時を呼び戻す。遠い昔に想いを馳せる時間は本当に楽しいもの、ありがたいもの。 6月11日は「太平洋のナポレオン」と謳われたというカメハメハ大王を讃えるハワイアン・ホリデイ、Kamehameha Dayである。ハワイ各地パレードなどの催しで賑やかな一日となり公共機関や学校も休みとなる。 けれど思えば私はこの日ワイキキにいた試しがなく、パレードを見た記憶もひとつふたつ。しかも今でも忘れないが、この前日に友人がさらさらブロンドのフランス人男子にこっぴどく失恋し、彼女の心の傷を癒すべくセンチメンタル・小ジャーニーに出かけたのだから、カメハメハ大王には申し訳ないが、お祝いムードは微小であったと言える。 車2台で友人5人と私はワイキキを抜け、ダイアモンドヘッド側から島を廻った。昨日の今日で失恋したエリスはゆったりと海を眺めることもせず、私のどこが不満なのかと暴言を吐いては泣き、泣いては歌い、車窓の外へ向かってまたわめき。 カーレディオから、ちょうどこの時どのラジオステーションを聴いてもヒットチャート1位を独占していた我らが George Michael の(彼については思い出話がいくつもあり、いつかお話させていただくこともあるかと思うが)よりにもよって “One More Try” がかかりまくっており、私たちはこの歌を耳にするたび涙の大合唱でエメラルドの太平洋をすっ飛ばしていった。 青い空も流れる雲も、そして咲き誇る南国の花たちも、この日のこの瞬間にしか見せない顔を持っていた。当時は何気なく見上げその気もなくシャッターを切ったこんな風景が、30年を経た今再びまったく同じ色で同じ香りで頭上に蘇り、あの頃の私を連れ戻してくれるタイムマシンになっている。 私たちがその存在を認められる唯一のタイムマシンとは、アインシュタインの相対性理論なんかよりもっと身近な「写真」を言うのではなかろうか。 裏オアフの海はサーフィンのメッカでもあるが、私の目にはポルトガルの「サウダーデ」にも似た涙色のエモーションが漂っているなとしばしば思う。何だろう、時に置き去りにされた寂しさや虚しさというような。 […]
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#CountBlessingsMonday~月曜の朝のおまじない
Song: “Good Love” by Angela Johnson ft. Deni Hines Monday Blue という言葉があるが、私にはあまり縁がないようだ。月曜日云々というよりも朝がとても好きだからだと思うのであるが、先月患ったインフルエンザが思いの外重く回復にひと月を費やしてしまった為、2週間前に終える予定であった仕事が〆切当日の今日もぐずぐずと終わらないでいる始末で目が覚めるなり心は真っ青なのであった。 でも大丈夫。蒼白な月曜日をキランキランの一週間に変えるおまじないを私は持っている。 大学時代初期を私はハワイで過ごしたが、時が経つにつれて物足りなさに苦しむようになった。友達もたくさんいたしカレッジライフも楽しかったが、その中で何か自分自身に求めるものを放棄しているような気になっていたのだった。 変化が欲しい。そればかり考えながら、日曜の夜が来ると翌朝が重たく感じられた。 エルサという文学の教授と気が合って、時々キャンパス内のカフェで話し込むことがあった。ある金曜日の午後、私は彼女に今の自分をどうすべきか尋ねてみた。彼女の回答は、 「それはあなたにしか答えを導き出せない神さまからの出題。思いきり苦しむしかないわね」 そして、こう続けた。 「月曜日の朝はね、ブレクファストを食べながら自分がどんなに幸せか、それを数えてみるの。ちゃんと声に出して感謝するのよ。その一週間が輝くわよ」 次の月曜日、いつもより1時間早く起きてカリカリベーコンと目玉焼きのブレクファストを作った。とろりとした黄身にベーコンをディップして食べるのが好きなのだ。 席に着き、私はまずエルサとの出会いに感謝した。それから両親に、次に、私が休暇で実家に帰り再びホノルルに戻る前夜、こっそり私の好む曲を集めてCDを作り深夜に手渡してくれる心優しい弟に、私の人生を明るくしてくれている世界中から集まった楽しい友人たちに、遠く離れても日本で私を思ってくれる温かい友人たちに、愛読書を著してくれた作者にも。 本当だ、何て私の人生は恵まれているのだろう。感謝を言葉にすると、心がじわりと温かくなってふわりと軽くなって、身体に新鮮な空気がどんどん入ってくるような気分になった。以来私は己を戒め祈りを捧げる気持ちで #CountBlessingsMonday と名付け、朝食のテーブルで感謝を口にするようになった。 今朝は朝食のテーブルで、やっぱり真っ先にエルサに。それから彼のおかげで私の人生には恐れがない、永遠の大親友・夫に、愛して止まないニューヨークに、近付いてきた春に、それから最近知ったフローズンのパスタシリーズ。これがかなり気に入っていて夫が出張でいない忙しい夜はちゃちゃっとチンして食べているのであるが、これを生み出してくれた日清食品にも感謝しちゃうのだった。おかげでテンションを取り戻して仕事を終えることができ、この一週間も陽気に過ごせそうである。 日本は月曜日が終わってしまったが、ブルーな週明けを迎えた朝には是非試してみて。意外と効きます。
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砂に消え過ぎたGUCCI
今さっきふと思い出した、もや~っとした自責の念。昔から何度も心を癒してくれたこの曲でお付き合いください。 “To You Sweetheart Aloha” – Charles Kaipo 学生時代の約4年をオアフ島で過ごしたが、ニューヨークなどの大都市と違い、ご想像のとおりハワイの週末はビーチ・ドライブ・映画・ショッピングかナイトクラブ、と娯楽が限られている。どれもとても好き。でも日焼け? 来るなら来い、VitaminC満タンのピチピチ女子にはやはりビーチだ(後年これもほっぺたのソバカスを眺めながら後悔することになる)。日曜の朝などお宿題をするのもビーチだった。 数あるオアフ島のビーチでも行楽客の多いワイキキやハナウマ・ベイではなく、当時は今よりもっとずっと静かだった所謂「裏オアフ」、カイルア・ベイやカネオヘ、更に足を伸ばしてワイメアやハレイワまで行くことが多かった。 学生時代、バングルウォッチが好きでいくつか集めて使っていた。一番気に入っていたのは大学の入学記念に父が買ってくれたもので、これは特別な日に身につけるため普段はクロゼット奥深くにしまってあり、毎日学校へしていくのはグッチが多かった。気軽に身につけられるという安易な観念がいけなかったのだろうか。私はハワイにいるうちに、グッチのバングルウォッチばかり4つビーチで失くした。 何度思い返してもいつどこで、に見当がつかない。友人たちと夢中になって遊んでいるうちに手首からするりと外れて落としたようなのだ。日曜日の夕方、家に戻ると時計が、ない。海に落としたとはどうしても思えない。 2個目はそれから半年くらいした頃だったと思う。この時は帰り道に気付いてビーチへ戻り、遊んでいた辺りを探してみたものの見つからずじまい。もうバングルをしてくるのはやめようとぼんやり思っていたにもかかわらず、その後1年にひとつのペースで性懲りもなく落としたのだった。4つ目を落としたときには「もう絶対失くさない」と誓いまで立てていたのを覚えている。それなのに。別のブランドのものは失くさなかったのにグッチだけ、どうして。いやそれ以前になぜそうまでしてバングルを選んだのか、私は。 「飽きないねえ」と友人たちには呆れられ、意地になって「ノース(ノースショア)には砂の奥にグッチに恨みのある霊が潜んでいるのかも。彼女を裏切った恋人がグッチの店員だったのかも。それでグッチが視界に入るや否や指先ひとつで消滅させる」こんな無駄話でごまかしてみても所詮は己の不注意でしかなく、大いに反省した私は以降腕時計をするのを止めた。 さすがにもう随分と前のことだしどんなに探しても見つかりもしなければ見つかったところで使えやしないだろうが、よくいるでしょう、ビーチで金属探知機を滑らせて歩いている人。きっとそんな人に拾われて売り飛ばされてしまったのかもしれないな、4つとも。 妙なアイデアが頭に浮かんだ。もしも、もしも同じ誰かが4つすべてを見つけていたとしよう。そやつはおそらくこう思う。 「ここに来ればまたグッチをゲットできるんじゃないか?そしたら俺の可愛いキャロリンにひとつ、点数稼ぎにママにひとつ、もうひとつは妹のモーガンにはやらないで売っちまおう。ウシシシ」 そして毎週月曜日の早朝4時半、人気のないビーチで金属探知機をいつもより入念に滑らせることになる、何カ月も、何年も。ハワイとは言え夜明け前の海風は冷たいものだ。風邪も引いただろうに。最後は憑かれたように、探さずにはいられなくなるだろう。もしかすると今も毎週月曜日の午前4時半、とっくに使えなくなった金属探知機を滑らせ、遂には近所の人たちに “MDP(metal detector psychopath/金属探知機サイコパス)” とお安いあだ名の一つも付けられているかもしれない。 いつまでもそうして虚しき夢を見ておれ、フン。 ◆ 正気に戻って振り返る。そんなわけないか。いつになったらこの思い出とさよならできるのだろう。無駄且つ私の方こそ虚しき妄想で当時の後悔を払拭しようにもどんどんMDPの罠にはまっていくという、何とも情けない年の瀬の夜。
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27年前の色~Night of Warmer Lights
“Please Come Home for Christmas” by Eagles 今日は電気の、何とかならないかなあ、な話。 LED電球を使っていますか?我が家は、このゴールドのフロアランプひとつだけ。 1日10時間電気を使ったとして、 白熱電球は最大約6カ月 電球型蛍光灯は約3年7カ月 LED電球は約11年の寿命。 また年間の電気代に換算してみると、 白熱電球は4,257円 電球型蛍光灯は867円 LED電球は615円と、 LEDは驚きの安さである。さらにLED電球は買った時は他の電球よりも高いものの寿命を考えるとコストパフォーマンスは他の2つと変わらない計算になるという(参考: エネチェンジ)。 初歩的な情報を知るだけでも、LEDは今を生きる私たちにとって有難い存在だ。 がしかしこの時季、街を彩るまばゆいばかりのイルミネーションにどうも以前のようにうっとりできない。原因はおそらくLED電球の光。 ◆ こちらの写真。何と27年前の今日、食事に行く途中通りかかって気まぐれに撮影したリンカーン・センター(マンハッタンW.66丁目の総合芸術施設)のクリスマスツリー。 当時私はロックフェラーセンターの巨大クリスマスツリーよりもリンカーン・センターのこのツリーの方を好んでおり、学校や買い物帰りにはわざわざ遠回りをしてまで立ち寄っては「かわいいなあ」と眺めていた。 古い写真で写りが悪いが、マルチカラーが愛らしい、華やかで上品なツリー。おそらく現在はLED電球のツリーに替わったことだろう。この日の思い出が消えてしまうともったいないから、なるべくクリスマスにはリンカーン・センターの前を通らないようにしよう。 大きな声では言えないが、実は私の家のクリスマスツリーには従来のイルミネーションライツを使っている。高さ2.5mのツリーに、ニューヨークから持ってきた頃は1200個、あまりに電気代が高かったので翌年700個まで減らし、現在は500個に。それでも1月の電気代が軽く1万円オーバーになるので最近では、地球にやさしくない我が家のツリーに少々肩身の狭い思いでライトアップの時間を気持ち減らすようになった。けれどどうしてもLEDに替える勇気を持てないでいる。 LEDは私たちのために開発されたもので、皆が率先して使っていくべきであることは十分分かっている。分かっているつもりではあるものの、あの日のツリーと旭川駅前・買物公園のLEDイルミネーションを比較すると、やはり温かみのある昔の灯りの方がいいなと思ってしまう。それでなくても極寒の地で、LEDの蒼白いイルミネーションはかなり寒々しい。頭の中で、クリスマスなのに胸を締めつけるイーグルスの “Please Come Home for Christmas” が流れない。 LED電球の灯りが、何とかして以前のライトのようにならないものか。できることならどこかに手紙でも書きたい気分の、あの日から27年経った今宵である。
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クリスマス準備ただいまNo.6
“Jingle Bell Rock” by Hall & Oates 私の主観だが、日本のクリスマスの過ごし方はとても華やかだ。宗教行事とは別の捉え方が主体であるからだろうか。子供のいる家庭ならクリスマスを家というケースが多いかと思うが、大人の世界は、例えば私の独身の友人などはパーティー三昧、恋人と極上ホテルステイ、ディナーショーと、言葉からきらきらと星が飛び散りそうなほどゴージャスである。 アメリカでは、クリスマスは一般的に1年で一番静かな日である。離れている家族が帰ってきて共に食事をし、テレビを見たりおしゃべりを楽しんだりする。大学時代、クリスマス休暇で学校が休みになると、学生寮に住んでいた友が一斉に実家へ帰っていく光景を見ながら、ああもうすぐクリスマスだなとしみじみ思ったものだ。私も帰省する一人であった。 一方、街も静まるクリスマス当日に反し、その日までの準備もまた日本にはあまり馴染みの深いものではないかもしれない。 サンクスギヴィング(11月第4木曜日)の午後からクリスマスの準備は始まる。日本にも導入された(個人的には、何かちょっと違うんじゃないかと思うのであるが)ブラック・フライデイもホリデイ・ショッピングのための日で、予め誰に何をプレゼントするか決めておき、一大セールを狙って多くの人が朝早くからデパートの前に並んで開店を待つ。大手デパートなども朝5時オープンなど、かなりの熱である。 家族・親族の多い友人のケースだと、サンクスギヴィングの日、夜にターキーを食べると夫婦は出かける準備をし、その夜0時に始まるブラック・フライデイのセールに夫と妻が手分けして並ぶ。連絡を取り合いながら次々とメモに書かれた品物を買い求め早朝6時、やりきった二人のショッピング第1ラウンド終了。いったん家に帰り仮眠をとり、その日の午後再び買いものに繰り出す。 12月初旬の彼女の家には、かわいらしくラッピングされた方々へのホリデイギフトが50以上も並び、私などはそれを見て毎年感心するというよりむしろ「引っ越しか」と圧倒され魂を抜かれてしまう。 ところで、一般的なアメリカのクリスマス準備は次のようなものだ。 1.カードやギフトのリストを作る。 2.帰省する家族のエアチケットを取る。 3.ディナー(パーティー)メニューを決める。 4.ターキーやハムをオーダーする。 5.ギフトショッピングをする。 6.クリスマスツリーと家を飾る。 7.クリスマスカードを書く。 8.ギフトラッピングをする。 9.クリスマスカードやギフトを送る。 10.パーティーや家族の帰省前の大掃除 など。 我が家は今年は出足が遅れ、今夜ようやくクリスマスツリーを飾っている。アメリカはこの時季大忙しだから、カードやギフトは週明けには送れるようにしておかなければならない。 今日・明日は、大量のリボンとの戦いである。ホリデイソングには「クリスマスに欲しいのはあなただけ」なんて歌詞をよく見かけるが、これが現実。 週明け、己の身体がリボンの切れはしまみれになっているのを想像しただけでくしゃみが出そう。もちろんそれでも、クリスマスは大好きなのだけど。