Category: Literature
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茂吉vsベン
強い寒波によって積雪量が50cmに到達し白銀美しい我が町旭川が戻ったものの数日前まで雪は少なく、そんな12月、毎日のようにニューヨークでの日々が脳裏に浮かんだ。帰りたい、帰りたいと泣いていた日々は北海道のおかげで去っていったが、この郷愁が消えることは彼の地を離れている限り、また私が「帰る」と決めたその日までないのであろう。 学生時代、日系少年・ベンの家庭教師をしていた。当時8年生(中学2年生)、ニューヨークで生まれ育った彼にとって日本語教育はまったく必要のないもので、けれど立派なお母上のもと現地校のお成績は優秀、スポーツ万能にしてクラッシック音楽に造詣も深く何種類もの楽器演奏を見事にこなす、実に才能溢れるneat な男の子であった。 知人よりの紹介でお母上と知り合った。初日のベンは彼女から逃げに逃げ、首根っこを掴まれるように連れて来られ見ているこちらが申し訳なくなったほどであったが、母が去り二人になると学校生活や好きな音楽の話など、お稽古の時間いっぱいに楽しく話してくれて、翌週かららはお稽古を休むことなどなかった。 和歌や俳句は日本、また日本人の美しい情緒を学ぶ素晴らしい教材であるから私は読み書きの技術を教授する前の段階として教えていたが、これが彼にとってはいきなり長文を読まされるよりもとっつきやすかった様子、日本語に対する抵抗感さえ持っていた彼には「言葉遊び」程度の気軽さで楽しめるものであったようである。 ある時斎藤茂吉が「赤光」に収めた「死にたまふ母」59首から日本人なら一度は学ぶこの歌を「意味を考えて書いておいで」とお宿題に出した。 ー みちのくの母のいのちを一見見ん一見見んとぞただにいそげる 歌の意味をより深く知ることを目的に、は口実で彼の解釈が毎回面白くてたまらず予め難解な語句についての解説を私は一切しなかった。彼はそれをよく分かっていて半分ふざけている向きもありはしたがお宿題をしてこないことは一度もなかった。ただ漢字に馴染みのない子供であるから漢字の読み方だけは前もってお稽古で一緒に読みながらふり仮名をさせていた。 翌週のお稽古、「どうやってケイティをギャフンと言わせてやるか」とでも思っていたのだろう、ベンは不敵な笑みでお宿題のノートを広げて見せた。 さてベンはこの歌をどう解釈したか。 「みちのくは、母の命をひと目見たい。見たいから急いでキャブを拾う」 みちのくは、彼の母「いのち」にひと目会いたい。会いたいから急いでキャブ(タクシー)を拾わなくっちゃ。母の名はいのち、そして当然みちのくは息子の名である。 解釈の詳細はこのように書かれていた。 「みちのくはシティで働いてて母の命はタウンにいて、母は再婚が決まってパリス(Paris)へ行く。これからは会うのがもっと大変になるからその前にひと目見たいけど、みちのくは貧しくて車を持ってない。間に合わないからキャブでエアポートに急いで行く。」 「ごめん」と前置きして私は大笑いした。彼もしてやったりな様子で笑っていた。利口な彼のことである、もしかすると正解を出していたかもしれない。それを証拠に作者・茂吉の真意を「正解」という形ではなくあくまでも茂吉の気持ちとして話して聞かせたが「フン、そんなの分かってたよ最初から」みたいな瞳で私を見ていた。けれど作者の「正解」よりもこの歌に向かったベンの姿勢を素晴らしいと思った。ベンはきっと様々なアングルからこの歌を理解しようとし、彼なりに思いきり楽しく想像してこの答えを作ったに違いなかった。 小説にしても詩にしても歌にしても、また絵画にしても完成させて世に送り出せばひとり歩きし始める。感じ方も解釈も読む人、見る人、聴く人の自由なのだから仕方がない。が、これには茂吉も苦笑いであろう。 子供の心は神秘に満ちているなと、己も通ってきた道でありながらそれとはまったく別の世界として考える。精神がある程度成長してしまうと物事の解釈に計算が導入される。相手の答えを想定しながら答えを作ろうとしてしまったり、ややもするとその答えがたとえ己の出したものでなくても相手の求めるものを優先してよそゆきに創り上げてしまう。 決して悪いとは思わない。それこそが大人の思いやりと言えるのだろうが、やがてそうした時代が訪れておそらくこの世の役目を終えるまで続けていくわけだから、決して長くない子供の頃には果てしなく自由に思考の野原を駆け巡ってもらいたいものだ。 ベンとは彼が大学に入ってもしばらくは付き合いがあったがどうしているだろう。家庭があってもよい年頃。あのお母上のご嫡子だ、立派になっただろうな。 外は雪。お茶を片手に窓辺に立つと、舞い降りるパウダースノーのずっと向こう、あの頃のベンが今「今日は何でケイティを笑わせよう」パキッシュな瞳でほくそ笑んでいる。
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図書館までの道
雨上がり、旭川小記。 私たちの人生は道でつながっている。私の生にもさまざまな意味を持つ多くの道が延びており、交差している。それらの中には避けたいものもあれば、大好きな虹色ロードというのも超個人的見解onlyで存在する。 一応は文章を書く人間であるから書物との関わりは深く、図書館との付き合いもひと月の半分ほどの頻度なのだが、図書館で過ごす時間もさることながら私はそこへ辿り着くまでの散歩道を実に気に入っていて、いや気に入っているなんてものではなくむしろ至福のひとときとさえ言いたいほどに好んでおり、それを理由に図書館へ行くこともある。 旭川市中央図書館は大きな公園の中にある。 駐車場に車を止めると目の前には大きな池が広がる。池の前から左へ行けば程なく図書館。けれど陽気が穏やかなら右へ折れ散歩道をぐるりと一周して図書館へ行く。 ここ常磐公園は旭川を代表する名所のひとつで「旭川八景」に、また「日本の都市公園100選」にも選定されている緑豊かな市民の憩いの場である。明治43年(1910)開設、大正5年(1916)開園というからどれだけの人がどのような出で立ちで誰と歩いたのだろうと考えると想像が尽きず胸が躍る。 平成最後の2018年はこうである。揃いのウェアでウォーキングをする俊足老夫婦、野原で小さい子供を遊ばせる美脚の若い母、先へ先へと急ぎたいトイプードルに着いていくのが大変な苦笑いの少女。三世代、四世代、公園への慈しみが漂う。 公園の敷地には図書館の他に上川神社頓宮や道立旭川美術館も設けられている。私は神道について知識を持たないので調べて初めて知ったのであるが、頓宮とは仮のお宮さんという意味だそうだ。親しみやすい佇まいの、居心地の良いお宮さんである。 旭川美術館は個人的な憩いの場であり、公園散歩とは別に安らぎと刺激を求めて訪れる。年に一、二度の大きな展覧会と旭川ならではの美術・工芸展は私の年間スケジュールにも組み込まれている。小さいが大切な、旭川の美術室。 九ちゃんの歌とは反対に「下を向いて歩こう」が私の公園散策のテーマである。殊に秋の公園は足下がとても楽しい。銀杏が山吹色に染まる頃など散歩中の犬さながらに興奮する。夫はそれを微笑みもせず、かと言って笑い種にするでもなく(たぶん)見守っている。 森の香りが喉にいいんじゃないかとか、常磐公園のダックは日本語で鳴きNYの家の前のダックは英語で鳴くに違いないだとか、何の意味もない話をしながら行き交う人たちと「こんにちは」「今年はいつまでも暖かいですね」とこちらも他愛もない挨拶を楽しみゆっくりゆっくり、散策路を廻る。 池の畔に沿って美しい園内を眺めながらベンチに座って休み、お宮さんに立ち寄り、栞にする色鮮やかな落ち葉を拾いながら30分ほどかけて図書館に辿り着く。秋の図書館前は私の旭川八景である。私はこの景色を100枚以上写真に収めているが、図書館の職員さんおひとりくらいは我が愚行にお気付きかも知れぬ。 館内に入ると混み具合を確かめ、午後の陽光が木漏れ日となって入る窓際の椅子を選んで読書を始める。本はその時興味を引くものであるが、毎回のように手に取るのはドナルド・キーン先生の著書である。名立たる文豪とのやりとりなど、その場で障子の陰からこっそり見ているようなくすぐったい気分にさせてくださる。 一度に借りられるのは10冊。毎回だいたい夫6冊、私は4冊。そのうち1冊は就寝前に読む洋書を混ぜ込んでいる。2週間借りていられるが、読んでは返しを繰り返す。 持ち帰りたい本を決めてデスクへ。2週間後の返却を約束して外に出ると、すっかり日が沈んでいる。必ず思う。図書館からの帰り道はコローの美術館にでもいるようだ。子供の頃に見た “Goatherds on the Borromean Islands” を思い出す。ああ、きれいだな、寒くなるまでしばらくここに居たいわ。 ガーガー グワッグワッ グェッグェ~ 静寂をぶち壊し私の感傷を木端微塵にする衝撃。 人も去り体感温度が10℃ほども落ちた蒼い池で「さあ夕食だみんな集まれ」と楽しげに鳴くダックの群れが水面を揺らす。「彼らはどこで寝るのかね」と小学生も考えないような疑問を題材に車に乗るまで話す。「さすがに水も冷たいだろうし、まあ草むらだね」という何とも安直且つ稚拙な結論に。けれどその道すがらがとても楽しい。 帰路、必ず旭川の象徴「北海道遺産」旭橋をくぐっていく。黄昏時の空に浮かぶ旭橋の灯りをとても気に入っている。時折感じる時代を遡りゆくようなアトモスフィアは旭川独特であり、拙著にも書くほどこの橋が、そして我が町旭川が好きである。 我が町。ニューヨークが私の町だ、故郷だと思ってきたがそれは成熟できないでいた私の意固地であった。故郷とは、日々の中から生まれる町への愛なのだとここにいて思う。 最近借りている書物の中で猛烈に気に入った一冊が、国木田独歩著「空知川の岸辺」の足跡を辿る「国木田独歩 空知川の岸辺で」(岩井洋著・道新選書)である。 恋狂いだ。愛した女との新しい門出の為に縁も所縁もない北海道の地へ土地の購入にやってくるのだ。情熱的な人は好きであるがこういった男と恋をすることはないなと笑いながら、滞在中の人との関わりや独歩の心境の変化、それだけでなく明治時代の北海道の様子や厳しい自然までも美しい文章で綴ってくれていることにひたすら喜びを感じた。 この本、返却したくなくてしばらく借り続けていた。しかたがないからとりあえずノートをとり、おそらくは後日購入することになるであろう。そのくらい楽しい本であった。 図書館への道は、名著と私を結ぶ赤い糸。図書館への道は、旭川が私にくれる心嬉しい30分。そしてまた、人生のジグソーパズルを完成へと向け毎日毎日探し見て、迷いながら合わせていくうちに見つけた、幸せの1ピースである。 昨日、図書館前のクローバー畑にかわいい花が咲いているのを夫が見つけた。嬉しい半面、眠りに就けずにいる花たちにはそろそろ疲れも溜まってきているだろうと申し訳なくなった。人はどこまで自然の邪魔をして生きてゆかねばならぬのだろう。
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初恋時計~桜桃忌に寄せて
「太宰は青春時代と同じなのよ、一度は通る道」と母は言った。 少女時代太宰に心酔していた娘(私)への戒めの言葉である。食い入るように「人間失格」を読む娘の背中を見ながら、あの子はやがてダメ男に人生をボロボロにされるのではないかと懸念したと言う。 以前にもお話したとおり、私は著名人のプライベートライフにまったく関心を抱かない。才能で仕事をしている人のその才能にエクスタシーを感じるからであるが、太宰だけは違った。この人のこと、もっと知りたい。そう思ってしまった。おそらく太宰は私の初恋だ。 小学5年生の時、初めて太宰の著作を読んだ。推薦図書にもなっていた「走れメロス」ではなく、実家の書棚に見つけた「斜陽」であった。「走れメロス」の内部事情(太宰と檀一夫の逸話)を母から聞かされて、理由は今もって解明されていないが、読まない方が良いような気持ちになったのだった。 私の母は教育熱心であったが自身も小学6年で尾崎士郎の「人生劇場」を読んだという武勇伝を持っており、書物はどんなものでも読ませてくれた。どうせ分かりゃしないだろうと思っていたのかもしれない。当然のことながら言葉の意味、ストーリーの全てを解釈できるわけがなく、けれど当時強烈に本から漂う戦後のケオティックな空気に私は落ちた。 それから勉強もお稽古ごともそっちのけで調べた。コンピューターなどない時代であるから地元横浜は青葉台の図書館から都内の図書館を渡り歩き、自由が丘や渋谷の書店を廻り、虎ノ門に勤めていた父をも六本木・赤坂・日本橋とこき使い、塾の帰りには神田の古本屋街にも通い詰め、ある書物からヒントを得ると次の書物を探した。 そんなふうに太宰漬けの日々を送りながら出会った長篠康一郎著「太宰治 武蔵野心中」は、一番に欲しかった「斜陽」のモデル・太田静子著「あはれわが歌」がどうしても見つからず、代わりにすずらん通りの古本屋でちょうど私の目線に陳列されていたのを見つけたもの。当時でも入手が少々難しい本であると言われたのを記憶している。 この本は、太宰の編集者であった野原一夫著「回想 太宰治」などとともに何度も何度も読み返した愛読書のひとつだが、太宰と心中した山崎富栄の日記文が多く掲載されており、禁断の恋に溺れた二人の生々しい会話は特に当時10代の私には刺激が強過ぎ、一時は嫌悪感に悩んだものだった。小説からも伝わる、すかした口説き文句で都合よく女性に甘えちゃうような、ちょっと安っぽい男の恋心と太宰が彼女に実際に語り掛けた言葉とが重なって、煮詰めたハチミツさながらのしつこい甘さに処女心が胸やけを起こしたのだった。 スキ。キライ。スキなのにキライ。キライだけどスキ。太宰は少女にさえ複雑な愛し方を植え付け、あの頃から私も太宰の愛人の一人であるような気分で生きてきた気がする。 太宰に関する書物で最近見つけたものに「太宰治必携 – 三好行雄・編」がある。美しい初版本で1981年に出版されたものだ。作家論事典、作品論事典、現代の評価といった大きなテーマ分けがされ、彼を知る、あるいは研究した専門家たちそれぞれにとっての太宰像が披露されている。 私はあくまでも恋しい気持ちで太宰の本を読むし、思ったように解釈したいので誰の意見に左右されるでもないが、物語や随筆についての記述には当時の雑誌等に掲載された書評の抜粋もあり、芥川賞選考で太宰を酷評した川端康成が「女生徒」で大絶賛している一文などは「おお、プロの仕事」と興味深く読み、タイムマシンにでも乗って当時へ立ち戻って生きた言葉を目の前で聞いているような高揚感に背中がぞくっとした。 太宰文学は理屈で解釈してはいけないと思っているから良い気分で読めるばかりではなかったが、知らないことにも多く出会え、なかなか楽しい本であった。 時が経ち、日本を離れ、多くの小説や小説家と出会い太宰との時間が少なくなっても、折に触れ書棚に、まるで墓石のように腰を落ち着けて私を見つめる彼の小説群を前にすると、懐かしさと愛しさが、何度でも込み上げてくる。 太宰治を形容するとしたらどんな言葉を選ぶかと尋ねられたら、私は迷わず “charming” と答えたい。長編も短編も多く残し私はどれもとても好きだが、無頼派と位置付けられた彼の名作たちはもとより、「フォスフォレッセンス」のように夢現な物語がとてもチャーミングな作家だと思うのだ。 ◆ 太宰を「ブーム・メーカー」、本の虫として成長させてもらった存在だと言った母は松本清張に終着した。私にも好きな作家は多くいるが、愛すべきこの小説家への想いを閉じ込めた初恋の時を、私はこのまま止めておくつもり。ネジは巻かない。先へ進めなくたって一向に構わない。何十年と太宰文学に酔いしれながらも人並みに分別は身についたと自負しているし、幸運なことに男を見る目にも長けている(はず)。それを証拠に太宰さんのような男に引っ掛かったことなど一度足りとない(はず)。 6月19日、桜桃忌。ふと思った。太宰さんは一体何人の初恋の人になったのだろう。やっぱりなかなかに罪な人。
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#CountBlessingsMonday~月曜の朝のおまじない
Song: “Good Love” by Angela Johnson ft. Deni Hines Monday Blue という言葉があるが、私にはあまり縁がないようだ。月曜日云々というよりも朝がとても好きだからだと思うのであるが、先月患ったインフルエンザが思いの外重く回復にひと月を費やしてしまった為、2週間前に終える予定であった仕事が〆切当日の今日もぐずぐずと終わらないでいる始末で目が覚めるなり心は真っ青なのであった。 でも大丈夫。蒼白な月曜日をキランキランの一週間に変えるおまじないを私は持っている。 大学時代初期を私はハワイで過ごしたが、時が経つにつれて物足りなさに苦しむようになった。友達もたくさんいたしカレッジライフも楽しかったが、その中で何か自分自身に求めるものを放棄しているような気になっていたのだった。 変化が欲しい。そればかり考えながら、日曜の夜が来ると翌朝が重たく感じられた。 エルサという文学の教授と気が合って、時々キャンパス内のカフェで話し込むことがあった。ある金曜日の午後、私は彼女に今の自分をどうすべきか尋ねてみた。彼女の回答は、 「それはあなたにしか答えを導き出せない神さまからの出題。思いきり苦しむしかないわね」 そして、こう続けた。 「月曜日の朝はね、ブレクファストを食べながら自分がどんなに幸せか、それを数えてみるの。ちゃんと声に出して感謝するのよ。その一週間が輝くわよ」 次の月曜日、いつもより1時間早く起きてカリカリベーコンと目玉焼きのブレクファストを作った。とろりとした黄身にベーコンをディップして食べるのが好きなのだ。 席に着き、私はまずエルサとの出会いに感謝した。それから両親に、次に、私が休暇で実家に帰り再びホノルルに戻る前夜、こっそり私の好む曲を集めてCDを作り深夜に手渡してくれる心優しい弟に、私の人生を明るくしてくれている世界中から集まった楽しい友人たちに、遠く離れても日本で私を思ってくれる温かい友人たちに、愛読書を著してくれた作者にも。 本当だ、何て私の人生は恵まれているのだろう。感謝を言葉にすると、心がじわりと温かくなってふわりと軽くなって、身体に新鮮な空気がどんどん入ってくるような気分になった。以来私は己を戒め祈りを捧げる気持ちで #CountBlessingsMonday と名付け、朝食のテーブルで感謝を口にするようになった。 今朝は朝食のテーブルで、やっぱり真っ先にエルサに。それから彼のおかげで私の人生には恐れがない、永遠の大親友・夫に、愛して止まないニューヨークに、近付いてきた春に、それから最近知ったフローズンのパスタシリーズ。これがかなり気に入っていて夫が出張でいない忙しい夜はちゃちゃっとチンして食べているのであるが、これを生み出してくれた日清食品にも感謝しちゃうのだった。おかげでテンションを取り戻して仕事を終えることができ、この一週間も陽気に過ごせそうである。 日本は月曜日が終わってしまったが、ブルーな週明けを迎えた朝には是非試してみて。意外と効きます。
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2666 チキンレース ~ Coward Reading Race for “2666”
“2 Luv U” by Avani 今、私の目の前には宿敵とも言うべき小説がこちらを睨みつけて横たわっている。厚さ6.3センチ、893ページに渡る長編ミステリーの超大作である。 3日前、NYの友人とチャットしている最中にこの小説の話になったのだ。仲間うちで2年に1度くらい、この本の「読み終わった?どのくらいかかった?」が話題になる。 ロベルト・ボラーニョ著 “2666” ミステリー小説を、実は好んで読む方ではないのであるが「生きているうちに一度は読むべき名著」として世界中に認知されているこの小説は読み切ろうと心に決めている。 心に決めているものの、進まない、進めない。もともと長編小説は大好きなのに、だ。 “2666” を一気に読み切ったという人を仲間うちでは誰ひとりとして知る者はいない。重苦しい内容で疲労やストレスを伴う為中休みや気分転換が必要になるのであろうが、それにしても、意味もないチキンレースが世界中のほんの小さなコミュニティ(私の周り)で繰り広げられているわけである。 ある友人は2カ月で読み、ある友人は3年かかったと言い、平均するとだいたい1年半くらいかけてゆっくり読み進める人が多い。ちなみにメンバーは小説家、詩人、大学教授や外交官など文章を読むのも書くのもお手のものな人たちばかりだ。「忙し過ぎて」も私を除き理由になるだろう、けれど一気に読破するには勇気が要るようだ。 今のところ、トップ走者はぶっちぎりで私である。8年が過ぎてもまだ終わらない。5部構成の4部途中で、どうしても読み進めることができないでいる。 このチキンレース、独走中の私を含め時間が掛かるのには共通の理由がある。長編小説中毒症。つまり、終わってしまうのがもったいなくて読みたいくせに読まないでいるというもの。「実はおもしろくないんじゃないの?」と仰る方もおいででしょうし、「分かるなあ」と言ってくださる方もおいででしょう。 私の場合は “2666” の他に日本ではあまり人気の出なかった “Twilight Saga” もそれである。これは、表現こそ「ん?単純?」と思ってしまうこと多かれどストーリーは娯楽性たっぷりの良作。ファンタジーもそう好きではなかったし、ましてや吸血鬼など興味もなかったのになぜだか夢中になった。 1作目の “Twilight” から “New Moon”, “Eclipse” と3冊はそれぞれひと晩で読み終えたものの、最後の “Breaking Dawn” だけは、これでお別れかと思うとついちょびちょび文字を追い、結局ロードショーを先に観てしまって、それで気が済んだわけでもなく、じっくり原作と付き合うつもりで時々書棚から引っ張り出してきてはまたちょびちょび読む。 ちなみに映画は原作を超えないもの、私は原作と映画は別ものと考えている。 仕事絡みということもあるが私の読書にはクセがあって、数冊の本を同時に読み、これが完走を遅らせる原因になっているとも思われる。 さて。ここまでお話しすると “2666 チキンレース” はケイティの圧勝に終わりそうだと思っていただけるはずであるが、先日の友人が水を差した。2004年の出版時に買って以来、まだ最後まで読んでいないという上手がいるらしい。13年である。 ああ、女王返上。どうしてこんなことで少々悔しいのか理由がまったく分からないが、火に油を注ぐように友人が続ける。 「でね、彼女にあなたの話をしたのよ、もう8年読んでる友達がいるよって。そうしたらクスッと笑って『どうぞお先にって言っといて』だって。どうする?読んじゃう?」 余裕で8年女王を挑発する13年選手。「ではお言葉に甘えて」って言うわけがなかろう。答えは自信を持ってNOである。読みたくてたまらないけど、このレースを降りるわけにはいかぬ。しかたない、今日は2ページでガマンだ。 どこの誰だか知らないが、彼女と私の世にもくだらない「2666 エア・チキンレース」はまだまだ続く。