Category: Seasons
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11番目の部屋
私の心にはひと月ごとの思い出が詰まった12の部屋があって、中でも11月の部屋はもう、扉を開けようものなら思い出がぱーんと飛び出してきそうなほどに忘れがたい思い出でいっぱいなのであるが、ニューヨークの家を離れてから毎年この時季に記憶が連れてくるのが、11月になると訪れた小さな町の風景である。 ペンシルベニア州ランカスター郡。アーミッシュ居住区である。日本ではハリソン・フォードの主演映画 “Witness (邦題は「刑事ジョン・ブック 目撃者」)”で知られるところではないかと思う。 ニューヨークの家から車で2時間弱のこの町にはキリスト教を重んじるドイツ系移民が暮らす。厳しい規律によって移住当時の暮らしを守っており、基本的に電気のない自給自足の生活を伝統的に続けているという。 町を車で走っていると、道端を馬車で走るアーミッシュの女性に出くわす。反対車線からは自動車が連なり、人種とかライフスタイルとかよりも、彼らと私たちの相容れぬ哲学の境界線を見ているような気分になる。例えば衣服についても、彼らは無地の生地で作った決まったデザインの洋服を身に着ける。確かに街を歩くと子供たちの洋服には大人よりも多少カラフルなものがあるが、フリルの入ったワンピースなど着ているアーミッシュの少女など、当然なのだろうが見たことがない。到底真似のできない信仰の深さと意志の強さに畏れさえ感じる。 が、彼らこそが現代社会との関わり方に苦悩しているのだそうだ。情報社会のアメリカで電話やテレビのない生活はとても難しかろう。実際、アーミッシュの家族が住んでいるらしき家のすぐ横に立つ電信柱にその苦労が垣間見える。 現在は実際のところどうなのか知る由もないが、アーミッシュの基本的な戒律を紐解くと、彼らの教育は日本でいう中学2年までで終了するようである。その後16歳になると「ラムスプリンガ(Rumspringa, Rumschpringe)と呼ばれる「猶予期間」が与えられる。宗教生活から解放され、所謂「俗世」の仲間入りをしてみる2年間で、その後教会へ戻るか、アーミッシュとしての人生を捨てアメリカ人として生きていくかを選ぶことになる。驚いたことに、85~90%の若者たちが教会へ戻っていくそうである。 *アーミッシュの人たちは宗教上の理由から基本的に写真撮影を拒否する。上の写真は声をかけて「私と分からないように遠くからなら」と了承を得たもの。 ただやはり、ランカスターにも妥協点はある。今やどの国も観光産業なしには成り立たないと言えるだろうが、この町もすっかり観光スポットと化し、ギフトショップのカウンターにはコンピューターを操作するアーミッシュの店員がいたりする。文明社会に生きる私たちにとっては特段目にも入らない光景であるが、ここに来てそれを目の当たりにすると、心の片隅がほんの少し痛む。 同情とかそんなことではなく、本来あるべき自分たちの姿と、アメリカという巨大先進国に在る現実との狭間でどう折り合いをつけていくかを常に問われているのではないかと考えた時、大きな壁に沿って歩く彼らの運命に、畏敬の念が溢れ出すのだ。 尤も、彼らのコミュニティから地球と冥王星ほども離れた場所で生きるゆるキャラ・ケイティが勝手に考えることで、実はもっと大らかに捉えているのかもしれないが。 けれど私にとってこの町の記憶はきっといつまでも、己の存在価値を再考させる場所である。これでいいのかな、いいわけないなと教会へ行くような気持ちで、思い出すたびに悔い改め、姿勢を正す。あっという間に忘れるところが相も変わらない私の愚かさであるが、それでも毎年11月に懺悔の気持ちを呼び起こしてくれるランカスターは心の洗濯場所で、いつも感謝している。 今年も11月が来るなりアーミッシュキルトの鍋敷きをキッチンのアクセサリーに飾った。もう30年近く使っているためボロボロでとてもお見せできないが、これを見つけた時の喜びやお店の様子、カウンターの女の子との会話までしっかりと覚えている。彼女は「実はニューヨークチーズケーキが好き」とほんのりピンクの頬で愛らしく笑っていた。ラムスプリンガの間に多くの刺激を受け、それを思い出に戻ってきたんだろうな、彼女も。 * そろそろThanksgivingだ。アメリカにいれば4連休を使って小旅行に出かける計画があって今頃はハートうきうき新しい靴だのバッグだのを見て回っているのであろうが、今年などは忙しくて七面鳥を焼く時間さえ見つけられそうにない。せめてパイくらいは用意して「仕事まみれの感謝祭」とこんなタイトルの小さな思い出を、ランカスターの雄大な秋へと心を返し「これではいけない」と毎年のように悔いながら、扉を開ければ数々の思い出がぱーんと飛び出す11月の部屋にまたひとつ、詰め込むことにしよう。
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伝統に集う~旭川市・男山酒造「酒蔵開放」
2月10日、日曜日。仕事の合間を縫って、北海道生活7年目にして初めて以前よりの望みであった催し物を訪れた。この日は午前9時の段階で-13℃、厳しい寒さではあったが穏やかな空で、酒など飲めもしないくせに「祭り」が好きだというだけですっかり酒豪気分であった。 開館は午前10時。その少し前に到着すると、広い駐車場のある店舗はすべてこの日のために、男山酒造「酒蔵開放」のために開放されていた。我が家は近隣のホームセンターに車を止めて時々ずるずると滑りながら軽やかなパウダースノーの中を歩いて行った。 そう、この日は年に一度の「酒蔵開放」酒造り真っ只中の男山酒造の庭で地元民に酒をふるまってくれる行事である。1979年に始まったこの催し、今年は40周年に当たる。 我が町旭川に現存する老舗酒造は私の知る限り「国士無双」で知られる高砂酒造と今回訪れた男山酒造、1887年創業の老舗である。 男山酒造の庭には小さな庭園があって、春から夏にかけては美しい花が咲き誇り、秋になると紅葉を眺めながらその前を通る。また市内にある「男山自然公園」はその昔アイヌの人たちの暮らしの場であった突硝山という丘の南に位置し、4月になるとカタクリやエゾエンゴサクといった北海道の春を告げる愛らしい花が咲き、ちょっとしたトレッキングコースになっていて日差しが暖かくなってくると私たちも散歩に出かける。開園期間は短いが無料で散策でき、「地元あっての」といった心意気を感じる。そういえば、ザゼンソウという不思議な植物を初めて見たのも男山自然公園だった。 酒蔵開放では2回の鏡開きを行うが、縁起をかつぎ?1回目をしかと見届ける。 当日男山がふるまってくれた2種類のうち、清らかな雪解け水のように美しい、澄んだこちらが樽酒。寒さもあったろうが、香りのきつい酒ではなかったためか本当に水のように見えてこれなら1杯飲み干せるだろうと、前身は江戸時代に遡る老舗酒蔵の逸品を軽く侮る。 隣のブースでふるまっていたのは「平安~室町の酒」かめ酒。発酵途中の酒だろうと夫は言っていたが本当?酒を知らぬ私はしゅわしゅわの甘酸っぱいこの濁り酒をとても気に入った。「これはおかわりだ」と思うや否や身体がかる~くなり始め、異変に気付いた夫が「ゆっくり飲みなよ」と警告を与える。が、私は滅多に人の言うことを聞かぬ我儘一徹な性分である。 左がスムースな口当たりとキリッとしたお味の樽酒、右が微炭酸の嬉しいマイルドなかめ酒。「少しだけお願いします」と言ったのになみなみ注いでくれ、「絶対飲めないのに~」と言いながら気がつくと平気で減っているのであった。いかん、これはいかんぞ。 「かわいい雪国」でおなじみの北国冬の風物詩 “Kids on the Sleigh” である。あとひと月もすればこのかわいらしい姿も見られなくなるな、ちょっと寂しい。 この日最も衝撃的だったのは朝摘み野菜ならぬ朝搾り酒「今朝ノ酒」。試飲できることもあってか長い列ができており、やめておけと諭す夫を振り払い愚かな妻は列に加わる。私の前でこのボトルを買っていた人が「これ何度?」と尋ねると「21度ね」。無理だ、さすがにこれは飲めない。せっかくしおらしく「すみません、ほんの1cmくらいお願いします」と言ったのに「なあに言ってんの、ほらいいからいいから」とやはりなみなみ。 仕方ない、それに縁起ものである、何事もチャレンジだと口にしてみるもさすがに強い。個人的にはヴォッカを口にした感覚。当然ながら半分で断念。すぐさま大好物の甘酒試飲コーナーへと急いだ。男山の甘酒は非常に美味であったはずだが無念、どうにも思い出せない。 これより奥のフードコート広場も飲んだり食べたりの幸せな人たちで溢れており、更に奥の倉庫内では男山のブランドを彩る多くの品種が販売され、試飲も勧められていた。けれどこの頃になると、表情も口調も変わらないが意識が確かに遠のいており、これ以上の試飲は断念せざるを得なくなっていた。 楽しい冬の催し物と酒を含んだ温かさが嬉しい朝であった。人出は分単位で増えていき、私たちが帰る頃にはたいそうな人だかりとなっていた。旭川の伝統を味わおうと市民が集結する。この賑わいには独特の温度と躍動感がある。地元民の心の結びつきなのか、それともこの旭川で町とともに生きてきた男山酒造の吸引力なのか。 いつにもましてぼんやりな頭で考えてみるまでもなく、まだまだひよっこの旭川市民は己の町に愛着を持つ地元の人たちが誇らしく思え、ここに住まう己の幸運に浸り、どっしりと優しい男山酒造の存在感に安らぎを得たような有難い心持ちで意気揚々の男山の庭を後にした。 心踊る酒蔵開放、きっと来年もと思ったのは私だけではない。幾種類もの酒を続けざまに飲み干す妻を横目に「来年はさ、タクシーで来ようね」と呟く夫であった。
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Sky Palette 2018
The year has passed so hectically and fast. Reaching its goal, the two best things to be grateful for were the warmth of time for good reading and rendezvous with the sky of the great Hokkaido land. The reason why we feel purified looking up at the morning sky and soothed standing before the ocean…
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図書館までの道
雨上がり、旭川小記。 私たちの人生は道でつながっている。私の生にもさまざまな意味を持つ多くの道が延びており、交差している。それらの中には避けたいものもあれば、大好きな虹色ロードというのも超個人的見解onlyで存在する。 一応は文章を書く人間であるから書物との関わりは深く、図書館との付き合いもひと月の半分ほどの頻度なのだが、図書館で過ごす時間もさることながら私はそこへ辿り着くまでの散歩道を実に気に入っていて、いや気に入っているなんてものではなくむしろ至福のひとときとさえ言いたいほどに好んでおり、それを理由に図書館へ行くこともある。 旭川市中央図書館は大きな公園の中にある。 駐車場に車を止めると目の前には大きな池が広がる。池の前から左へ行けば程なく図書館。けれど陽気が穏やかなら右へ折れ散歩道をぐるりと一周して図書館へ行く。 ここ常磐公園は旭川を代表する名所のひとつで「旭川八景」に、また「日本の都市公園100選」にも選定されている緑豊かな市民の憩いの場である。明治43年(1910)開設、大正5年(1916)開園というからどれだけの人がどのような出で立ちで誰と歩いたのだろうと考えると想像が尽きず胸が躍る。 平成最後の2018年はこうである。揃いのウェアでウォーキングをする俊足老夫婦、野原で小さい子供を遊ばせる美脚の若い母、先へ先へと急ぎたいトイプードルに着いていくのが大変な苦笑いの少女。三世代、四世代、公園への慈しみが漂う。 公園の敷地には図書館の他に上川神社頓宮や道立旭川美術館も設けられている。私は神道について知識を持たないので調べて初めて知ったのであるが、頓宮とは仮のお宮さんという意味だそうだ。親しみやすい佇まいの、居心地の良いお宮さんである。 旭川美術館は個人的な憩いの場であり、公園散歩とは別に安らぎと刺激を求めて訪れる。年に一、二度の大きな展覧会と旭川ならではの美術・工芸展は私の年間スケジュールにも組み込まれている。小さいが大切な、旭川の美術室。 九ちゃんの歌とは反対に「下を向いて歩こう」が私の公園散策のテーマである。殊に秋の公園は足下がとても楽しい。銀杏が山吹色に染まる頃など散歩中の犬さながらに興奮する。夫はそれを微笑みもせず、かと言って笑い種にするでもなく(たぶん)見守っている。 森の香りが喉にいいんじゃないかとか、常磐公園のダックは日本語で鳴きNYの家の前のダックは英語で鳴くに違いないだとか、何の意味もない話をしながら行き交う人たちと「こんにちは」「今年はいつまでも暖かいですね」とこちらも他愛もない挨拶を楽しみゆっくりゆっくり、散策路を廻る。 池の畔に沿って美しい園内を眺めながらベンチに座って休み、お宮さんに立ち寄り、栞にする色鮮やかな落ち葉を拾いながら30分ほどかけて図書館に辿り着く。秋の図書館前は私の旭川八景である。私はこの景色を100枚以上写真に収めているが、図書館の職員さんおひとりくらいは我が愚行にお気付きかも知れぬ。 館内に入ると混み具合を確かめ、午後の陽光が木漏れ日となって入る窓際の椅子を選んで読書を始める。本はその時興味を引くものであるが、毎回のように手に取るのはドナルド・キーン先生の著書である。名立たる文豪とのやりとりなど、その場で障子の陰からこっそり見ているようなくすぐったい気分にさせてくださる。 一度に借りられるのは10冊。毎回だいたい夫6冊、私は4冊。そのうち1冊は就寝前に読む洋書を混ぜ込んでいる。2週間借りていられるが、読んでは返しを繰り返す。 持ち帰りたい本を決めてデスクへ。2週間後の返却を約束して外に出ると、すっかり日が沈んでいる。必ず思う。図書館からの帰り道はコローの美術館にでもいるようだ。子供の頃に見た “Goatherds on the Borromean Islands” を思い出す。ああ、きれいだな、寒くなるまでしばらくここに居たいわ。 ガーガー グワッグワッ グェッグェ~ 静寂をぶち壊し私の感傷を木端微塵にする衝撃。 人も去り体感温度が10℃ほども落ちた蒼い池で「さあ夕食だみんな集まれ」と楽しげに鳴くダックの群れが水面を揺らす。「彼らはどこで寝るのかね」と小学生も考えないような疑問を題材に車に乗るまで話す。「さすがに水も冷たいだろうし、まあ草むらだね」という何とも安直且つ稚拙な結論に。けれどその道すがらがとても楽しい。 帰路、必ず旭川の象徴「北海道遺産」旭橋をくぐっていく。黄昏時の空に浮かぶ旭橋の灯りをとても気に入っている。時折感じる時代を遡りゆくようなアトモスフィアは旭川独特であり、拙著にも書くほどこの橋が、そして我が町旭川が好きである。 我が町。ニューヨークが私の町だ、故郷だと思ってきたがそれは成熟できないでいた私の意固地であった。故郷とは、日々の中から生まれる町への愛なのだとここにいて思う。 最近借りている書物の中で猛烈に気に入った一冊が、国木田独歩著「空知川の岸辺」の足跡を辿る「国木田独歩 空知川の岸辺で」(岩井洋著・道新選書)である。 恋狂いだ。愛した女との新しい門出の為に縁も所縁もない北海道の地へ土地の購入にやってくるのだ。情熱的な人は好きであるがこういった男と恋をすることはないなと笑いながら、滞在中の人との関わりや独歩の心境の変化、それだけでなく明治時代の北海道の様子や厳しい自然までも美しい文章で綴ってくれていることにひたすら喜びを感じた。 この本、返却したくなくてしばらく借り続けていた。しかたがないからとりあえずノートをとり、おそらくは後日購入することになるであろう。そのくらい楽しい本であった。 図書館への道は、名著と私を結ぶ赤い糸。図書館への道は、旭川が私にくれる心嬉しい30分。そしてまた、人生のジグソーパズルを完成へと向け毎日毎日探し見て、迷いながら合わせていくうちに見つけた、幸せの1ピースである。 昨日、図書館前のクローバー畑にかわいい花が咲いているのを夫が見つけた。嬉しい半面、眠りに就けずにいる花たちにはそろそろ疲れも溜まってきているだろうと申し訳なくなった。人はどこまで自然の邪魔をして生きてゆかねばならぬのだろう。
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怖いもの見たさの1031
私は 1) 高熱を出す 2) 恐怖映画を鑑賞する、と悪夢を見る傾向にある。子供の頃からの癖のようなものでどうにもならないのであるが、10日前に熱を出し深夜、夫が飛び起きるほどの絶叫をした模様、未だに熱も下がらないし、ゆえに仕事も読書も捗らないしで「ミスター鶴の一声」=夫の助言。 「横になって映画でも見てたら?」 あ、そうねそれがいいわ。というわけでDVDを並べてある書棚の前に立ってみるも熱が原因の倦怠感からかなかなか決まらない。いっそ最下段の “24” を一気見するか ー やはり判断力が鈍っているようだ。ならばしっとり秋らしい映画にしようかなとも思えてくる。 ところが今日10月31日はHalloween なのである。アメリカのTVはこの時季どこも恐怖映画祭りで、新旧とり混ぜ毎日毎夜放送される。そうした大衆文化が体内を巡っている為に10月突入のファンファーレを聞くや否や怖がるくせに恐怖映画を渇望し始め、当日の今日などはもうカラッカラ。そこで映画チャンネルをくまなく探すも見たいのは今夜のThe Shining だけだ。しかもDVDを持っていたりする。 基本的に陰湿なばかりの映像が汚いホラー、特に邦画は一切見ない、いや見られない。「今夜悪夢が私を襲う」度100%な上に食欲不振が後を引くからである。第一に恐怖の中にも美がないと嫌なのである。一方海外のオカルト映画は25歳を超えたあたりから好んで見るようになった。子供の頃、映画館の前を通るたび目を逸らした「エクソシスト」のポスター。一生見ることはないだろうと思っていたが学生時代、それが事実に基づいていると知った途端に興味が湧き、両手バリアの隙間からおそるおそる見ているうちに夢中になったのが初めてだった。ワシントンに住んでいた頃は神父が悪魔に打ち勝ったあの階段も見に行き意味の分からない自信をつけた。 以来夫がいない夜だって独りで見られるようになったし、今ではChild’s Playなど子供騙しだと鼻先で笑えるほどにもなった。心が汚れてしまったからだとしたら哀しき成長である。 あまりにありきたりではあるが、私の好きな恐怖映画はこんな感じ。 1.The Shining (1980) 2.The Omen (1976) 3.The Exorcist (1973) 4.Horror of Dracula (1958) 5.Sleepy Hollow (1999) クラッシックばかり。緻密なからくりよりもじわりじわりと精神を震わせるものが好きである。CGを駆使した作品も入り込めないので見ないが、Sleepy Hollowはファンタジーとして楽しめると思っている。それからCGフリーの The Blair Witch Project は楽しみにシアターへ行ったが映像があまりに揺れるので別な意味で心身弱り、私を辛い目に遭わせたという罪状から生涯圏外とした。 私は中学に上がる頃までサンタクロース同様ドラキュラの存在を心底信じており(因みにアメリカの子供たちにはこういったケースは珍しくない。ニューヨークで生まれ育った日本の子供たちもその多くが13歳くらいでもサンタクロースを信じていたりする)、小5の時、両親がテレビでChristopher Lee の Horror of Dracula を見ている時偶然リビングルームを通りかかってよりにもよって吸血シーンを目にしてしまった。「早く寝た方がいいよ」と吸血鬼の恐怖から娘を守ろうとする優しい父に対して母などは「最後まで見る価値はある」とか言って11歳の娘を惑わせた。結末まで見届けた私がその夜悪夢にうなされ翌日冷蔵庫からにんにくを持ち出し母に見つかるまでこっそり携帯していたのは言うまでもない。 Stephen Kingの “Misery” やスペインの “El Orfanato”…
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白いコートの妖精たち
私の日常にはもともと決まった休みなどないのであるが、今年は思いの外慌ただしく、ソリチュード愛好家組合主宰者が「わたしの時間」とすっかり縁遠くなっていた。まったくもって不甲斐ない事態、珍しくもなくなった「ケイティ死亡説再浮上」なる件名の友からのメイル。北海道の屋根、旭岳の初冠雪を見逃すことのなかったことだけが救いであった。 今年の初冠雪は9月20日。 去年の9月下旬の旭岳はもっとずっと雪が多く純白と言えるほどであったから、今年は温かいのだろう。地球温暖化の影響であろうか北海道の気候も変わりつつあるようで、今では「梅雨のない北海道」とは言えなくなってきているのだそうである。 夏の終わり、かろうじてiPhoneに収めていた十勝の森。 北海道に来てからいつもカメラを傍らに置いていて、気がつくとシャッターを切るようにしていた。毎月1000枚を超える写真には季節の移り変わりや小旅行の思い出が詰まっているのであるが、ここ半年はめっきりその数も減り、夏からこちらは20枚も残していなかった。 「ものづくりな頭」がお留守になっていたことを猛省しながら先日ふと仕事部屋から窓の外を見ると、おや、これは。大雪山系が微かに雪を纏っている。無性に嬉しく、心が安らぐ。 外に出よう。旭岳の雪を見たらそんな気持ちになって、旭川の自宅から隣町東川へと車を走らせ、季節が変わるたびに出かけるキトウシ森林公園へと向かった。 キトウシ森林公園から望む東川町。手前はエゾヤマザクラの紅葉。 今にも降り出しそうな空の下はストールを羽織っても肌寒かった。格子模様の美しい田園風景は稲の刈り入れも終わり、田畑は今、半年間の長い眠りに就こうとしている。 「あ、雪虫だ!」 何ですって!それを追ってか森の奥へと走っていく子供たちの叫び声。「雪虫」の言葉に高揚感急上昇の中年夫婦。「つかまえたー!」勝利の雄叫びを挙げる5,6歳の男児。自分たちのすぐ目の前で大量に飛んでいるのに気付かず子供たちが追いかけるのを目で追い、先を越されたとライバル意識むき出しの中年夫婦。「あ、あれだ!」夫はキャップを虫捕り網代わりにあっちだこっちだと彼らに負けじと走りまわる。 雪虫はコットンのような白い毛と羽を持つアブラムシの仲間で、5mmより小さいくらいのかわいらしい虫である。その命はとても儚くて、寿命は一週間、熱に弱いため人の手のひらに載っても死んでしまうことがあるのだという。本当に、雪のよう。「えええ、アブラムシ~」と友人の殆どが言うが、「いいや、冬の訪れを告げる晩秋のマスコットなのだ」と私は雪虫の名誉を守るべく高唱する。 5分後、「やった!」 イイトシをして涙ぐましいものだと同情してくれたのだろう、慈悲深い一匹の雪虫がキャップの内側に留まってくれた。雪を連れてくる、純白のオーバーコートを着た冬の妖精。 まだ元気かな、キャップに留まった雪虫/ snow fairy 雪虫は北海道やロシアのみに生息する虫かと思っていたが、トウキョウ・シティボーイの夫は子供の頃冬に見かけたのだそうである。ハマギャルの私は見たことがなく、雪虫の群れが螺旋を描いて飛んでいるのを「北海道の雪は特別な性質を持っている」と一瞬本気で思ったほどにその様子は神秘的だ。 他地域では綿虫や雪ん子、京都では「白子屋お駒はん」と呼ばれているのだそうだ。京都らしい愛らしい名前。私も呼びたいが、私が言ってみてもどうもはんなりとはならないのが分かっているのでできることなら京都出身の人に言って聞かせてもらいたい。きっとやんわりとした良い響きであろう。 旭川市出身の小説家・井上靖の「しろばんば」、これも雪虫の愛称であるが、残念ながら「しろばんば」の舞台は旭川ではなく何と伊豆である。となれば加えて残念なことに、雪虫は東京よりさらに温かい地方でも生息していることになり、夢の「雪虫は北海道の妖精」説は私の拙い妄想に終わる。 10月10日忠別ダムから見た旭岳。雪を、ほんの少し。 我が家から約1時間、旭岳の麓、忠別ダム。ここから望む旭岳はダム湖にリフレクションを映しとても美しく、この辺りの絶景スポットのひとつであると私は思っているが、久し振りの絶景スポットに興奮が過ぎてダム湖を撮り忘れてしまった。 そしてここでも多くの雪虫が楽しそうに舞っていた。来る、雪が来る。一週間後か、二週間後かと胸が躍る。 そうして10日、11日と連日現れた雪虫たちは翌々日、街より先に大雪山に雪を降らせた。下の画像が13日午後4時頃我が家のバルコニーで撮影した旭岳である。午前中は曇っていたがお昼頃から雲が切れ始め、夕方には美しい姿を見せてくれた。 自宅バルコニーから、10月13日午後の大雪山系・旭岳。 この時季の山はとても良い。新雪を眺めながら同時に紅葉も楽しめる。今年は先月の胆振東部地震が影響して観光が随分と落ち込んでいるが、それでも旭岳への一本道には多くの車が走っており、ところどころ外国からの観光客が旭岳を背に記念撮影をしているのを見ながら胸が温かくなった。観光地・旭川に暮らせばこれは日常の光景であるも、この日はあらためて、地震の恐怖にも敬遠せずこの地を訪れてくれた人たちへの感謝と、災害に負けない北海道の強さへの安堵を胸に抱いた。 今年も雪虫がやってきた。旭岳に雪を届け、街はいつになるだろう。秒読み。私はそうだな、次の木曜日と予想しよう。
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青春時代の入口で~西高野球部闘魂注入ダンサーズ
Everybody’s youth is a dream, a form of chemical madness. – F. Scott Fitzgerald 仕事にかまけて短い夏に背を向けていたら、いつしか旭川には涼やかな風が吹き、9月。辺りを見回せば、ススキやコスモスが揺れている。 無類の旅好きがこの夏は極小旅行にも出かけずいじけ気味であるのだが、日本に来てから夏の楽しみになった高校野球がひとつ、私にレモンスカッシュな思い出をつくってくれた。 遡ること6月28日。前日雨で順延になった高校野球旭川地区予選の試合がどうやら開催される模様。時計を見るとあと20分で試合開始とある。大急ぎでその日は休日の夫を起こして支度をし、ブレクファストに用意しておいたアップルデニッシュを持ってスタルヒン球場へと急いだ。 スタルヒン球場は本当は旭川市民球場と言うのだそうだが、ロシア帝国に生まれ旭川で育った伝説の投手、ヴィクトル・スタルヒン(1916-1957)の功績を称え「スタルヒン球場」と名付けられたそうである。ロシア革命、第二次世界大戦と激動の時代に苦しめられた彼の人生に触れ、あらためて戦争への憤りと平和でなくてはならない日本が変わっていきそうな懸念に胸が痛む。 さて、記憶に残る最後の野球観戦は確か Yankee Stadium. しかも現在のスタジアムではなくBabe Ruth や今も我等夫婦が愛して止まない “Donnie Baseball” Don Mattingly のホームグラウンド、旧球場であった。Hideki Matsui も大活躍していた頃だから随分前のことになる。 学生時代はほぼ毎週末ヤンキースを観に行っていた。当時はそれを誇らしく思えるほどの弱小チームで、現在とはまったく違った、昔ながらのワイルドなヤンキースだった。あのムードがなくなっていくにつれ、私はMLBを見なくなったように思う。 ヤンキースに纏わるエピソードは尽きることがないが、球場近くの駐車場に車を止め外に出ると、ブラスバンドの演奏と応援団の声が高らかに響いていた。 「初めてのスタルヒン球場」の感動もそこそこに球場に入ると、地区大会だからか午前中の試合だったからか観客数はそれほど多くもなく、私たちはバックネット裏中段辺りに腰を下ろし、アップルデニッシュを食べながら観戦し始めた。 楽しい。もう楽しい。その場に座っているだけなのに、初々しい熱気が球場いっぱいに広がって見ている私たちにも伝わってくるのだ。 強豪旭川実業高校対旭川西高校の戦いは、1回の裏西高校の攻撃中であった。北海道の高校野球を知らなくとも地元対決というのはそれだけで見応えがあった。が、ひとつ問題が。どうせならどちらかひとチームを応援したいスポーツ観戦、なのにどちらを応援してよいか分からない。両校の選手たちが一生懸命プレイしているのにどちらか一方を選ぶだなんて、私にはできない。強い方?弱い方?うちに近い方?いくら何でもそれは違うだろう。そこで試合を観戦しながら心が傾くのを待つことにした。 どこかのサイトに北北海道は旭川実業が優勝候補の一校であると書かれてあって、なるほど引き締まったプレイにまとまりのある応援団。強豪と言われるのにただただ肯く。トランペット・ソロもなかなかの腕前。盛り上げるなあと感心。 すると突然、びびびと私の好奇心アンテナが10時の方向へと伸びる。左前方、西高校の野球部員らしき男の子が5人、半狂乱(でもないか)でブラスバンドの演奏に合わせ舞っているのである。ダンスを、しているのだ。 今はどこの学校もこうなの?確かに野球部員だ、ダンス部員ではなかろう。曲によってダンス、そう、闘魂注入ダンスも違うフォーメーションで実にかっこよく、実におもしろい。これが野球場でなければパフォーマンスだと思ってしまうくらいだ。チアリングも変わったものだなあと、時代比較、日米比較しながら実感する。本人たちにはおそらく「真剣なんだ、おもしろいなどと言ってくれるな」と言いたいところであろうが申し訳ない、見ているこっちは楽しくてたまらない。 にじりにじりと3塁側に近寄って行く怪しい中年夫婦。 そして気が付けばこんなところに。時折飛んでくるファウルボールに怯えつつも西高野球部闘魂注入ダンサーズ「ウェスト・ハイ・マイティ・ロケッツ(West High Mighty Rockets)」(勝手に命名)は休むことなく踊り続ける。真剣な、というより無表情でマーチングバンドに導かれるまま飛び跳ねる。ヒットが出ると大歓声。点が入るとまた飛び跳ねる。青春は、跳躍だ。 彼等5人とブラスバンド、チアリーダーズ、声援に駆け付けた生徒たちの声と動きが一つになってフィールドに注がれていた。甲子園の大舞台でなく、地区大会だからこそ強くそれを感じられた。マイティ・ロケッツは休むことなく、次々と繰り出される楽曲に合わせダンスを送り届ける。選手たちを、また応援席にいる全員を奮い立たせるように。 試合は惜しくも10-5で敗退となってしまったが、彼等は試合を大いに撹乱し、私たち見ている人の心を震わせた。勝った旭川実業の攻守も、応援も素晴らしかった。 選手たちが3塁側の応援席へと駆け付け美しい一列をつくると、応援団も前方へ駆け寄り大きな拍手を送った。ここにいる西高生全員が猛烈に感動しこの瞬間を心に刻み込んでいるのだろうと思ったら、遠い昔の高校時代が脳裏に浮かんで私の胸も熱くなった。 西高野球部の今年の夏は終わったが、去って行く背中を見送りながら、あの子たちは今、青春の入口に立っているんだなとふと思った。青春時代は人生のうちで最も楽しくて苦しくて、甘くて切ない季節。初めて味わう感情をいくつも積み重ねていく時間。熱い思いを抱いて足を踏み入れて行く彼等の足下は明るい光に照らされ、頭上には虹のアーチが歓迎していることだろう。何十年も経ってから、夢のような時代であったと振り返ってもらいたい。 そういえばこの日のスタルヒン、涼しい顔をしているようで実は笑いをかみ殺しているのを私は知っている。 両校の応援の中に、こんなふうに叫ぶのがあったのだ。 「オマエハイイオトコ ○○○」…
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Moments 27:海の青を守る積丹菩薩~Pray for the Blue, Buddha of Compassion
自宅のある旭川は北海道内でも夏の暑さが厳しいことで知られるが、今年の猛暑は残酷とも言え、これで道内のクーラー普及率が上がってしまうかと思うと涼やかな自然風が自慢の北海道にも温暖化の悪影響が広がることは必至、心配でならない。 「地球温暖化は作り話だ」また昨年厳しい寒波に見舞われた自国に対し「我が国にもほんの少し地球温暖化が必要だ」などと平然とツイートしてのけるアノ方の言葉をよりにもよってこんな時に思い出してはカッカカッカと勝手に暑さを助長する愚かな我が身が情けない。 ならば気分だけでも爽やかな夏をと出かけたドライブも異常気象に完敗、どう頑張ってもクーラーは必要であり、ゆえに車内は涼しいには涼しい、けれど強力な日光が肌にチリチリと射し込み「どこかでおいしいシーフードでも」とか言ってたくせにすっかり食欲も落ちてアイスバーばかりペロペロ舐めている始末であった。 積丹町から美しい積丹ブルーを眺めながら小樽・札幌方面へと向かう途中、巨大なこの岩に出会う。実際に名称を持つのかは分からないが、柔らかい鼻やあごのラインと穏やかな風貌から私は「積丹菩薩」と呼んでおり、彼女の前を通り過ぎる時には必ず声を掛けている。 「こんにちは、よろしくお願いいたします」 彼女は積丹の美しい海を望み、背後にちっぽけな私の声を感じながら何を思っているのだろう。平和な世、美しい地球の存続を念じてくれているようには見えまいか。 だからついお願いしてしまう「よろしくお願いいたします、明日も、10年後も100年後もこの海が青く、ここに暮らす人たちが夏を楽しんでいられますよう守ってあげてください」。私は本当に微力だから、つい。 「ならばまずはあなたも日々の暮らしに気を配りなさい」と積丹菩薩に窘められそうで気が引けるが、菩薩を通り過ぎてからも、私の左に広がる青い海と北海道の短い夏がいつまでも変わらぬよう、クーラーを切って窓を開け、手のひらいっぱいに暖かな海風を受けて祈った。 ◆後日談: 私の名付けた「積丹菩薩」実は「弁天岩」と呼ばれているのだそう。そうか、弁天様か。でもなあ、菩薩の方が、イメージに合うんじゃないかなあ。
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雨音を聴く水曜午後3時
Music: Jeux d’eau – Ravel 冷たい雨の水曜日。晴れていればスタルヒン球場に高校野球の予選でも見に行こうと張り切っていたのに中止の発表。しかたがないから町の小さなソリチュードでも探しに出ようと支度をした。 2時間走って辿り着いたのは空港近くのアイスクリーム・パーラー。私たちとすれ違いに2色のアイスクリームを手に車に戻るパリッとグレーのスーツを着こなした男性。ふと夏のマンハッタンを歩くビジネスマンを思い出す。 新鮮な雨水を受けてすくすくと育つぶどうの葉の喜ぶ様子が手に取るように分かる。秋にはこのぶどう棚いっぱいにプヨンと弾力のある甘酸っぱい実をつけるのだろう。 道民は雨が降ろうが雪が舞おうが老若男女アイスクリームを食べるトライブなのである。例え5年選手でもね。エアリーもコクの深い上質なアイスクリームに午後の気だるさが吹き飛ぶ。 今日のフレイバー: Mocha + Strawberry 店には店主の女性と私たち夫婦のみで、店先の水たまりに雨粒が落ちる音が聞こえる。 ポロン、ポロン、ポロン、トゥン。最後のトゥンは、高く響く。 淀みのない澄んだ雨の音楽はリズムよく、休むことなく続く。それはピアノのような、あるいはグロッケンシュピールの鍵盤の上でマレットがはじけるような、軽快な音。 6月の雨を好きだと言う人は少ないが、6月の緑は一年で一番美しい。秋色の葉も、憧れの眼差しで生き生きと季節を満喫する豊かな緑を眺めているよう。 「どんな植物も、6月だけは緑でないと」かわいい愚痴が聞こえてくる。 夏を待てないパティオのチェアは少し寂しげにベンチに向かって恨みごとを言うと、ベンチは涼しげに微笑んでチェアを宥めるに違いない。 「もう7月になろうってのに、ああもう冷たい。体が冷えるわ、ねえ」 「鉄の椅子になったことも北海道に送られたことも、すべて運命、受け入れることよ」 ◆ When it rains in Japan, they often make the hanging dolls with papers or fabrics called “Teru-Teru Bozu” meaning “the boys that bring the sunshine” as a kind of good-luck charm…
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Moments 26: Linger
There must be something strangely sacred in salt. It is in our tears and in the sea. – Kahlil Gibran 4月の海にはまだ冬が漂っている。 北へ向かうのを躊躇っているかのように留まる。 送り出そうか、引き留めようか。 心も波にまかせて寄せては引き、もじもじする。 雪の残る浜辺に立つと、潮風が時折遠い昔の思い出を連れてきて厄介だ。 何も考えずに眺めていたいのに、面倒なことをしてくれるな。近寄ってくれるな。 すると仕方なさそうに潮風は、耳元でギブランの言葉を囁いてみせる。 すべては塩のせい。清らかな潮風の神秘が心を揺さぶるだけだと。 そうか、思いを残したものたちとの決別は潮風にまかせるのがいい。 身勝手な私は都合のいい答えを得て 心を痛めず思い出たちを波に乗せたら4月の海に背を向ける。
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早春のWhite Savanna
ようやく春の足音が聞こえ始めたホームタウン、旭川。雪解けも進んで道路が見えるようになった。日差しも幾分暖かくなって、これから散歩が楽しくなる。 その前に、長い冬の締めくくり。 朝晩はまだ-15℃程度まで下がっていた旭川であるが2月28日のこの日はよく晴れて日中は-2℃まで上がり、気持ちが春めいて散歩をしようと旭川の誇り、常磐公園を訪れたのだった。 公園内は、除雪された散歩道を除きこの4,5カ月間に降り積もった1mを超える雪が一面に広がって、あらためて道北の厳しい冬を振り返らせた。 カメラを提げた夫が木の上に残った雪を見て言った。 「動物だ」 なるほど辺りを見回してみると、見える見える、気に登って昼寝をしている動物たちが。ここはまるで、純白のサバンナだ。 木登りしているか、あるいは下りようとしているかで微妙に動物の種類が変わってくる。左を頭とすると小象に見える。 生まれて間もない子供たち、と思って見てみるとかわいらしい。 しっぽを垂らして枝の上で眠っているライオンの姿などはまさにサバンナ。 ね、こんなふうに。 どれも同じに見えるぞと言われてしまいそうであるが、個人的にはこれがこの日のベストショット。パンダに、パンダに見えません? シャンシャンとまでは言わないが、今にももそもそと枝を伝って下りてきそう。 もはやアフリカに留まらず、ブレまくりのホワイト・サバンナである。 冬季旭山動物園のアイドル、ペンギン。今にも海に飛び込みそうな姿がかわいい。 今、「あ、ほんとだ~」って思いませんでした? 番外編は、北海道の開拓に尽力し初代北海道庁長官となった岩村通俊(Ⅰ840-1915)の銅像。彼は旭川が秘めた将来への可能性を見通し同市を東京、京都に次ぐ都にと推していた。 もしもこの構想が実現していたら北海道の道庁所在地は札幌ではなく旭川になっていたかもしれないという夢のような本当の話。 このような立派な人物を茶化すようで気が引けるが、どうにも岩村氏がバレエのtutu を履いて立っているように見えて仕方ない、と言ったのは私ではなく我夫である、と言い訳させていただこう。 これはもう生きものではなく、よれよれのお化け。 とまあ、見方によってはおもしろい木の上の雪を眺めながら大いに笑い、寒い中たっぷり2時間散歩を楽しんだ、良い休日であった。 そして最後に見つけたのは、エゾヤマザクラの小さな小さな蕾。常磐公園の桜の開花予想日は、今年は去年より少し早いか、5月4日。