Category: #NowPlaying
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Green Bliss~Cozyな記念日には美瑛町・アスペルジュ
The garden of love is green without limit and yields many fruits other than sorrow or joy. Love is beyond either condition: without spring, without autumn, it is always fresh. – Rumi 初夏の緑が青空に映える6月。夫の誕生日に美瑛町のアスペルジュを訪れる。記念日のランチはここ、という決まりを私たちに植え付けるほどに美味しい時間を約束してくれるフランス料理店である。 初めてここで食事をしたのは2年前の結婚記念日 であった。北海道という地ではどんなに質の良いお料理も空間も勿体ぶった感じのない方が上品だと私たちは思っていて、だからアスペルジュの爽やかなアトモスフィアはとても心地が良い。 夫はアスペルジュのコースで最初に運ばれる、この人参のムースがとても好きである。アスペルジュでどのお料理が一番好き?と尋ねるといつも迷わず「にんじんのムース」と答える。 訪れるたびに違うメニューを楽しめるのもレストランでの食事の醍醐味であるが、必ず味わえる料理があるのも実に嬉しいものだ。 20種類もの美しい美瑛野菜が散りばめられたサラダは私の好きなディッシュ。舌の上で次々に香る野菜やハーブがとても楽しい。さらりと盛られているようでも実は食べ応え十分なこのサラダには夫と初めて食事をしたマンハッタンのレストランを思い起こさせた。 一緒に運ばれてきた温かいじゃがいものスクウェアブレッドともよく合って、この時間がより楽しくなる。 「これは何だろう」という疑問は人生を豊かにすると、年月を重ねながら思うことしばしば。好奇心は私たちが生きる時の中になくてはならないスパイス。 そして純白のお皿を彩っているのは卵黄のコンフィ、ホームメイド・タルタルソースとパルミジャーノ。好奇心が、沸き上がる。 なるほど、このお料理の主役は北海道野菜の王様、アスパラガスであったか。くすみのない鮮緑が瑞々しい、誰もが大好きな野菜。ひと口、またひと口。柔らかくて甘くて、そして爽やかに季節が香った。 メインディッシュはいつもの美瑛産豚ロースのグリエと北海道産牛頬肉の赤ワイン煮込み。 フランス料理をシェアなどお行儀の悪いこと、けれどここでは白い目で見られることもない客への寛大さと優しさが嬉しい。席も店の一番奥である、にやにやしながらシェアする。 美味しいね、うん、美味しいね。 たったこれだけの会話、客の幸せをいざなう上質な料理の魔法とも言えはしないか。「美味しい」は嬉しい。目の前でとろとろに煮込まれたビーフの深みを味わう相手の「美味しい」はその喜びを倍にする。 私たちがここで食事をしたすぐ後、夫が東京時代お世話になった方がご家族で富良野旅行にいらした折お薦めのレストランを尋ねられてアスペルジュをご紹介したが、東京に戻られてから「彩りもきれいで美味しかったよ」というお声をいただいて、私たちもとても嬉しかったのだった。 Sweet tooth な私たちの「好き」の基準は、奇をてらわず、お味や量のバランスが良いもの。アスペルジュのアップルターンオーバーはそんな二人を満足させてくれるもので、シンプルな美味しさが食事を穏やかに締めくくってくれる。 ニューヨークの家を思い出した。この「りんごのタルト」はミッドナイトスナックに食べていた近所の行きつけペイストリーショップのアップルパイによく似ていて、深夜1時、テレビで映画を1本見終えたあとウィスキーを飲みながらひとスライスずつ食べていた光景が目の前に映る。 愛らしい「お茶請け」黒豆のショコラを、私はいつだったか真似して作ったことがある。図々しいチャレンジをしたものだ、当然似ても似つかないお味に終わり「アスペルジュに行けば食べられるんだものね」と笑った。 黒豆のショコラと同様に愉しみなのが、ホームメイド・マシュマロ。ほんのりヨーグルトのような風味が心までもソフトにしてくれる。 チャーミングな演出も、ここに戻ってくる理由のひとつ。 […]
katieraymond
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Solitude A
Song: Nothing Even Matters – Lauryn Hill & D’Angelo 原稿がうまく進まないとか流星群を見忘れたとかいつものお茶を切らせたとか、精神の気圧が下がってくると私は不眠になる。そういえばここ数年1時間に1回、ひどい時には30分に1回目が覚め、3,4時間しか眠れず、朝までぐっすりという深い睡眠に見放されている。主治医からは冷たい目で「ヤバイね」と言われた。 久し振りに帰宅した夫もボサボサ頭で視線もドヨ~ン、生ける亡霊と化した妻を見るなり腰を抜かしたか「ちょっと出かけてみるか」と焦り、ひと晩の小旅行に連れ出してくれた。 5時間のロングドライブ、霧雨の中を駆け抜けて辿り着いた湖畔のホテルは前面いっぱいに湖を望む。シーズン前の静けさが嬉しい。だもの旅は、中途半端な時季がいい。湖に面したソファに腰掛けてそんなことを考えていると、もううっすらと眠気が目の前を漂っている。 海外からの陽気な観光客が夕食へと去っていくと、音と熱がすうっと引く。さっきまで賑わっていたラウンジからさらわれたように人の気配がなくなった。はじめから誰も座っていませんよ、と横目で笑う妖怪でもいるか。 残ったのは、そんなことにはおかまいなしな異空間。世界中の人たちが皆消され私たちだけが取り残された、やっぱり妖怪だ、そんな気分になる。 けれどその妙な空気がとても楽しい。時折夫と目を合わせては「静かでいいね、うしししし」と笑う。 エスカレーターを降りたフロアもそこここにソファが置かれ、湖を眺めることができる。 ぽつりと設けられたラヴチェアに腰掛けるとたちまち周囲は色を失くし、モノクロームの時に二人の姿も染められていくようなフィーリングを覚える。どんな会話もここでは白けてしまいそうで、けれど気だるいわけでもなく、とてもいい気持ち、黙ってぼんやりと荒れ始めた景色を見る。 床を這うように広がる冷気を感じるや否や私は気付く、流れていく時間から、私は己を切り取りたかったのだということに。 春の嵐が迫ってきて、テラスを濡らす。私たちは外に出る。写真を撮る。強い風に煽られる。私たちは笑う。髪が濡れ、肩が濡れ、けれど楽しくて子供のようにまた笑う。 ここはいいね、今日は楽しいね、を何度も繰り返している。 部屋に戻ると、日常を捨ててここに来た私たちの夜は長い。 「ここ、気持ちいいよ。座ってごらん」夫に促され、家から持ってきた文庫本を手に取ってスウェード生地の大きなリーディング・ヌックに背中を沈めると、ハワイの家のウォーターベッドを思い出すほどの快感。何年振りか、健康的な眠りへの誘いが私の体を静かに倒す。 私はソリチュード愛好家組合長だもの、リーディング・ヌックは玉座も同然。両脚を投げ出してクッションを抱え、本を読まずして何とする。けれど既に私は本を手放し、それがどこへ行ったかも分からず、気にせず、甘美な肌触りに酔うばかりなのだった。 薄れゆく意識の中で私は言う。 「Solitude Aだわ、Alone の A」 Alone は「独り」と同時に「二人きり」という意味も持つ。 旅は道連れ。あなたと私の Solitude A. 極上の孤独時間は、静けさや空間、愛読書がつくるだけでなく、何をせずとも一緒にいれば楽しい誰かがいてこそのものでもあるのだ。 ならばしっかり噛み締めればよいものを睡魔に襲われしっとりとした感動もそこそこにそのうち寝息を、ややもすると大いびきをかき始め、自らムードをぶち壊すのだった。 次に目が覚めると、湖は黄金色の朝陽に輝いていた。そして私は深夜一度も起きることなくぐっすりと眠ることができた。 久し振りによく寝たよ。夫に言うと、よかったねと返す。本当に、こんなに清々しい朝は最近では珍しい。こうして楽しい旅と good-night sleep を得て、また色彩豊かな日々の暮らしへと戻っていった。 ◆ これは絶対Solitude A のおかげに違いない。よし、ものは試しと「毎月この旅行を計画したらインソムニアも治るかもしれないね」と言ってみるも、例によって夫は聞いているのかいないのか、調子に乗りやがってとでも思っているのか、私のサジェッションを平気でスルーするのであった。 彼も実感しているはずなんだけどな、Solitude A の絶大なる効果。
katieraymond
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ウチューとシチューの関係
今日は、宇宙とシチューの「何かある」について。 One Day I’ll Fly Away – Lalah Hathaway & Joe Sample スーパー・ブルー・ブラッドムーンの日、地元旭川は曇りの予報で夕方は雪がけっこうな量降っており、駅前モールで買い物を終えた午後6時ごろもまだ小雪がちらついていた。 子供の頃から宇宙が大好きで、流星群や彗星が来るというニュースを知るとその日を指折り数えて待ったものだったが、この日ははじめから期待ができず、駅のロータリーで空を見上げてまたがっかりし、けれどどうにも諦めきれず帰宅するなり私はシチューを作り始めた。 ただの偶然ではあるのだが、1995年の百武彗星、おびただしい数の流れ星を見せてくれた2000年のしし座流星群の夜も私はキッチンでシチューを煮ていた。1997年11月、これについてはまたあらためてお話ししたいと思うが、自宅バルコニーから土井隆雄さんの乗ったスペースシャトル・コロンビアが飛んで行くのを観た夜もシチューだった。 確かに寒い季節はシチュー率が高くなるが、いくら夫の大好物であってもそう何度も食べるものではないし、偶然とは言え思い返すたびにやはり「There could be something – これは何かある」と思いたくなってしまうのだった。 この夜も本当は別メニューであったのを、急遽あり合わせの材料でシチューを作ることにしたのだ。普通大人ならこんなことしないことくらい分かっている。けれど作るしかない。できることがあるのならしなくちゃ。だって、観たいんだもの、何としても。 午後8時前、愚妻が儚き願いを込めてシチューをかき混ぜていることに気がついた優しい夫がバルコニーに出る。我が家のバルコニーにはおそらく春まで解けないであろう雪が20cmほど積もっており、ズボリズボリと踏みつぶして空を見上げると、 「出てるよ、月が出てる!」 「何ですって」テンション急上昇である。 シチューは焦げやすいのでいったん火を止めバルコニーへと猛ダッシュ。本当だ、出ている、私の願いが通じたのだ(分かってます、そんなはずはない)。入れ変わりに夫は室内に戻り大急ぎでカメラに三脚を取り付けた。 雪雲に霞むこの夜の特別な月は、時折太陽の光を強く受けながら怪しく浮かんでいた。 私たちは空腹も、また外が-10℃に届こうという寒さも忘れて数分ごとにバルコニーに出ては月を眺めた。日本では35年ぶり、アメリカでは152年ぶりのまさに「世紀の天体ショー」だ。今この世に生きる私たち人類は何てラッキーなのかしら。 月が欠け始めると、夜空はさっきまでの雲が北風に、あるいは神の吐息に流されて澄みわたり、小さな星屑さえ見せてくれた。 そして徐々に妖艶な赤を帯びていく。6月の満月を「ストロベリームーン」と呼ぶが、この月はまるで、ひと口かじったら楽園追放の「禁断の果実」。 そうして、夕食をシチューにしてまで待った瞬間がやってきた。 よく湿度の高い夕方など昇りたての月が赤いことがあるが、ここまで深く染まったのを私は見たことがない。美しい、というより身体が凍りつくような恐怖を与える存在感だった。 もうひとつ驚異だったのが、皆既食の時間の長さだ。2015年4月の皆既月食の際には12分であったようだが、今回は1時間17分もの間月が隠れていたという。残念ながら旭川ではこの間に厚い雲が出てしまったため最後まで観測することができなかったが、不思議がいっぱいの空の贈りものは、これからもずっと心に残っていく風景のひとつとなった。 ◆ 観られるはずのなかったブラディで妖美な月は寝る頃になっても目の前に映り、同時に宇宙とシチューの謎めいた関係もなかなか頭から離れなかった。下界の小さな一般家庭で作るクリームシチューが星空を操るなど絶対に有り得ないことであるが、証明できたらものすごいことになりそうだと興奮していた。 それから1時間面白い証明方法を考察してみるも、身勝手で単純な私の脳が生み出した結論は所詮この程度であった。 ウチューはやっぱり、シチューが好き。
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私がヴェガスで遊ばないわけ
Las Vegas は世界一の遊び場だ。それは確かであると私も認める。 が、私たち夫婦はヴェガスでは遊ばない。 “Pretty Vegas” – INXS と、その前に、アメリカ国内ONLYの話だが私たちは自他共に認める夜遊び隊で、北東部のいくつかのカジノでは所謂「顔」だったりもする。私たちを見つけると「あ、またヤツらだ」と作り笑顔で近寄ってくるピットボスもいるくらいだ。また遊び方を知っているので、テーブルではプロ級のプレイヤーやディーラーともすぐに打ち解ける。 「プロ級」という人たちは実にかっこいい。地味な服装で「遊び」ではなくまさに「勝負」に来ているという緊張感を纏い、強運と「負けてナンボ」のオーラを放っている。 彼等は、ゆえに娯楽本位のマナーの悪いプレイヤーを徐に嫌う。特にその人たちが連続して勝ち彼等に負けが巡ってきてしまうとチップをテーブルに叩きつけたりして怒りを露わにする。でまたそういう時に限って遊び半分のプレイヤーは上機嫌を隠そうともしないから逆鱗に触れるというわけである。 ある夜私たちの隣りで遊んでいた目つきの鋭い東洋人男性、シャープ・アイ(仮称)の話。この時テーブルには私たち夫婦を含め5人のプレイヤーがおり、皆絶好調でディーラーを打ち負かしていた。と、その様子を見て入ってきた泥酔気味の若いカップル、ポテト・ヘッズ(仮称)。その二人を見るなり彼はやる気を削がれたのだろう、ギリギリと音を立ててチップのかたまりを握りしめ小さな抵抗。そして嫌な予感は的中、波乱を巻き起こす。 ブラックジャックを皆さんがご存知と承知した上で説明させていただくと、ディーラーの表カードはキング。ここは強気でいくのが定石だ。ポテト・ヘッズは一番にカードを配られるディーラーから向かって左端におり、彼等のカードはジャックと4で14、すぐ隣の紳士はブラックジャック、彼のワイフは絵札2枚で20、私たち(席についていたのは夫)は10-5-5で20、シャープ・アイは2か所でベットしており19と、もうひとつのスポットがエース2枚でスプリットからのスプリットダブルで3か所とも20。1か所2000ドルを賭けていたからこの時点で8000ドルをベットしていることになる。申し分ないカードにテンションが上がる。 ディーラーがポテト・ヘッズにベットするかと合図すると、ここは勿論当然ヒットであるはずが、まさかのステイ。ゲームを分かっていたなら14では止めない、絶対に。しかも周囲は絶好調なのだから、流れを乱すようなことは暗黙の了解でしないものだ。なのに。 殺気立ったシャープ・アイは酔いにまかせてニヤついている二人を睨みつけ、何やらぶつぶつと文句を吐いた。 そしてディーラーが隠れているカードを開く。3だ。ここで13。いいぞ。もう1枚開く。エースで14。よし。次のカードに皆固唾を飲む。一拍置いて、ディーラーが美しい指先でカードを引き出し、開く。来い、絵札、来い。 「7」 10-3-1-7= ディーラーが無情にも21で総取りとなった。 勝負だから仕方がない、が彼は諦めきれずディーラーに次のカードを開かせると、10であった。遊び方も知らない上ゲーム運にも見放された二人はどちらにしてもバーストしていたが、それでも上手に引いていれば少なくともあっさり周囲を勝たせることはできた。 一瞬にして8000ドルを失ったシャープ・アイは二人を指差しバンとテーブルを叩いて消えた。彼だけではない。それまで順調だったゲームの流れが乱れたのを感じて、隣のご夫婦も私たちも一斉に席を立ちその場を離れた。 ヴェガスには、ギャンブリングを娯楽と捉えている人が多いように思う。まとまったバケーションで遊びに来る観光客が多いためかと考えたりもする。もちろんそれもカジノでの遊び方のひとつかもしれないが、筋金入りのギャンブラーは少ないかもしれない。 こんな経験が何度もあって、Vegas は性に合わないということになった。負けるにしても気持ち良くプレーできることが大前提である私たちにとっては、勝負性よりもエンターテインメント性の方がずっと高いヴェガスでは、本気で挑む気になれない。 けれどもエンターテインメント性を否定しているわけではない。あちこちにサプライズが散りばめられているし、家族旅行や新婚旅行にはお薦めである。特にヴェガスにはさらりと結婚できちゃう簡易チャペルが多く、電撃婚の聖地とも言えるのだ。例えばこんなふうに。 アメリカ国内のカジノはギャンブリングの他にエンターテインメント文化が実に華やかだ。有名どころからピークを過ぎたロックグループまで夜毎コンサートが開かれるし、日本でも放送されるボクシングの世界戦などもカジノホテルが舞台になったりする。ホテル内のアミューズメントも充実しているから老若男女大いに楽しめるのがヴェガスの魅力である。 だがやはり、カードゲームで独特な緊張感を楽しむならば、ヴェガスへはこれからも行かないだろう。私たちにとってヴェガスは、観て歌って踊って泳いでちょこっと買う町である。 ◆ しつこく申し上げるが、私たちはアメリカではけっこうな遊び人である。その上で経験者という立場から、現段階で日本にカジノを建設することには賛成できない。長きにわたる海外生活で外から日本を見、また帰国してあらためて感じた母国は健康的で清廉な国であり、またそうあり続けなければならないと願うのだ。カジノを建てるというのなら、国内においても対外的にも日本の印象を損なわない倫理的自信がついてからではないだろうか。ゆえに個人的に今はまだ、まだまだ、だと思っている。
katieraymond
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ソリチュード・アワー
Solitude is the fusion of vacuum and liberation. – Katie “How Deep is Your Love” – PJ Morton ソリチュード(solitude)とは、孤独という意味である。けれど同じ孤独でも寂しい気持ちを表すロンリネス(loneliness)や絶縁・孤立を表すアイソレーション(isolation)とは違い、独りでいることを楽しみ、その時間や空間を「自由」と捉えるものである。 イギリスで先だって子供からシニアまで広い世代の実に900万人もの国民が孤独を感じ、それによって人生が辛くなったと思っているという統計が発表されたが、これを受け救済策として「孤独担当相」というポストが誕生したという。 確かに誰かが傍にいてくれることは幸せで、大勢の人と溶け合う日々は明るい。人はひとりでは生きて行かれぬ。これも真実だ。しかしながら、独りの時間がより人生を豊かにしてくれることにも肯定的でありたい。私の「ソリチュード愛好家組合」は後者をコンセプトとし、条件やシチュエーションに関係なくひとときの孤独時間を心地良く過ごすティップを提案していこうと考えている。 良い音楽を聴き、本を読み、絵を描き、学び、考え、味わい、眠る。ほんのひととき独りになることは心身のリラックスの他集中力やイマジネーションを高め、マインドをリセットし、内なる己と向き合い、あるいはそういったもの全てを解き放って無になるなどインナーセルフを整える効果を持つものであり、心理学のスペシャリストも推奨している(参考:Psychology Today(英語))。 最も重要と考えるのは、ソリチュードは外界からの隔絶とそこから生まれる精神の解放という対局的な要素が溶け合ってひとつの意味を成しているという点である。普段関わっている「人」という環境から己を切り離すとともにそこから無限に広がるひとりだけの世界へ飛び出すことができると、誰もが一度は実感したことがあるだろう。 周囲の音やアトモスフィアを遮断しひとりきりになった時にほっとするのは、隔絶と解放が同時に働いている証。これが愛すべき孤独時間、ソリチュード・アワーである。 My goal in life was to pursue the good life. – Oleg Cassini John F. Kennedyの妻、Jacqueline Kennedy のデザイナーを務めたOleg Cassini の言葉。生きる目的は、人生を良いものにすること。私を含めこの世の全ての人が持つ願いだろう。 何もすることのない朝、休みの午後、一日の終わりにしばし家族から離れてひとりの空間を楽しもう。辛かった一日を洗い流し清々しい朝を迎えるため、またたった一度の人生を充実した美しいものにするために、ソリチュード・アワー は必ずや役に立ってくれるはずである。
katieraymond
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ソリチュード愛好家組合発足25周年
SLUは、音楽でも聴きながら。 “Hopeless” by Dionne Farris 「孤独」を表現する英語はいくつもある。寂しさの詰まったロンリネス(loneliness)、孤立という意味を持つアイソレーション(isolation)、そして独りでいることを自由と捉え、その時間や環境を愛することのできるのが、ソリチュード(solitude)である。 ◆ 私の自我そのものとも言える「ソリチュード愛好家組合」。発足25年などと言っていはいるが、組合員が集まって祝杯を上げるとかコメントを寄せるとか、せめてファミレスに集ってブラウニーの載った美味しいパルフェを食べるとか、考えも及ばない。 そんなことをするくらいなら家に帰って部屋の隅に置かれた椅子に腰を下ろし、読みかけの詩集を開き、その夜の気分で酒を飲み、瞳を閉じて音楽を聴き、そのまま眠ってしまってもかまわない。それでこそソリチュードを愛する者と言える。 組合唯一の規約が「孤独を愛で、楽しみ、そこにエクスタシーを感じる」であるから。 ◆ 25年経った今、恩師のひと言から己を知るに至ったおかげでソリチュード愛好家組合が生まれ、気が付けば、これが私という人間のもっともブレのない部分になっていた。 私の人生はちいちゃなものだが、自分を浸せる世界があるだけでも随分豊かであると、それだけは小自慢できる気がしている。
katieraymond