Category: Travel
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11番目の部屋
私の心にはひと月ごとの思い出が詰まった12の部屋があって、中でも11月の部屋はもう、扉を開けようものなら思い出がぱーんと飛び出してきそうなほどに忘れがたい思い出でいっぱいなのであるが、ニューヨークの家を離れてから毎年この時季に記憶が連れてくるのが、11月になると訪れた小さな町の風景である。 ペンシルベニア州ランカスター郡。アーミッシュ居住区である。日本ではハリソン・フォードの主演映画 “Witness (邦題は「刑事ジョン・ブック 目撃者」)”で知られるところではないかと思う。 ニューヨークの家から車で2時間弱のこの町にはキリスト教を重んじるドイツ系移民が暮らす。厳しい規律によって移住当時の暮らしを守っており、基本的に電気のない自給自足の生活を伝統的に続けているという。 町を車で走っていると、道端を馬車で走るアーミッシュの女性に出くわす。反対車線からは自動車が連なり、人種とかライフスタイルとかよりも、彼らと私たちの相容れぬ哲学の境界線を見ているような気分になる。例えば衣服についても、彼らは無地の生地で作った決まったデザインの洋服を身に着ける。確かに街を歩くと子供たちの洋服には大人よりも多少カラフルなものがあるが、フリルの入ったワンピースなど着ているアーミッシュの少女など、当然なのだろうが見たことがない。到底真似のできない信仰の深さと意志の強さに畏れさえ感じる。 が、彼らこそが現代社会との関わり方に苦悩しているのだそうだ。情報社会のアメリカで電話やテレビのない生活はとても難しかろう。実際、アーミッシュの家族が住んでいるらしき家のすぐ横に立つ電信柱にその苦労が垣間見える。 現在は実際のところどうなのか知る由もないが、アーミッシュの基本的な戒律を紐解くと、彼らの教育は日本でいう中学2年までで終了するようである。その後16歳になると「ラムスプリンガ(Rumspringa, Rumschpringe)と呼ばれる「猶予期間」が与えられる。宗教生活から解放され、所謂「俗世」の仲間入りをしてみる2年間で、その後教会へ戻るか、アーミッシュとしての人生を捨てアメリカ人として生きていくかを選ぶことになる。驚いたことに、85~90%の若者たちが教会へ戻っていくそうである。 *アーミッシュの人たちは宗教上の理由から基本的に写真撮影を拒否する。上の写真は声をかけて「私と分からないように遠くからなら」と了承を得たもの。 ただやはり、ランカスターにも妥協点はある。今やどの国も観光産業なしには成り立たないと言えるだろうが、この町もすっかり観光スポットと化し、ギフトショップのカウンターにはコンピューターを操作するアーミッシュの店員がいたりする。文明社会に生きる私たちにとっては特段目にも入らない光景であるが、ここに来てそれを目の当たりにすると、心の片隅がほんの少し痛む。 同情とかそんなことではなく、本来あるべき自分たちの姿と、アメリカという巨大先進国に在る現実との狭間でどう折り合いをつけていくかを常に問われているのではないかと考えた時、大きな壁に沿って歩く彼らの運命に、畏敬の念が溢れ出すのだ。 尤も、彼らのコミュニティから地球と冥王星ほども離れた場所で生きるゆるキャラ・ケイティが勝手に考えることで、実はもっと大らかに捉えているのかもしれないが。 けれど私にとってこの町の記憶はきっといつまでも、己の存在価値を再考させる場所である。これでいいのかな、いいわけないなと教会へ行くような気持ちで、思い出すたびに悔い改め、姿勢を正す。あっという間に忘れるところが相も変わらない私の愚かさであるが、それでも毎年11月に懺悔の気持ちを呼び起こしてくれるランカスターは心の洗濯場所で、いつも感謝している。 今年も11月が来るなりアーミッシュキルトの鍋敷きをキッチンのアクセサリーに飾った。もう30年近く使っているためボロボロでとてもお見せできないが、これを見つけた時の喜びやお店の様子、カウンターの女の子との会話までしっかりと覚えている。彼女は「実はニューヨークチーズケーキが好き」とほんのりピンクの頬で愛らしく笑っていた。ラムスプリンガの間に多くの刺激を受け、それを思い出に戻ってきたんだろうな、彼女も。 * そろそろThanksgivingだ。アメリカにいれば4連休を使って小旅行に出かける計画があって今頃はハートうきうき新しい靴だのバッグだのを見て回っているのであろうが、今年などは忙しくて七面鳥を焼く時間さえ見つけられそうにない。せめてパイくらいは用意して「仕事まみれの感謝祭」とこんなタイトルの小さな思い出を、ランカスターの雄大な秋へと心を返し「これではいけない」と毎年のように悔いながら、扉を開ければ数々の思い出がぱーんと飛び出す11月の部屋にまたひとつ、詰め込むことにしよう。
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桜も女もところ変われば
数日前、両親から電話。 「今ね、桜を見てきたのよ」と母が言う。する今度は父が「すっかり春だよ」と続ける。能天気な老夫婦は代わる代わる東京にやってきた美しい季節を語り、それを聞く娘の目線は窓の外の猛吹雪だったりするから日本は小さいなんてとても言えないなと思う。 遠い昔暮らしたワシントンD.C. のポトマック川沿いには日本から贈られたソメイヨシノがこの時季咲く。日米両国の友情の証であることを訪れるたび肌で感じられる、私のように外から母国を学んできた者には心の安らぐ優しい河畔である。 春の訪れを祝う「桜まつり」も開催される。 早春のポトマック川を彩る桜は我が国有数の桜処、奈良県・吉野山の木なのだそうでアメリカでも “Yoshino cherry trees” と紹介するが、これがところ変われば水変われば、であろうか。驚くなかれ、優美で儚いはずの私たちのソメイヨシノが、帽子のみならずバッグまで飛ばされるほどの強風にも花弁一枚手放さないのである。 ち、散らない。梃子でも動かんぞくらいの枝の力強さに目がテンになる。 むしろこのアーチの中を歩くと風さえブロックしてくれるワシントンの桜。リンカーン大統領は日本のソメイヨシノをご存知のはずもなく、河畔を指差しつい教えてあげたくなる。 「こんなんじゃないんですのよ本当に、日本の桜は。もっとこうはらはらと舞って」 次の瞬間、この偉大なる大統領に向かって何の意味もない仁王立ちでこれまた言っても仕方のない主張をする己の姿に体が固まる。見上げるとリンカーン大統領も私になど目もくれず小さな溜息をついている、「なんだコイツ」と。 少女時代の私は、お転婆で怖いもの知らずなところは今と何ら変わりはないが、発しようとする言葉を風に乗せてやり過ごしてしまう性質を持っていた。油彩の先生は「絵画や音楽で表現することを覚えた人間は言葉を失いがちになる」と言葉で主張することを仕事にしていた我が母を宥めたようだが、口から出る考えや思いに対しての意識の低さは確かにあった。実際スピーチよりも文章を書く方をずっと好んでいた。それがどうであろう、やはりところ変わり水が変わり、振り返ればまあ、随分と図太くなったものだと思う。思いついたことを言わずにいるのはどうだろうというのが今の私。アメリカ教育の賜物?と言ってよい。 私だけではない。アメリカ、オーストリア、ドイツで教育を受け現在世界中を飛び回っている幼馴染もまた、日本にいる頃はおっとりとして黙ってフランス人形の髪を梳いている印象であったが、今では主張を戦わせたら私など1分で撃沈である。 小さな花弁を脅かす春の嵐にも動じないワシントンの桜はまさに、海外で活躍する日本女性(私は活躍などしていないのでここは除外するが)の姿そのものである。凛として逞しく、溌剌と生きる美しさだ。己を見失いそうになった時ワシントンの春を思い出すのは、この桜が背中を叩いてくれるからなのだろう。 時には「はらはらと春風に舞う」ソメイヨシノを取り戻したい気持ちになったりもするが、おそらくワシントンの桜で生きていくんだろうな、きっと。 去年から仕事が忙しくなって、今年は桜を見に旅に出ようなどと言っている場合ではなさそうなのが恨めしいところであるが、5月初旬、ここ北海道・旭川にも桜の便りが届くのを心待ちにしている。隅田川の桜よりも桃色の強いエゾヤマザクラと、桜餅の香りがたまらないチシマザクラの蕾が開くのを。 ◆ 昨日、新元号「令和」が発表になりこの歴史的瞬間に老いも若きも心を弾ませた日本であった。新しい時代がやってきて世界がどう歩みを進めていくのか分かる由もないが、何年何十年何百年と時は過ぎ今ここに生きる私たちが皆いなくなっても、何度も歩き愛でてきたポトマック川の桜がいつまでも美しく大きく平和に育ち、同時に日本女性たちが生き生きと活躍できる日本であろうことを、魂を込めて願う。
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Moments 27:海の青を守る積丹菩薩~Pray for the Blue, Buddha of Compassion
自宅のある旭川は北海道内でも夏の暑さが厳しいことで知られるが、今年の猛暑は残酷とも言え、これで道内のクーラー普及率が上がってしまうかと思うと涼やかな自然風が自慢の北海道にも温暖化の悪影響が広がることは必至、心配でならない。 「地球温暖化は作り話だ」また昨年厳しい寒波に見舞われた自国に対し「我が国にもほんの少し地球温暖化が必要だ」などと平然とツイートしてのけるアノ方の言葉をよりにもよってこんな時に思い出してはカッカカッカと勝手に暑さを助長する愚かな我が身が情けない。 ならば気分だけでも爽やかな夏をと出かけたドライブも異常気象に完敗、どう頑張ってもクーラーは必要であり、ゆえに車内は涼しいには涼しい、けれど強力な日光が肌にチリチリと射し込み「どこかでおいしいシーフードでも」とか言ってたくせにすっかり食欲も落ちてアイスバーばかりペロペロ舐めている始末であった。 積丹町から美しい積丹ブルーを眺めながら小樽・札幌方面へと向かう途中、巨大なこの岩に出会う。実際に名称を持つのかは分からないが、柔らかい鼻やあごのラインと穏やかな風貌から私は「積丹菩薩」と呼んでおり、彼女の前を通り過ぎる時には必ず声を掛けている。 「こんにちは、よろしくお願いいたします」 彼女は積丹の美しい海を望み、背後にちっぽけな私の声を感じながら何を思っているのだろう。平和な世、美しい地球の存続を念じてくれているようには見えまいか。 だからついお願いしてしまう「よろしくお願いいたします、明日も、10年後も100年後もこの海が青く、ここに暮らす人たちが夏を楽しんでいられますよう守ってあげてください」。私は本当に微力だから、つい。 「ならばまずはあなたも日々の暮らしに気を配りなさい」と積丹菩薩に窘められそうで気が引けるが、菩薩を通り過ぎてからも、私の左に広がる青い海と北海道の短い夏がいつまでも変わらぬよう、クーラーを切って窓を開け、手のひらいっぱいに暖かな海風を受けて祈った。 ◆後日談: 私の名付けた「積丹菩薩」実は「弁天岩」と呼ばれているのだそう。そうか、弁天様か。でもなあ、菩薩の方が、イメージに合うんじゃないかなあ。
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今なお熱き生命の痕跡~鹿追町・神田日勝記念美術館
If passion drives you, let reason hold the reins. – Benjamin Franklin song: A Mi Manera (Comme d’habitude) – Gipsy Kings 思うところあってPCからしばらく離れてみようと、仕事をほっぽらかして時折読書をしにふらりと出かける別宅で2週間を過ごした。その家の近所には気に入った古本屋があり、行くと必ず108円の本ばかり10冊ほど買い込んで読み漁る。古本を好んで買うことに文字を扱う仕事をする者として気が引けたりもするが、古本屋の豊富な蔵書にいつも感激する。 そんな中ある朝早く、小説の文字に目が霞み時間を持て余している私のために夫が芸術散歩を提案してくれた。 「神田日勝を見に行ってみない?」 神田日勝(かんだにっしょう) ー 4,5年も前だろうか、Eテレ(どうもこの名称に馴染めない。「教育テレビ」が好き。何でもデジタル仕様にすればいいってもんじゃないぞ)の「日曜美術館」ではなかったかと思うが特集番組を見る機会に恵まれた。北海道に生きた画家ということで興味津々で45分間一歩も動かず見ていた。テーマとされた絶筆で未完の「馬」に衝撃を受け、同時に今回展覧会のパンフレットになっている「室内風景」が心に留まって忘れられず、夫の誘いに二つ返事で出かける支度を始めた。 神田日勝が家族とともに戦災を逃れ8歳の時にやってきた十勝地方・鹿追町(しかおいちょう)は、今は爽やかな風の通る整ったきれいな町で、芝生の庭がみずみずしいコテージレストランで優しいお味のランチを摂った後、美術館へ向かうことにした。 館内は小さいがスタイリッシュな造りで程良い重厚感を持ち、天井が高く温かい光が絵画を包んでいた。その空間に私はアメリカ横断の途中どこかで立ち寄った小さな教会を思い出した。そうした神聖な空気の宿る室内であった。 入るとすぐ右から神田日勝の画家としてのヒストリーを巡る旅が始まる。最初の3作は赤墨色や柿渋色が古い写真を思わせる色彩で描かれていたが、センチメンタルに描こうとしたわけではないことは、力強い彼の画風を知るにつれ理解ができた。 ー 農民である。画家である。 農民画家と言われることを嫌ったと言われる神田日勝の心情を、苦しい労働を強いられていたであろうこの絵の朴訥とした男たちの、束の間の安らぎに体を沈める姿を見ながら想像してみた。戦火を逃れ開拓民として疎開してきた人々が新天地・十勝での苦労に打ち勝てず次々と去る中で、家族の明日のためひたすらに働き、何より好きな絵を描きながら彼は胸に抱いていたのは、厳しい環境を耐え抜いた開拓農家の跡取りとしての誇りと独学で自らの画風を確立した芸術家としての誇り。前者は彼の血肉に漲るものであり、後者は高度成長期のせわしい外界を寄せ付けない広く深く屈強なまでのインナーセルフに輝くものではなかったか。 「飯場の風景」1963年 作品写真:神田日勝記念美術館 “Landscape of the Camp” 1963, KANDA Nissho 横たわって眠る男の穏やかな寝息と左に目を閉じて瞑想する男の鼓動、冷え切った二人の肉体を温めるストーブのパチパチという小さな音が聞こえてくるようで、この絵の前を通り過ぎる時、二人を起こしてはいかんとつい音を立てないようにそうっと爪先で歩いてしまったりするのは私だけではないだろう。 神田日勝が描く男たちは、彼の描く馬と似たところがある。手足が大きく逞しい。彼が苦楽を共にした農耕馬もまたしっかりとした足を持つ。大地に足をつけて真摯に生きるものの姿は彼の生と芸術に対する情熱を投影したものと思われた。 また、この「飯場の風景」の全体像を見たとき、学生時代に学んだジョルジュ・ブラックの “Violin and Candlestick”という作品が頭に浮かんだ。背景のコンポジションや色使い、黒く太いシルエットラインが似ているように一瞬感じられたのだった。 “Violin and…
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GOD: Kamehameha Day, 1988
The vanquisher of life is the one who has more good old days in his heart at the end of the road. – SLU Song: One More Try – George Michael GOD – Good Old Days. 古き良き時代は国や町の歴史に留まらず、私たちの人生にも必ずあるものだ。 古い写真をニューヨークから持ってきており、折に触れデスクに広げてみては思い出の時を呼び戻す。遠い昔に想いを馳せる時間は本当に楽しいもの、ありがたいもの。 6月11日は「太平洋のナポレオン」と謳われたというカメハメハ大王を讃えるハワイアン・ホリデイ、Kamehameha Dayである。ハワイ各地パレードなどの催しで賑やかな一日となり公共機関や学校も休みとなる。 けれど思えば私はこの日ワイキキにいた試しがなく、パレードを見た記憶もひとつふたつ。しかも今でも忘れないが、この前日に友人がさらさらブロンドのフランス人男子にこっぴどく失恋し、彼女の心の傷を癒すべくセンチメンタル・小ジャーニーに出かけたのだから、カメハメハ大王には申し訳ないが、お祝いムードは微小であったと言える。 車2台で友人5人と私はワイキキを抜け、ダイアモンドヘッド側から島を廻った。昨日の今日で失恋したエリスはゆったりと海を眺めることもせず、私のどこが不満なのかと暴言を吐いては泣き、泣いては歌い、車窓の外へ向かってまたわめき。 カーレディオから、ちょうどこの時どのラジオステーションを聴いてもヒットチャート1位を独占していた我らが George Michael の(彼については思い出話がいくつもあり、いつかお話させていただくこともあるかと思うが)よりにもよって “One More Try” がかかりまくっており、私たちはこの歌を耳にするたび涙の大合唱でエメラルドの太平洋をすっ飛ばしていった。 青い空も流れる雲も、そして咲き誇る南国の花たちも、この日のこの瞬間にしか見せない顔を持っていた。当時は何気なく見上げその気もなくシャッターを切ったこんな風景が、30年を経た今再びまったく同じ色で同じ香りで頭上に蘇り、あの頃の私を連れ戻してくれるタイムマシンになっている。 私たちがその存在を認められる唯一のタイムマシンとは、アインシュタインの相対性理論なんかよりもっと身近な「写真」を言うのではなかろうか。 裏オアフの海はサーフィンのメッカでもあるが、私の目にはポルトガルの「サウダーデ」にも似た涙色のエモーションが漂っているなとしばしば思う。何だろう、時に置き去りにされた寂しさや虚しさというような。…
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Moments 26: Linger
There must be something strangely sacred in salt. It is in our tears and in the sea. – Kahlil Gibran 4月の海にはまだ冬が漂っている。 北へ向かうのを躊躇っているかのように留まる。 送り出そうか、引き留めようか。 心も波にまかせて寄せては引き、もじもじする。 雪の残る浜辺に立つと、潮風が時折遠い昔の思い出を連れてきて厄介だ。 何も考えずに眺めていたいのに、面倒なことをしてくれるな。近寄ってくれるな。 すると仕方なさそうに潮風は、耳元でギブランの言葉を囁いてみせる。 すべては塩のせい。清らかな潮風の神秘が心を揺さぶるだけだと。 そうか、思いを残したものたちとの決別は潮風にまかせるのがいい。 身勝手な私は都合のいい答えを得て 心を痛めず思い出たちを波に乗せたら4月の海に背を向ける。
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Moments 25: 視界を埋め尽くす氷の群れ
過ぎゆく季節を惜しみながら、本日は流氷のお話。 2月21日。 2月が来ると毎日のように「流氷速報」を確認し、こちらのスケジュールと流氷の接岸がぴたりと合った日にはカメラを提げて車に乗り込む。 北海道の流氷は、オホーツク海のロシアに近い北岸で海水が凍りつき結合しながら南下してくるのであるが、いったん接岸してもその日の風の強さや向きによって陸から離れるため、一般人の観測は行き当たりばったりなところがある。 この日東へ向かうこと3時間、海岸線に出ると海が一面、凍っていた。厳密には流氷が密集して凍って見えたというものだが、きっと誰の目にも凍結した海。前日に接岸していたことを確認した上で当日のドライブを決めるも、一度ミスを経験していたためあまり期待せずに行こうと夫と話した。ところがありがたいまでの裏切り、これほど見事な流氷は初めてであった。 目の前の世界は蒼白く、水平線にだけ日が差して天と地を分けているように輝いていた。 視界を埋め尽くす氷の群れは、ロシアと日本を繋いでいるかのように思われた。ロシアからキタキツネが流氷に乗ってやってくるというし、こう凍っていては巡視船も動けまい。ここからぐんぐん歩いて行ったら国後島に着いちゃうんじゃないかしら、なあんてことを考えたりもした。 世界は不自然や不幸に満ちている。どれも元は人の心が動かし生み出すものだ。何と面倒なのだろうと思ったらひどく疲れたような気分になった。自然は感情など持たず私たちに島と島とを繋げて見せるのに。 つまらないことを考えながら時の止まったような、波音のない冬の海を凍てつく北風に耐えながらいつまでも眺めていた。 ◆ さて3月も中旬、東京はあさってが桜の開花予想日になっている。北海道は明日も雪の予報だが、流氷はいつまで見られることだろう。
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砂に消え過ぎたGUCCI
今さっきふと思い出した、もや~っとした自責の念。昔から何度も心を癒してくれたこの曲でお付き合いください。 “To You Sweetheart Aloha” – Charles Kaipo 学生時代の約4年をオアフ島で過ごしたが、ニューヨークなどの大都市と違い、ご想像のとおりハワイの週末はビーチ・ドライブ・映画・ショッピングかナイトクラブ、と娯楽が限られている。どれもとても好き。でも日焼け? 来るなら来い、VitaminC満タンのピチピチ女子にはやはりビーチだ(後年これもほっぺたのソバカスを眺めながら後悔することになる)。日曜の朝などお宿題をするのもビーチだった。 数あるオアフ島のビーチでも行楽客の多いワイキキやハナウマ・ベイではなく、当時は今よりもっとずっと静かだった所謂「裏オアフ」、カイルア・ベイやカネオヘ、更に足を伸ばしてワイメアやハレイワまで行くことが多かった。 学生時代、バングルウォッチが好きでいくつか集めて使っていた。一番気に入っていたのは大学の入学記念に父が買ってくれたもので、これは特別な日に身につけるため普段はクロゼット奥深くにしまってあり、毎日学校へしていくのはグッチが多かった。気軽に身につけられるという安易な観念がいけなかったのだろうか。私はハワイにいるうちに、グッチのバングルウォッチばかり4つビーチで失くした。 何度思い返してもいつどこで、に見当がつかない。友人たちと夢中になって遊んでいるうちに手首からするりと外れて落としたようなのだ。日曜日の夕方、家に戻ると時計が、ない。海に落としたとはどうしても思えない。 2個目はそれから半年くらいした頃だったと思う。この時は帰り道に気付いてビーチへ戻り、遊んでいた辺りを探してみたものの見つからずじまい。もうバングルをしてくるのはやめようとぼんやり思っていたにもかかわらず、その後1年にひとつのペースで性懲りもなく落としたのだった。4つ目を落としたときには「もう絶対失くさない」と誓いまで立てていたのを覚えている。それなのに。別のブランドのものは失くさなかったのにグッチだけ、どうして。いやそれ以前になぜそうまでしてバングルを選んだのか、私は。 「飽きないねえ」と友人たちには呆れられ、意地になって「ノース(ノースショア)には砂の奥にグッチに恨みのある霊が潜んでいるのかも。彼女を裏切った恋人がグッチの店員だったのかも。それでグッチが視界に入るや否や指先ひとつで消滅させる」こんな無駄話でごまかしてみても所詮は己の不注意でしかなく、大いに反省した私は以降腕時計をするのを止めた。 さすがにもう随分と前のことだしどんなに探しても見つかりもしなければ見つかったところで使えやしないだろうが、よくいるでしょう、ビーチで金属探知機を滑らせて歩いている人。きっとそんな人に拾われて売り飛ばされてしまったのかもしれないな、4つとも。 妙なアイデアが頭に浮かんだ。もしも、もしも同じ誰かが4つすべてを見つけていたとしよう。そやつはおそらくこう思う。 「ここに来ればまたグッチをゲットできるんじゃないか?そしたら俺の可愛いキャロリンにひとつ、点数稼ぎにママにひとつ、もうひとつは妹のモーガンにはやらないで売っちまおう。ウシシシ」 そして毎週月曜日の早朝4時半、人気のないビーチで金属探知機をいつもより入念に滑らせることになる、何カ月も、何年も。ハワイとは言え夜明け前の海風は冷たいものだ。風邪も引いただろうに。最後は憑かれたように、探さずにはいられなくなるだろう。もしかすると今も毎週月曜日の午前4時半、とっくに使えなくなった金属探知機を滑らせ、遂には近所の人たちに “MDP(metal detector psychopath/金属探知機サイコパス)” とお安いあだ名の一つも付けられているかもしれない。 いつまでもそうして虚しき夢を見ておれ、フン。 ◆ 正気に戻って振り返る。そんなわけないか。いつになったらこの思い出とさよならできるのだろう。無駄且つ私の方こそ虚しき妄想で当時の後悔を払拭しようにもどんどんMDPの罠にはまっていくという、何とも情けない年の瀬の夜。
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恋のまち札幌のクリスマス2017
Merry Christmas, friends, family and lovers! “Wonderful Christmastime” by Paul McCartney 今年も恒例の札幌「ミュンヘンクリスマス市」に行ってきた。ちなみに札幌市とドイツのミュンヘンは姉妹都市である。 12月23日、天皇陛下のお誕生日である昨日は土曜日の祝日とあってか北の大都市・札幌も交通が緩やかだったが、街には既にクリスマスが待ち遠しい恋人たちや家族連れ、仲良しグループで溢れていた。 雪も厳しい寒さも小休止で気温も2℃と過ごしやすく、2時間ほど歩くにはちょうど良い陽気となった。いつもならファーのたっぷりついたフードのベネトンのスノージャケットを着て行くところが今年は必要がなくて助かった。このフードをかぶると頭部が巨大になり1時間歩くとだいたい20人くらいに笑われるからである。 本場ドイツのホリデイマーケットには到底適いっこないが、ドイツやロシア、ポーランドの工芸品やグルメを集めたあったかい札幌のクリスマス市はかわいらしく活気があって、とても楽しい。私は今年で5回目、これを逃しては年を越せない。 どのブースも小さいが、ところ狭しと飾られたオーナメントや雑貨に会話も弾む。ちょっと高価な雑貨を前に男の子が「もっと稼ぎがよければなあ」というと女の子が「私、別にこんなの欲しくないよ、こっちの方がいいな」と言って小さな木彫りのサンタクロースを手に取っている光景に心が温まる。つい「この二人はdestinyだ」と勝手に思ってしまう。 今年のクリスマスツリーはとてもよかった。クラッシックで温かで。奥に立つテレビ塔との相性もそう悪くはないし、周囲の人たちは皆スマートフォンやiPad を向けて何度も何度もシャッターを切っていた。 ミュンヘンクリスマス市の常連のこの店を見つけると、ああ今年もクリスマス市に来たなと華やいだ気持ちになる。置いてあるものが少し高いけどね。 光はイエス・キリストの誕生を象徴する大切な存在。人並みから外れて立ち止まりしばらく見つめているだけで神聖なクリスマスの空気が身体の中に注ぎ込まれるようだ。 毎年大人気のローステッドアーモンド・ショップ。前を通るとシナモンの良い香りに引き寄せられる。温かいグリューワインを飲みながら店の様子をうかがっていると、1000円札がカウンターを飛び交っていた。元気な札幌、豊かな日本に胸が躍る。 アーモンドショップの2大スターはムービースターのようにかっこいい。にこりともせずひたすら仕事にかかっているから余計にかっこいい。King of Christmas Market・サンタクロースも素敵、でも私は断然こちらである。 我が家は毎年このマトリョーシカのお店でオーナメントをひとつずつ買っている。ここも人気のブースで、このほか約300年前に誕生したと言われているロシアの伝統漆塗り「ホフロマ/Khokhloma)の漆器や、ロモノーソフ(現在はインペリアル・ポーセレン)と並んで知られるグジェリの食器なども見かけた。 マトリョーシカは何とかわいい工芸品だろう。これもいつも思うのであるが、若い恋人たちが楽しそうに工芸品を選ぶ姿はいいものだ。二人のクリスマスの思い出の品にもなるし、「ロシアってすごいねえ」という一瞬(どこらへんが?)と尋ねたくもなっちゃうが、とにかくイカした日本、素敵な外国を知る機会をこんなふうに身近に得られるのは幸せなことだと思うのだ。一度きりの人生だもの、たくさんのことを知りたいじゃないの。 今年この店で選んだオーナメントはこれ。我が家のオーナメントは150を超えたが、よく見てみると青いものがひとつしかなかった。清楚でかわいい仲間が増えて大満足。 恋する二人の記念撮影スポットNo.1はここだろう。クリスマスとヴァレンタインズ・デイが一度にやってきたようなロマンティックなツリー。あとからあとから若いカップルがやってきてはスマートフォンに向かって頬を寄せて、愛らしかった。 一昨日LEDを軽く批判してしまったばかりであるが、ドリームランドな散歩道は無数のLED電球で照らされ、その中を歩く笑顔がどれもとても美しかった。 人生甘いばかりではないけれど、こういう日があるから涙の味に唇をきゅっと結んでしまう日も乗り越え、忘れられる。 札幌も素敵ないい町だ。夫共々我が町旭川が一番だと思っているが、ずっと大都市で生きてきた私たちにとって札幌は肌に馴染む。ちょっとワシントンに似ているかな。ニートで洗練されていて、けれど歴史と文化が街中に漂っている。 スノーホワイトのきらめきに彩られた恋のまち・札幌。気持ちが華やぐ。 さて今年のミュンヘンクリスマス市は今日24日が最終日。 午後9時まで。近郊にお住まいでしたら急いでお支度して。まだ間に合う。 Click Here→ ミュンヘンクリスマス市 in Sapporoオフィシャルサイト
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しれとこ旅情のイノセントな裏切り #2
早い話が、北海道及び国後島に白夜はないということだ。 白夜は緯度が66.6度以北の北極圏で起こる現象で、60度34分以北でも、太陽は沈むが完全に暗くはならないため白夜に分類することがあるという。ちなみに残念ながら、北緯42~45度の北海道で白夜が見られることはないのだそうだ。 オーロラだって見られるのに、白夜があったっていいじゃん、と言いたいところであるがこればかりはどうしようもなさそうである。 なぜ事前に調べていかなかったのか、簡単なことではないか。あらためて愚かな我が身を呪った。加えて知床第1日から興奮し過ぎて夜も早いうちに眠たくなり、ウェイクアップ・コールを頼み忘れ、白夜どころか目が覚めたら午前7時40分。太陽は既にオホーツク海を笑顔で見下ろしていたという始末。 ああーん、白夜が。何も知らない私はそう叫び、朝食を済ませたらロビーで誰かに教えてもらおうと息巻くも、大恥をかく結果に。 ケイティ「すみません、知床で今の時期白夜を見るには・・・」 「どうしたらいいですか?」まで言い切る前に遮られてしまう。 スタッフさん「見たいですよね、白夜。でも残念、北海道では見られないんです」 ケイティ「でもしれとこ旅情の歌詞に」 スタッフさん「あれ、ウソなんです」 ああ、無情。ここまできっぱり言われてしまうと、あとはもうがっくり落っこちた両肩をお見せして完敗を宣言するほかない。 ケイティ「た、大変失礼いたしました」そう申し上げそそくさと退散した。 知床は、西に位置するオホーツク海側の斜里やウトロと東に位置する太平洋側の羅臼(らうす)に分かれるが、私たちはウトロに宿泊しており、斜里ー羅臼をつなぐ知床峠が冬季通行止めだったため、しれとこ旅情誕生の地、羅臼へは翌朝訪れた。 羅臼町は静かな町で、この日道の駅以外で人影を見ることはなかった。歌のとおり、羅臼から北方領土・国後島がくっきりと、とても近い距離で浮かんでいた。 ◆ その夜、ホテルに戻ってからしれとこ旅情が生まれたいきさつについて調べた。 この歌は1960年、当時森繁さんが主演した映画「地の涯に生きるもの」の撮影で訪れた羅臼で、お世話になった村の人たちへの感謝を込めて、この地を去る前夜に作ったものだそうだ(参考: 北海道Style)。慣れない極寒の地での撮影に、羅臼の人たちが尽力したという。 しれとこ旅情に森繁さんは最初「さらばラウスよ」というタイトルを付けたが、ここからも羅臼の人たちへの思いが伝わってくる。 結局、私は白夜どころか日の出さえ見ることなく知床をあとにすることとなった。 森繁さんの「白夜」の解釈に合点のいくできごとがあった。これが実は広く周知されているのか、はたまた私の持論に過ぎないのか、未だ証明できずにいるので仮説としよう。 知床から帰った直後、仕事の〆切が迫り徹夜した日があった。何時間もPCに向かい、肩が凝って首を回すとカーテンの下からうっすら明るい青が射し込んでいる。時計を見ると午前3時15分。驚いてカーテンを引くと、外は既に本を読めるほどに明るかった。 北海道の日の出がとても早いことを、その時初めて知った。首都圏で生まれ育ちアメリカでもいくつもの都市を渡り歩いたが、これほどまでに朝が早くにやってくるところは初めてだ。 そして思ったのだ。森繁さんの映画のクランクアップは7月だったというから、北海道の夏の朝事情を知らずに「白夜」と表現されたのではなかろうか。羅臼の人たちとのお別れに即興で作ったしれとこ旅情にはきっと、森繁さんの無垢な心が見た、蒼白い羅臼の夜明け前が映り込んでいるのだ。 マヌケなだけで終わった「しれとこ旅情・白夜探偵」であったが、一応の答えに出会えた思いで私の追跡は完了した。 森繁さんのあの歌詞から「白夜論争」というのが起こったのだそうだ。森繁さんは白夜を「びゃくや」と読ませたが、本来は「はくや」と言うのだそうだ。これを指摘した国語学者・池田彌三郎氏に対し森繁さんは(どうやら彼とは知り合いだったようであるが)、 「そんならあんたは白虎隊を『ハッコタイ』と読むのかい?」 と返されたという。何というチャーミングなケチのつけ方。森繁さんらしさ全開の押し問答を、その場で聞かれたらどんなに楽しかったろうと、今も時々想像する。 ◆ 結局北海道では白夜を見られることはないことが分かり残念であったが、森繁さんの歌詞には知床(羅臼)への愛がいっぱいに詰まっている。長い長い時を経た今も日本中でこの歌が歌われているのは、的確な描写などではなく、この「愛」が心に響くからだろう。 そもそも詩の世界とは作る人にも自由、読む人にも限りなく自由であるのだから、言葉の使い方が違っても、また描いた景色が真実と異なっていてもよい。むしろ紡いだ言葉で人の心が潤うならば、事実など二の次よ二の次。 ちゃらんぽらんな私などは気にもかけず、今日もしれとこ旅情を熱唱する。 では最後に、森繁さんの歌う「しれとこ旅情」。心が潤います。