Category: Music
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September: Freshly-Brewed Santa Fe Morning
“Love Has Fallen on Me” by Rotary Connection サンタ・フェは広いアメリカの中で最も好きな町のひとつ。歴史、文化、風俗。どれをとっても魅力に溢れ、訪れるたび新しい何かを与え、感じさせてくれる。 朝が大好きだ。いや夜遊びレンジャーだからミッドナイトもたまらないが、普段どんなに仕事が忙しくて夜更かしをしても朝はぱっと目が覚めて晴れだろうと雨だろうと、その朝のムードをからだいっぱいに取り込むことにしている。 サンタ・フェの朝は、淹れたてのアイスティーのように爽やかで、そしてコクがある。 特に9月は真夏の暑さが和らいで、朝はもともと涼しい町だが日が高くなっても午前中は清々しい、気がつけば太陽の下を歩いていると言っても過言ではないほどに。都会の公園を歩くのとはまったく違った、ふれあいの多い散歩。これが「コク」の部分。 そしてこの町の朝を歩くと、 “One day in September love came tumbling down on me ~” サイケデリック・ソウルなど歌ってしまう。道路を行き交う車にも道行く人にも慌ただしさなど少しもなく穏やかだが、爽やかな風に心がエナジェティックになるのだろう。 そう、誰かと巡り合って心に恋が生まれた時のような新鮮な驚きや喜びに似ている。 サンタ・フェに来たら朝は必ず散歩をする。当てもなく歩きながらネイティブ・アメリカンのバザーを覗いたり、アートの町にふさわしい色とりどりのハンドメイド雑貨の店に立ち寄るのも私たちの決まり。無造作に飾られたものたちには深い民族性に起因した迫力があり、手に取らずとも心が引き込まれる。 ナバホ族など、ニューメキシコ州はネイティブ・アメリカンの居住地としても知られるが、町には彼等の文化や信仰が息づいており、人の手によって作られたものにも彼等の魂が吹き込まれている。眺めて、触って、身につけて初めて彼等に出会えるような気がする。 そしてカラフルな手作り工芸品はどれも眩しい朝の太陽によく映える。 サンタ・フェを代表する観光スポット、本当は観光スポットなどというフラットな表現はしたくないくらい豊かな芸術に満たされたCanyon Roadは1.7kmにわたるギャラリーストリート。画廊の多くが庭を持ち、ブロンズ彫刻やクラフトアートなどが設えられている。 少しずつ日が高くなってきて9月とは言え「暑いな」と思ったら木陰を選んで歩く。日なたとの気温差も、新しくやってきた秋風もすっきりと心地良い。 街角のレストランでブランチを食べたらしばらく二人で旅の話でもして、午後になったらまた歩く。思い出づくりなんて忘れて、ただひたすらに今日の気分が向かう方へ、またRotary Connection でも歌いながら。
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グレーの海と8小節
“Sing Our Song Together” by Mari Nakamoto 私の人生の中にあるいくつもの夏の終わりには、雨の日の海と遠い日に出会った歌の欠片が鮮明に描かれている。 私はまだ小さかった。ビーチで遊び、岬から青緑の太平洋を眺めて過ごした2週間のバカンスを終えて、私たち家族は楽しかった思い出をトランクいっぱいに詰め込み千葉・御宿町を後にした。 この日はお昼を過ぎた頃から急に暗い雨雲が広がって、大粒の雨が降り始めると時折窓ガラスに強く打ち付け、それまで車窓に耳をくっつけて波の音を聴いていた私には目の前に無数に迫る雨粒が恨めしかった。 遊び疲れて誰も口をきかず、横に座る弟を見るとすやすやと小さな寝息を立てていた。音を落としたFMラジオではビートルズを特集していたがなるべく耳に入れないように、徐々に空と海の灰色の境が消えていく海岸線の風景をぼんやり眺めていた。カーペンターズの “Rainy Days and Mondays” を帰ってすぐに聴きたいと思った。 その時、静かに響くCMソングに一瞬にして引き込まれた。女性ボーカルのジャズナンバーで、たった8小節、15秒間の歌の一部はしっとりとした大人のメランコリーを歌っており、少女の幼い胸に生まれて初めての「センチメンタル」を植え付けた。 以来毎年9月が近付くと、この8小節を思い出してはせつなく気だるい気持ちになる。 It’s hard to find a love today that won’t be gone tomorrow This changing world it moves so fast It’s in one day then out なぜだか今も分からないが、この8小節を初めて聴いた時も、また家に帰ってからも誰かにこの歌について尋ねることをしなかった、何と言う歌なのか誰が歌っているのか、知りたかったはずなのに。ただひとりになった時、こっそり歌うのが好きになった。 いつかきっと最初から最後までを聴かれる日が来るだろうと信じることにしたものの何の手がかりもなく、貪欲に探すこともせずに月日が流れ、秘密の8小節は私のクセのようになって、やがてこのまま知らずに終わっても悪くはないかなと思い始めていた気がする。 “Sing Our Song Together” が日本を代表するジャズシンガー、中本マリさんの名曲であることを知ったのはつい1か月前。街のとあるカフェで偶然耳にし、店の人に尋ね教えてもらったのだ。嬉しくて嬉しくてすぐにCDを探しに行ったがどこを当たっても見つからず、そこからようやく何人かの人に尋ねてようやく手に入れることができた。 さらに、今までコスモ石油のCMソングだとばかり思っていたこの歌が実は自動車メーカー、MAZDAの「コスモ」というモデルのコマーシャルだったということが分かったのはつい先週だ。何十年も経ちインターネットが普及してからYouTubeで知ることとなった。 「記憶を辿る」という言葉が好きであるが、その気になれば瞬時に過去が手に入る現代に生きることは幸せなのか戸惑ってしまう。これからまた時が行き過ぎるにつれ、物足りなさが増えていくのかと思うと妙につまらない気持ちになるのが少しつらい。 ◆ 長年の夢が叶った今、これは実に贅沢な悩みであるのだが、これだけ長い間待ち望んだ曲の全貌を知った途端歌の印象が変わってしまい、絶対に忘れないようにと秘かに歌い継いできた8小節と、共に過ごした時間がグレーの水平線の向こうへ消えていってしまいそうで、きっといつまでも愛していくだろうこの歌を今夜も聴きながら実のところ、とても寂しい思いをしている。 ◆YouTubeは1982年に放送されたマツダ・コスモのTVCM。30秒のロングバージョン。…
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晩夏、月の沙漠にて~Desert of the Moon
“The Desert of the Moon(月の沙漠)” by Suzanne Hird 少女時代、房総半島の御宿海岸は私にとって「晩夏の庭」、そして「月の沙漠公園」は去ってゆく夏を送るさよならの港であった。 「もう2,3日ここにいようか」父の言葉に期待して私は夏休みの宿題を、プールへ行こうよという友の誘いに揺れながらも御宿のサマーハウスへ行く前に済ませたものだった。 私たち家族の夏のバカンスは毎年比較的長く10日ほどで、父が仕事で戻ることにならない限り2週間滞在することもあった。毎年休みが近くなると、 「御宿に2週間なら2学期からは学校から帰ったら真っ先に宿題をします」 守れもしない祈りをヨコシマな理由で必死に神様へ送っていたことを、今更ではありますがここに告白し、懺悔します。 夏が終わり、2学期が始まるなり私が誓いを破ったのはご想像のとおりである。 御宿町の「月の沙漠公園」には、海岸の一画に物語が立っている。 童謡「月の沙漠」は、詩人で画家の加藤まさを(1897-1977) が1923年 (大正12年) 少女向け雑誌に発表した詩に作曲家佐々木すぐるが曲を付けたもの。 この歌の舞台とされる場所には諸説あるが、加藤が病気療養で滞在していた千葉県夷隅郡御宿町が有力で、のちに御宿町がこの月の沙漠公園を設けると彼自身、御宿を舞台と認めるようになったという話もある。 また「月の沙漠」は一般的に「月の砂漠」(砂)と思われがちであるが、加藤がイメージしたのが御宿の浜であったことから砂浜を意味する「沙」の文字を使ったと言われている。 夏を遊び尽くした人々は御宿を去り、よほど波の高い日でなければサーファー達もそう多く見かけることはなくなって、日が落ちると現実から切り離されたようなあのモニュメントだけがひっそりと立っていた。夜の帳が下り始める頃、くっきりと漆黒に浮かび上がる月の沙漠の王子と妃が好きだった。 まるで国を追われ逃げていくような二人の哀しげな様子が、あの姿を見るたび幼い私の胸を騒がせた。彼等の行く手に何があるのか、最後まで逃げ切れるのかと月の浮かんだ浜辺で、深夜目が覚めた時にもよく思い浮かべた。 弟と私は波打ち際で「月の沙漠」を何度も何度も歌った。幻想的な情景とは裏腹に、描いては波に消されていくケンケンパの輪の中を飛び跳ね、軽快に、笑いながら。 遊び疲れた頃、秋の気配を感じさせる夕暮れ時の空を見上げて弟は、 「涙は出ないけどつらい空だねえ」天の淡いパープルを映したきれいな瞳で言った。 「ああほんとだ、ほんとだね」とつまらない言葉で返したのを覚えている。本当は、弟の大人びたもの言いに驚き、おかしくなったものの笑ってはいけないと唇を固く結んで耐えていた為に適当な言葉が出てこなかったのだ。 5つ違いの私の弟。小さい頃から家族の誰より温かく澄んだ心を持ち、穏やかで絵心があり、詩を好んだ。ベッドタイム、私たちは母の腕にあごをのせて子供向けの楽しい詩集を聴くのが楽しみだった。彼はケタケタとよく笑い、周囲を笑顔にする優しい言葉はいつも、パステルカラーのように柔らかだった。 互いに家族を持った今も、時折二度と戻らない無邪気な時代への愛おしさを心の奥に感じる。彼の脳裏にもこの海が残っていることを願いながら。 旅の終わり、私たちは水際で去りゆく季節に手を振ったが、ずっとここで旅をしている月の沙漠の二人は、この夏も楽しい思い出を持ち帰る多くの人たちを見送ってきたんだろうな。そしてあてもなく沙漠をゆく彼等は、月が空高く上り人気のなくなった海岸で密やかに話すのだろう、 「この海もまた静かになるね。歌でも歌って行くとしようか」 次回”グレーの海と8小節~Gray Ocean & Dim Memory” へつづく… 「月の沙漠」:「こんなに不思議、こんなに哀しい童謡の謎2」合田道人著参照
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Reminiscence ~ 思い違いの贈りもの
“Nothing’s Gonna Change My Love for You by George Benson 人は思い出の多い時代に触れたものをいつまでも忘れないものだ。それが文学であったりファッションであったり。音楽や香りなどは特に深く心に刻まれる。 1980年代をハワイで過ごした。あの頃、MTVやラジオから流れた歌には今よりもっとメロディアスでストレートな純愛を歌ったものが多かったように思う。今日のこの歌も同様だ。 1985年にリリースされたジョージ・ベンソンの”Nothing’s Gonna Change My Love for You” は世界中で大ヒットし、ホノルルのカラオケバーでも恋人に捧げる歌としてそれはそれはひと晩に何度も聴かされたものだ。 確か、Hawaiian TelephoneかどこかのCMになっていたのではなかったか、とハワイを離れワシントン、ニューヨークへと移ってからもずっと勝手に懐かしんでいた。 私の中ですっかりHawaiian TelのCMソングとして定着し、「ハワイアン・テルの歌」という固有名詞化すらしてしまったこの歌に特別な思い出があったわけではないが、朝学校へ行く前に耳にし、学校から帰ってきてTVやラジオをつけると流れており、そのたび心地良く耳に響いた。 あれから30年以上が経ち、今日ふと気になって調べてみるも、どうにもこの歌がCMソングであったという事実が出てこない。そう言えばジョージ・ベンソンの後、ハワイ出身のポップアイドル、グレン・メディロスがカバーしていたが、私の記憶の中では彼のバージョンではなかった。 午後に入るとますます気になって用事を済ませるなりデスクに着き、YouTubeで探してみると「こ、これではないか」という動画がひとつ見つかった。 ジョージ・ベンソンの”Nothing’s Gonna Change My Love for You” と間違えていた Hawaiian TelのCMソングはこれだった。 もう会うこともないだろうという人との奇跡のような再会にも思えた。 これを見た途端、私を乗せたタイムマシンが宇宙の渦に巻き込まれて瞬時に80年代へと遡り、懐かしい人たちが次々と現れ、この歌と今はなきCMの中のGina Jenkinsの爽やかな笑顔を見なければきっと還ってくることもなかったであろう楽しい友の笑い声や、部屋でひとり流した涙までもが私の心に戻ってきた。 学校が終わって家に帰ると、私はよくリビングルームの窓際に座って冷たいフルーツパンチを飲んだ。金曜の夕方などその窓からワイキキ沖に出ているたくさんのヨットとダイアモンドヘッドを暮れゆく夕陽が赤く染めていて、グラスの中のパンチと同じ色だと思いながら眺めていたあの光景がこの曲とともに浮かぶ。 恋人との間に別れ話が出た夜、彼の親友がワインクーラーとKFCのフライドチキンを山ほど持ってやってきて、やけ食いしながら泣いたり怒ったり、朝まで半狂乱で踊っていた時もこのCMが流れていた。 夕方、母とアラモアナ・センターへ買い物に行った帰りの黄昏時の空や、その夜食べたTVディナー(マイクロウェイブでチンしてでき上がるディナープレート)、当時アラモアナ・センターのスーパーマーケットでしか手に入らなかった絶品オニオン・ブレッドの味まで蘇って、もう二度と戻ってこないあの時間を思い胸が何度も何度も締めつけられた。 どこかで、何らかのかたちで記憶のすり替えが起きたのだろう。ジョージ・ベンソンとCMの温かい声が重なったか、それとも単にどちらも毎日5回も10回も聴いていたからなのか、今の私にはもう判別がつかない。が、いずれにしても、ジョージ・ベンソンの歌とこのCMソングの持つ思い出はまったく違ったものだったということが分かったし、愛して止まないハワイ時代を彩る2つの歌が手に入ったことをとても嬉しく思っている。 遠い過去に置き忘れてきた美しい思い出が、間の抜けた私の小さな勘違いが返してくれたものだったのだと思うと、昨日までの私自身にもほんの少し感謝したい気持ちになった。 それにしても、”Nothing’s Gonna Change My Love for You” に特別なメモリーがないということは、あれだけカラオケバーで歌われていたにもかかわらず当時私の為に歌ってくれた人はいなかったということであり、そう思うと今更ではあるがちょっと面白くなかったりもする。
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Nightcap and April Snow
music by WEE “You Can Fly on My Aeroplane” 音楽でも聴きながら。 私の町は昨日・今日と、名残雪にしっとりと包まれた。 毎年4月も中旬、ある年は下旬にも雪の降る旭川であるが、こんな日は去りゆく冬と別れる時間が愛おしい。 今夜はNYから25年来の友人Mattがやってきており、夕方も早いうちからバーボンのボトルを左手に書棚を物色していると思ったら、懐かしいWEEのアルバム”You Can Fly on My Aeroplane”を選んでプレイヤーに滑り込ませた。 書斎から戻るとキャビネットからグラスを取り出して夫と彼自身にはバーボンソーダを、私には「これ1杯にしておけよ」とオンザロックを作ってくれた。それから彼等はビジネスだのNYだのと話を始め、私は黙ってCDを聴いていた。こんな曲が似合う夜だ。 1977年リリースのこのアルバム。メロウでサイケデリックで、華やかでワルだった70年代の魅力が詰まっている。 もう随分と昔の話だ。私の記憶が正しければ、Astor PlaceからLafayetteを少し下った辺りだったか、小さなレコードショップがあって、知り合ったばかりの夫とデートの途中で立ち寄り、二人でこのアルバムを買ったのだった。 ああそう言えば、店から出ると道の向こう側にストレッチが止まり、奥の扉からスーパーロングのドレッドがダースベイダーのマントにも見えた巨大(は私の見た目であるが)な男が出てきた。周囲を歩く人たちは皆驚いて呆然と立ち尽くすほどの威圧感であったのだが、俯き加減の笑顔は穏やかで瞳がとても美しかったのを覚えている。Maxi Priestだった。 カリッ、と夫のアーモンドをかじる音が軽く響いて、今この時に連れ戻された。 日中、雲はグレイのグラデーションが美しく、水分を多く含んだ大粒の雪を絶え間なく降らした。宮下通りを走らせ車窓から中心街の様子を眺めると、おそらくアジアからのツーリストなのだろう、横断歩道を待つ30歳くらいの男女二人が思いがけない春の雪に空を見上げ、両手を広げて、ついでに大きく口まで開けて道北ならではの思い出づくりを楽しんでいた。故郷に帰って自慢するんだろうな、「Hokkaidoで4月の雪を飲んできた」と。 おそらくシーズン最後の雪の夜、良い気分だ。友の持ってきたFour Rosesの、鼻先から抜ける何とも良い香りを幾度も味わいアルバム1枚聴き終えたなら、ナイトキャップのオンザロックも最後のひと口を飲みほして、アイスホッケーの話で夜も明けそうな彼と夫には目もくれず、私はこのまま先に寝てしまおう。 music by WEE “Leavin’ You Alone”