Category: Travel
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しれとこ旅情のイノセントな裏切り #1
私は、彼の故・森繁久弥さんが抱擁した数多い女性のひとりである。 と色っぽい話にしたいところであるが、実際には「抱擁」に程遠くむしろ私がかじりついたという方が正しいらしい。しかも当時私はまだ2つかそこらで森繁さんが「あんた(私)よりママの方がいいな」と仰った、という信じるも信じないも私次第の都市伝説が我が家にあるも当時の記憶がないので証明は不可能、あくまでも母の妄想に過ぎないと私は今も思っている。遠い遠い夏の、深夜のちいちゃなできごと。 そんなことより、森繁さんの作られた昭和の名曲「しれとこ旅情」の話である。 子どもの頃からこの歌のゆったりとしたメロディと「遥かクナシリ(国後)に白夜はあける」という幻想的な歌詞の意味を母から聞いてからずっと気に入っており、今も私の「時折口ずさむ歌」トップ10に入ると自信を持って言え、6月に入るなり北海道各地にハマナスが咲き始めると、車中で歌うしれとこ旅情の頻度もぐんと高まる。北海道旅行の際にちょっと歌ってみると「ああなるほど」しれとこ旅情は北海道にぴったりだと思っていただけるはずだ。 知床の岬に はまなすの咲く頃 思い出しておくれ 俺たちのことを のんで騒いで丘にのぼれば 遥かクナシリに 白夜はあける 森繁久弥 記念碑に書かれている短い詩だけでも情景や、この歌の中にいる人たちの心情もしみじみと伝わってくる。こういうのを良い詩と言うんじゃないかしら、と森繁さん贔屓でなくても誰もが思うことだろう。 生まれて初めて知床を訪れたのは3年前の春先、4月。6月に咲くハマナスの季節までにはまだ随分と早かったのだが用事ができたのを機に知床へ行くと決まるや否や、脳裏をよぎる「遥かクナシリに白夜はあける」。 行こう、知床へ。見よう、国後島に明ける白夜を。6月じゃないけど。 ちなみにハマナスであるが、バラ科の植物でマジェンタピンクがとても美しく、秋になると紅い実をつける。ローズヒップである。北海道の花としても知られるが、関東や西は島根県でも見られるのだそうだ。また、皇太子妃雅子さまの御印でもあるという。 2005年7月、知床は世界遺産(自然遺産)に登録された。 知床が世界遺産に選ばれた理由として、絶滅危惧種や希少な生きものが生息・繁殖する地であることなどが挙げられている。 斜里町に入ってしばらく海岸線を走っていくと、丘の斜面に100頭ほどの蝦夷シカが挙って草を食べていた。シカはアメリカにいてもよく見かけるが、これほどの数に一度に出会ったのは初めてで、ああこれが世界遺産かと圧倒されたのだった。 北海道では絶滅危惧種として登録されているオジロワシ。この日雄々しく大空を飛ぶ姿を発見したが、実のところあまりの迫力に腰が抜け、上手くシャッターを切ることができなかった。我が家の車の上を飛んで行ったが、暗い影ができるほどに大きかった。 白夜観測を目的に知床入りするも、海の透明度や自由に遊ぶ動物、人の手が加えられていない豊かな自然に心が奪われ、しばし忘れてしまっていた。 ホテルルームから見る夕陽もいつもよりもっと神聖な気がして、大きな窓一面に広がるオホーツクの景色を1時間、太陽が水平線へ沈むまで眺めた。 翌朝は夜明け前に出発、何とか「遥かクナシリに白夜は明ける」を見るのだ。普段は怠けている神さまへの祈りを就寝前に捧げ、いよいよかと思うと気持ちが高ぶったまま、夜は更けていくのだった。 ・・・はたして私の願いは天に届いたのか。 (つづく)
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月に願いを~Under the Space Window
“Claire de Lune” composed by Claude Debussy, played by Michel Beroff 私は子供の頃、月が天国だと思っていた。誰に教えられたわけでも絵本に書かれていたわけでもない。ただ、そう思っていた。それが就学前に買ってもらった学研の百科事典に月面の写真を見た時の驚愕。夢を壊されたような気持ちを今も忘れない。 これはまったくの余談。 ほんの一時であったが学生時代を過ごしたアメリカの首都ワシントン。学びの多い都市だと訪れるたび思う。私の女子大生時代はまだ治安も悪かったが、今は夜間でなければ安心して歩けるのも嬉しい。 ここは、Washington National Cathedral, ワシントン大聖堂である。 いつ訪れても不思議とこのように青い空の中にありながらこの世のものとは思えない威厳と清らかさをバリアにしている。本当に、いつどう撮っても浮き上がって見え、やはり神様のいる場所であると、プロテスタントの私などは思ってしまうのである。 ワシントン大聖堂は聖公会の教会である。聖公会はカトリックとプロテスタントの中間に位置付けられるとされている。さまざまな宗派の礼拝堂が配置されているところも興味深い。 正面の礼拝堂は一部のアメリカ大統領の就任式や要人の葬儀など、重要な行事を取り行う場所でもある。一面に漂う荘厳な冷気に、罪深い心が洗われていくのを感じる。 思ってもみなかったのであるが、世界に残る最後のゴシック様式建築物としても知られるワシントン大聖堂。そう知ったら余計に石柱やステンドグラスの美しさに心を奪われる。私たちのみならず、周囲の人たちも老若男女みな、無言で辺りを見回していた。 またここは1968年3月31日、マーティン・ルーサー・キング Jr. が翌4月4日にメンフィスで暗殺される前の最後の演説をした場所でもあり、彼のニッチも永遠の平和を得て、穏やかに佇んでいる。彼やマルコムXに関する書物を読むたび、生きる自由と心の安寧が何より幸せであると何度でも思い、この人生に感謝する。 数あるステンドグラスの中で大聖堂の正面を飾る、「ローズ・ウィンドウ」。 1976年に設置された、女王の胸元に光るブローチさながらの華やかなステンドグラスは直径約8m、放射状の模様は創造の持つ威厳と神秘への祝福を表しているのだそうだ。 配色には古代ギリシャのエンペドクレスによる四元素、火を意味する赤、空気のグレー、水はグリーン、そして地球を表すブラウンが主に使われている。 ここで一番好きな窓が 「スペース・ウィンドウ」。アポロ11号で月面着陸を果たした二ール・アームストロング船長はじめバズ・オルドリン並びにマイケル・コリンズの3人が地球に持ち帰った「月の石」である。当時NASAでアポロ11号の任務に当たっていたトーマス・O・ペイン博士によって寄贈された。 この石は彼らが月の「静かの海」から採取したもので、7グラムととても小さい。さらに驚いたことに、この石は36億歳だという。宇宙の何故は知ろうとすればするほど混乱する。 ◆ 私も今では天国が月にないことは分かっている。だいたい人が歩いてしまったのだし。けれど月の石の下に立つと、何故だかどうしても手を合わせたくなる。大好きで大好きで大切にしてもらった、この世で一番の理解者の祖母が天に召された時私はホノルルにおり、別れに立ち会うことができなかったことが今も心残りとなっていて。 だからスペース・ウィンドウに出会ってから、私は必ず祈る。これが最も私に近い月で、こじつけでもそこは祖母のいる天国だと思いたいのだ。優しくてお茶目な祖母のことだ、私が祈れば応えてくれているに違いない。 最後に、このパネルを是非見ていただきたいと思い掲載させていただきました。 「ヘレン・ケラーと彼女の終生の友、アン・サリヴァン・メイシーは、このチャペル裏の地下墓室に埋葬されている」 パネルの上部と下部を見比べて、あなたは何をお感じになられましたか。 Washington National CathedralOfficial Website
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Moments 21: 旭岳600m地点~秋と冬の境
10月下旬、起きると町が白くなっていた朝、ふと山の様子を知りたくなって隣町・東川町の北海道の屋根「旭岳」まで走ってみることにした。我が家から車で50分ほどだ。 北海道の雪は人気のニセコのみならず道北の内陸もまたさらさらのパウダースノーで知られるが、冬の初めはまだ水分を多く含むため、道内テレビ放送局のニュースキャスターは「東京の雪」と紹介していた。 朝は路面も真っ白だったがお昼前にはすっかり溶けていた。雪も降り、今年の紅葉もいよいよ見納めの頃を迎えた。 秋が、もう少し長ければいいのに。 程なく前方に車の雪下ろしをしている男性を発見。上はかなり積もっているもよう。 木々の枝に雪が載って少しずつ冬が見えてくるも、まだ秋と言えなくもない。 ぐんぐん車を走らせていく。そして。 秋と冬の境は、600m地点を超えた辺りにあった。 時折薄日が差すと、この光がまるで雪をふうっと吹きかけ、木々を白く染めていくかに見える。自然でなければつくることのできない美しさ。 新しい季節の入口に立った気分。 「標高800m辺りからぐっと景色が変わるよ」という夫の言葉は確かなのだが、今シーズンは私たちの出足が遅かったようだ。 秋は600mで終わり、800mの辺りはもう12月が来たかのよう。 標高1500m地点、ロープウェイ駅に到着。 小雪の舞い散る駅周辺は-6℃、森は長い冬の眠りに就いた。 日本で一番早く冬の訪れる旭岳。屋根の氷柱もだいぶ伸びて、スキー客を出迎える準備は着々と進んでいる。 私はこれを確認して、さあ、冬から晩秋へと逆戻り。
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カウガールは甘くない:Being a Cowgirl is Hard to Do
“Red Neck Woman” by Gretchen Wilson ある夏、ダラスに住む友人カール、モニカ夫妻をいつものように車で各地を旅しながら10日をかけて訪れた。 テキサスは私たちの宿敵であるが(テキサス恐怖症~Texasphobia参照)学生時代からの仲であるこの二人が私は大好きで、テキサスが近付くにつれファイトモードになりつつも楽しみでならなかった。 広大なテキサスらしい大きな屋敷に滞在中、彼等はカウボーイの町、フォートワース・ストックヤーズ (Fort Worth Stockyards) を案内してくれた。 ここは1866年以降家畜のせり市として名を馳せ、1976年国立指定歴史地域となった町。現在せりは行われておらず、昔らしさもどの程度残っているか定かではないが、カウボーイ・カウガールのパレードやロデオなどウェスタンの世界を満喫できる有名な観光名所である。 道行くリトル・カウガールに目が留まる。こういう風情が日本にもあれば国全体の文化的ブランド力が随分と上がるであろうにと思う。 遠目で申し訳ないのだが、生まれて初めて見るカウガールはキラキラと眩しいほどに美しく、まるで馬を操る生けるBarbieという感じだ。 あ、ほんとにそっくり。 私たちが見たのは彼等の息子が楽しめるファミリー向けのショーで、カウガールのマーチやロデオ、子供の牛追いならぬポニー追いなどほがらかなアトラクションばかりでとても楽しかったのであるが、私の目はとにかくカウガールたちに釘付けで、あることが頭に浮かび最後はショーを見るよりぼや~んと考え事をしていた。 ショーの後、カウガール・ミュージアムを見て廻りながらますますその世界に引き込まれた。そして「私はこれに、2,3日なれないか」というオコガマシイにも程がある図々しい欲が頭をもたげ始め、となったら本能先行型であるので早速館内案内をしていた女性に尋ねてみた。 「カウガールになるには、どうしたらいいの?」 彼女は実に誠実に、私の子供染みた疑問に答えてくれた。 カウガールになる最低条件は、 1.カウボーイ・カウガールとテキサスの歴史を学ぶ 2.これを天職と思えるか何度も自分自身に問いかける 3.カウガールらしい身なりをする 4.何度も牧場を訪れる 5.カウガールの仕事を知る(馬に乗り、牛を追う。家畜の世話など) なるほど「学ぶ」に関しては抵抗はないし、カウガールのアウトフィットはかわいいから文句なし。馬術経験者なので馬に乗るのも問題はない。やりたいことがあれば住む場所などどこでも良いし、テキサスなら敵陣に乗り込むようなものだ、行ってやろうじゃないのってくらいである。けれど威勢の良いのはここまでであった。 2、4、5で私は振り落とされることになる。 問題は、牛だ。 カウガールのカウ (cow)、は「牛」である。ゆえに牛の世話は欠かせない。あああ。 「カウガールになるかどうかは懸命に牧場で牛の世話をしてからの話よ、一日中きれいにしていられるとは冗談にも言えない仕事だから」と言い「彼女たちの服装にしても機能性重視であっておしゃれという認識は半分以下ね」と続けた。 彼女の言葉でテンションは8割方落ちた。 さらに「あ、そういえば」ふと思い出したくもないことを思い返してしまった。9歳の時、キャンプの朝牛舎の2階から干し草を落とす手伝いをしていた際干し草に足を滑らせ、穴から牛の背中目がけて落っこちたことを。その際あの牛舌で頭をベロリと舐められ、以来牛が強いトラウマになったことも。 おまけに重労働を強いられるカウガール、血の滴るようなこんな肉だって食べられなければやっていかれない。しかしこのステーキはもう凡人の許容範囲を優に超えている。 恐るべしテキサス。ムリムリ、私には絶対に無理。第一、書く仕事を諦められるのかというと、やっぱり無理だ。 情けない目で夫を見ると「あたりまえじゃん」と言いた気に口元でせせら笑っている。 無念だ、今回もテキサスに完敗である。カウガールの夢は、奇しくも修行どころか憧れの入口でその日のうちに萎え消えた。 帰路、カウガールになろうという女性たちはどういう夢を持ってその道へ赴くのかずっと考えていた。クールな人生の構築か、歴史・文化継承の担い手か、あるいはファミリービジネスか。結局私のような軟弱な女には想像もつかなかったが、ひとつだけ確実に感じ取ったことが大きな収穫となった。 Being a cowgirl is one big commitment. とてつもなく大きな決断だ。カウボーイ、カウガールには日本の武士道に似たハードボイルドなところがあると思うのだ。生半可な気持ちでは続けることどころか入り込むことさえできない。そして楽しむことは大切であるがそれ以前に、常に冷静に、ひたむきに従事するという固い決意がなければ結実しない生き方なのだというものだ。 この日出会ったカウガールたちもきっと、可憐でプレザントなだけでなく、気骨のある内面を持ちハンサムに生きているんだろうな。 とても適わない。大した取り柄もない我が身をちっぽけだ、不器用だと苦々しく見つめ直すも「彼女たちの気骨を身につけよう」という目標を得て、最後には満たされた気分でフォートワースを後にした。 ◆ 余談であるが、その年の10月、モニカから荷物が届いた。中にはカウガールのコスチュームが入っており、カードには「夢を叶えてね」と書かれてあった。 友の小さな夢を実現させようという温かい友情に思わず衣装を抱きしめた。にもかかわらず最後の「それを着てOTB(場外馬券売り場)へ行かれたら20ドルあげるよ~」というところを読むなり真意を測りきれなくなるケイティであった。…
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September: Freshly-Brewed Santa Fe Morning
“Love Has Fallen on Me” by Rotary Connection サンタ・フェは広いアメリカの中で最も好きな町のひとつ。歴史、文化、風俗。どれをとっても魅力に溢れ、訪れるたび新しい何かを与え、感じさせてくれる。 朝が大好きだ。いや夜遊びレンジャーだからミッドナイトもたまらないが、普段どんなに仕事が忙しくて夜更かしをしても朝はぱっと目が覚めて晴れだろうと雨だろうと、その朝のムードをからだいっぱいに取り込むことにしている。 サンタ・フェの朝は、淹れたてのアイスティーのように爽やかで、そしてコクがある。 特に9月は真夏の暑さが和らいで、朝はもともと涼しい町だが日が高くなっても午前中は清々しい、気がつけば太陽の下を歩いていると言っても過言ではないほどに。都会の公園を歩くのとはまったく違った、ふれあいの多い散歩。これが「コク」の部分。 そしてこの町の朝を歩くと、 “One day in September love came tumbling down on me ~” サイケデリック・ソウルなど歌ってしまう。道路を行き交う車にも道行く人にも慌ただしさなど少しもなく穏やかだが、爽やかな風に心がエナジェティックになるのだろう。 そう、誰かと巡り合って心に恋が生まれた時のような新鮮な驚きや喜びに似ている。 サンタ・フェに来たら朝は必ず散歩をする。当てもなく歩きながらネイティブ・アメリカンのバザーを覗いたり、アートの町にふさわしい色とりどりのハンドメイド雑貨の店に立ち寄るのも私たちの決まり。無造作に飾られたものたちには深い民族性に起因した迫力があり、手に取らずとも心が引き込まれる。 ナバホ族など、ニューメキシコ州はネイティブ・アメリカンの居住地としても知られるが、町には彼等の文化や信仰が息づいており、人の手によって作られたものにも彼等の魂が吹き込まれている。眺めて、触って、身につけて初めて彼等に出会えるような気がする。 そしてカラフルな手作り工芸品はどれも眩しい朝の太陽によく映える。 サンタ・フェを代表する観光スポット、本当は観光スポットなどというフラットな表現はしたくないくらい豊かな芸術に満たされたCanyon Roadは1.7kmにわたるギャラリーストリート。画廊の多くが庭を持ち、ブロンズ彫刻やクラフトアートなどが設えられている。 少しずつ日が高くなってきて9月とは言え「暑いな」と思ったら木陰を選んで歩く。日なたとの気温差も、新しくやってきた秋風もすっきりと心地良い。 街角のレストランでブランチを食べたらしばらく二人で旅の話でもして、午後になったらまた歩く。思い出づくりなんて忘れて、ただひたすらに今日の気分が向かう方へ、またRotary Connection でも歌いながら。
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晩夏、月の沙漠にて~Desert of the Moon
“The Desert of the Moon(月の沙漠)” by Suzanne Hird 少女時代、房総半島の御宿海岸は私にとって「晩夏の庭」、そして「月の沙漠公園」は去ってゆく夏を送るさよならの港であった。 「もう2,3日ここにいようか」父の言葉に期待して私は夏休みの宿題を、プールへ行こうよという友の誘いに揺れながらも御宿のサマーハウスへ行く前に済ませたものだった。 私たち家族の夏のバカンスは毎年比較的長く10日ほどで、父が仕事で戻ることにならない限り2週間滞在することもあった。毎年休みが近くなると、 「御宿に2週間なら2学期からは学校から帰ったら真っ先に宿題をします」 守れもしない祈りをヨコシマな理由で必死に神様へ送っていたことを、今更ではありますがここに告白し、懺悔します。 夏が終わり、2学期が始まるなり私が誓いを破ったのはご想像のとおりである。 御宿町の「月の沙漠公園」には、海岸の一画に物語が立っている。 童謡「月の沙漠」は、詩人で画家の加藤まさを(1897-1977) が1923年 (大正12年) 少女向け雑誌に発表した詩に作曲家佐々木すぐるが曲を付けたもの。 この歌の舞台とされる場所には諸説あるが、加藤が病気療養で滞在していた千葉県夷隅郡御宿町が有力で、のちに御宿町がこの月の沙漠公園を設けると彼自身、御宿を舞台と認めるようになったという話もある。 また「月の沙漠」は一般的に「月の砂漠」(砂)と思われがちであるが、加藤がイメージしたのが御宿の浜であったことから砂浜を意味する「沙」の文字を使ったと言われている。 夏を遊び尽くした人々は御宿を去り、よほど波の高い日でなければサーファー達もそう多く見かけることはなくなって、日が落ちると現実から切り離されたようなあのモニュメントだけがひっそりと立っていた。夜の帳が下り始める頃、くっきりと漆黒に浮かび上がる月の沙漠の王子と妃が好きだった。 まるで国を追われ逃げていくような二人の哀しげな様子が、あの姿を見るたび幼い私の胸を騒がせた。彼等の行く手に何があるのか、最後まで逃げ切れるのかと月の浮かんだ浜辺で、深夜目が覚めた時にもよく思い浮かべた。 弟と私は波打ち際で「月の沙漠」を何度も何度も歌った。幻想的な情景とは裏腹に、描いては波に消されていくケンケンパの輪の中を飛び跳ね、軽快に、笑いながら。 遊び疲れた頃、秋の気配を感じさせる夕暮れ時の空を見上げて弟は、 「涙は出ないけどつらい空だねえ」天の淡いパープルを映したきれいな瞳で言った。 「ああほんとだ、ほんとだね」とつまらない言葉で返したのを覚えている。本当は、弟の大人びたもの言いに驚き、おかしくなったものの笑ってはいけないと唇を固く結んで耐えていた為に適当な言葉が出てこなかったのだ。 5つ違いの私の弟。小さい頃から家族の誰より温かく澄んだ心を持ち、穏やかで絵心があり、詩を好んだ。ベッドタイム、私たちは母の腕にあごをのせて子供向けの楽しい詩集を聴くのが楽しみだった。彼はケタケタとよく笑い、周囲を笑顔にする優しい言葉はいつも、パステルカラーのように柔らかだった。 互いに家族を持った今も、時折二度と戻らない無邪気な時代への愛おしさを心の奥に感じる。彼の脳裏にもこの海が残っていることを願いながら。 旅の終わり、私たちは水際で去りゆく季節に手を振ったが、ずっとここで旅をしている月の沙漠の二人は、この夏も楽しい思い出を持ち帰る多くの人たちを見送ってきたんだろうな。そしてあてもなく沙漠をゆく彼等は、月が空高く上り人気のなくなった海岸で密やかに話すのだろう、 「この海もまた静かになるね。歌でも歌って行くとしようか」 次回”グレーの海と8小節~Gray Ocean & Dim Memory” へつづく… 「月の沙漠」:「こんなに不思議、こんなに哀しい童謡の謎2」合田道人著参照
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時を脱ぐ~Leave the Time Behind
“Crazy You” by Zo! feat. Sy Smith 水平線に紅く大きな太陽がゆっくりと落ちていくのをビーチに座って眺めながら、「今何時かな」「このあとはどこへ行く?」何のあてもなく隣に座る愛しい人と風の吹く方向へ流されていくような、そんな夏を探しに出かけよう、腕時計はデスクに置いて。 アメリカ最古のシーサイド・リゾートは訪れる人の平均年齢が60代?70代?と思えるほどに落ち着いた海辺の町。サーフィンやヨットよりも波打ち際を犬を走らせ散歩する人が似合う、大人の夏を過ごす場所。 ニューヨークの家を朝6時に出発してゆっくりとNew Jersey Turnpike を下って行き、11時前には全米トップ10ビーチにも選ばれたことのあるニュージャージー州最南端、ケープ・メイの美しい浜辺が見えてきた。 「ビクトリアンスタイル・ジンジャーブレッドハウス」が軒を連ね、歴史と異国文化を感じさせるこの風景に誰もが心を奪われる。ヴィンテージの絵本を開いたような美しい街並み。 宿は1867年に建てられたビクトリアンスタイルのB&B。老夫婦の経営で、ハイシーズンだと言うのに一歩足を踏み入れると人影もなく、波の音も聞こえない。遠い昔に来たような、突然知らない国を訪れたような、とても家から4時間の距離とは思えない驚きとせつなさを帯びたディスタンスを覚える。 「この時間は、やっぱりゲストはここにいないのね」オーナーに尋ねると、 「そうね、馬車に乗って街を廻ったりワイナリーに行ったり、ここは見かけよりアトラクションがあるのよ。あなたたちはまだ若いから、自転車でツアーするといいわ」過剰なアクションもなくさらりとした、けれども正直な瞳で語る彼女を私はとても気に入った。ここでの1週間はきっと良い思い出になる。 予約しておいた部屋に通されると時計も、テレビも電話もない。飛び乗らなければ横になれないほど背の高いベッド、広くてゆったりと海を眺められるバルコニー、そして夜風に当たらずとも漆黒の海をいつまでも眺めていられるサンルームのついた贅沢な空間は、私たちを秒針の響かない自由な世界へと連れ出してくれた。 いつしか昼下がり。ランチに出ようと言いながら、バルコニーのチェアに腰を沈めると急にまぶたが重くなって、うたた寝。規則的にやって来る波や馬車馬のポクポクという蹄の音が運ばれ、その心地良さにもうここを動けない。 次に目が覚めたのは首元がひんやりと冷たくなったのを感じた時。日はだいぶ傾いていた。 裏のアートギャラリーやギフトショップを少し見て、明日はゆっくりウィンドーショッピングをしようと決めてから海に戻ってきた。 広い広い砂浜は繊細な白い砂。素足で歩くともうだいぶ冷たい。ロングドライブで今日は疲れたし、二人ビーチに腰を下ろして、手ですくった砂を足先にこぼしながら話をした。 砂の中から、角が取れてまるくなったグラスボトルか何かの破片を見つけた。手に取ると、直径1cmほどの小さい石のような、涙のかたまりのようなもの。そこに通りかかった老人が手のひらの破片を見て言った。 「よかったね、Cape May ダイアモンドだ」 この町では、海を旅して戻ってきたまるいガラスの欠片をこう呼んだ。 人気もまばらになったビーチにもうすぐ日が落ちる。 淡いイエローの大きな太陽は大西洋の空気をたっぷり含んで潤んで見えた。周囲を黄金色に、オレンジ色に、やがて群青が差し始める空は色彩で時を刻み、それを見届けた人々は宿へ、バーへと散って行った。 「今何時ごろかな」「まだトワイライトアワーではないね」 そもそもtwilight hour とは何時から何時を指すのだろう、dusk とはどの程度暗くなるまでを言うのだろう。普段なら大して面白いと思えることでもないこんな話も、分刻みの暮らしを脱ぎ捨てると興味深く感じられてくる。 日本語でdusk は「薄暮(はくぼ)」と言うことを、ニューヨークに戻ってから調べて知った。情景が目の前に広がるような、良い言葉だ。 そうして海から寄せるやや強い風は私たちをコテージへと帰らせた。 「ディナーは軽く飲みながら」。シャワーを浴びて、夏の夜風をよく通すインド綿のドレスに、彼はリネンのボタンダウンに着替えると再び外に出た。 午後6時55分。この町の小さなアーケードで今日初めて時計を見る。 腕時計を外して初めて分かった。私たちは、ベッドに入る時間さえも時に支配されていたことを。仕事をするようになってから、「眠いな、そろそろ寝よう」を理由に寝室に入ったことなど一度もなくなっていた。余裕。この言葉さえ忘れそうだった。 そう彼に伝えると「どうやら野生に目覚めてしまったようだな」と笑った。なるほど、それもおもしろい。これからは本能に任せて生きてみるとしようか。 さし当たって明日、海が朝日に輝き始める頃、海岸線の長い道のりを思いのままにどこまでも自転車で走ろう。 CapeMay.com
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Moments 14: ひまわり経典~from Sunflower Sutra
“We’re all golden sunflowers inside.” – from “Sunflower Sutra” by Allen Ginsberg 年に1度、8月に必ず訪れる大好きな場所がある。北海道雨竜郡北竜町「ひまわりの里」。23.1ヘクタールの畑に150万本ものひまわりが植えられており、地元はじめ国内外の観光客の笑顔を美しいゴールデンイエローに照らしている。 100円以上の支援金を寄付すると、ここで採れたひまわりの種をもらえる。これを家に、町に、国に持ち帰って植えれば北竜のひまわりが世界中で花開く。旅の思い出が毎年夏が来るたび庭に咲く。何と素敵な夢だろう。 ◆ アメリカの詩人、アーレン・ギンズバーグが “On the Road” の著者ジャック・ケルアックに捧げたと言われる “Sunflower Sutra(サンフラワー・スートラ)” の一節で「私たちはみな黄金のひまわりだ(心に黄金のひまわりを咲かせている)」と謳っている。 「内なる己」をテーマとした叙情歌の中で彼は、世知辛い現代社会に生きる私たちに「君たちは、自分が黄金色のひまわりだと言うことを忘れてしまったのか」と問いかけ、また「君たちはひまわりなのだ」と諭している。150万本のひまわりが夏風に揺れるのを眺めながらこの詩を思い出しては帰り際、口元に笑みが浮かび心の凝りがほぐれていることに気づく。 終戦記念日が近い。戦争を知らない私たち一般人にできる最もシンプルで優しい平和活動は、今あるたったひとつの命を大切に、一度きりの人生を使いきるべく楽しみ、誰かの微笑みを壊すことなく心にひまわりを咲かせ、枯らせないように水を与えて穏やかに生きていくこと。こんなことでよいのではなかろうか。 「きれいごと」と言われてしまうだろうか。 1.5 million stems of sunflowers at “Himawari no Sato/Sunflower Village” in Hokuryu Town, Hokkaido 北竜町ひまわりの里公式サイト
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Moments 13: Whatcha Lookin’ At?
近くに住みながらほぼ2年ぶりだった旭山動物園。子供のみならず大人も夢中になれるワンダーランドである。 子供の頃、私はあまり動物園が好きではなかった。自然の中にある動物たちの姿は物語で想像するのが好きだったし、ケージの中の動物はまったく囚われの身でありとても幸せそうに見えなかず幼いながらむごいことをする「人」であることを恥じたりした。 けれど旭山動物園は違う。動物たちが自ら「こんな風にしてくれるなら動物園暮らししてもいいよ」と言ってくれそうな造りでのびのびして見える。 特に嬉しいのはカバの百吉である。 優しい瞳と大きなプールの中をぐるぐるぐるぐると泳ぎ回る姿はコミカルで愛らしく、人の目が感じ取るのだから実際には分からないが、とても楽しそうに見える。さすが旭山動物園のアイドルだと肯ける。ただあまりの速さに撮影が難しい。 「そうかあ、カバはこんなに速く泳げるんだ」「どうしてぐるぐる回ってるんだろう」巨大なプールの底から百吉の様子を見られるようになっており、数組の親子連れが素直な疑問を百吉に向かって投げかけていた。 百吉に限らず、シロクマやアザラシ、観光客の頭上に架かった木の橋を渡るレッサーパンダなど(この日はどの動物も暑さ負けしておとなしかったが)ほんの少しではあるが生態を学ぶことができるのも旭山動物園の素晴らしいところだ。 キリンは同じ目の高さで眺めることができる。美しい容姿と優雅な散歩はいつまででも見ていられる。穏やかな眼差しは不穏な今の世を憂いているように見えてしかたない。申し訳ない気がしてしまう。 ◆ 動物園には当然ながら肉食の生き物がおり、その姿に野生を垣間見た瞬間檻の中とは言え肩の辺りの筋肉が硬直することがある。これも大切な経験だなと思う。 ふっくらした後ろ姿がかわいらしく、子供たちが目の前で「こっち向いて~」と懇願していたのは「ワシミミズク」。大きさは70~80cmほどあるだろうか。とても大きな印象。 子供に混ざって私も言ってみる、「お願い、こっち向いて~」すると。 「うるさいなあ、何見てんのさ?」 ワシミミズクはじっと動かず、けれど視線も私から外さない。しばし睨み合ってみるも、この威圧感と人間特有のドライアイで私の完敗である。 因みにワシミミズクは、北海道では絶滅危惧種、全国では絶滅危惧IA類に指定されている。 耳の垂れた白ウサギかアンゴラか。虚ろな目とまるいシルエットがかわいい。女性や子供はこの横顔に「おうちに連れて帰りたい」と思ってしまうほど。 「シロフクロウ」日本では北海道でのみ見られる希少種で、全長60cm程度と『北海道新聞社編・改訂版 北海道の野鳥』に書かれている。 次の瞬間こちらに振り向くと。 Harry Potterに出てくるアレに似ている。しかし鳥がここまで強面とは。 「何見てんだコラ」こんな感じで一瞥をくれる。 が、不思議なもので、子供たちがじっと眺めて声を掛けてもこうは恐ろしい顔をしない。混じり気のない子供の心と生きものとの間に神様は双方の距離に関係のない「ふれあい」を与えたのではないかと思えてくる。 残念ながら私の心は余計なものが混入しまくっており、相手にもしてもらえなかった。 ◆ この動物園で私が最も気になり、また気に入っているのがオオカミ舎。アメリカやカナダからの亜種オオカミが数頭いるのであるが、檻を隔てた別世界同士の緊張感がいい。そして冗談にも「かわいい」なんて言えない瞳も、人間を嘲笑するような口元も、本来は厳しい野生の世界で強く生きる道具であることを私たちに知らしめているようで、じっと見つめていると学ぶべきことがたくさんあるなと思わされる。 この日は気温29℃、本州に比べれば笑われそうであるものの暑さに弱い道民にとっては酷暑と言えるほどで、日のまだ高いうちはオオカミたちも岩山の中ほどにぐったりとしていた。 そこで安心してカメラを向けてみる愚か者。ド近眼の私にはデジカメの液晶パネルに映るオオカミの表情を見て取ることができず、クリアに撮れているかボケているかも確認しないまま「まあこんなものだろう」で何度かシャッターを切った。 「よく撮れてるかな~?」能天気にカメラを構え、一緒に園内を回った友人には「上手く写ってたらメイルで送るね」などと調子のよいことを言った。 その夜、遅く帰ってきてから早速PCに画像を落としてみた途端、身体が固まった。 こわい。まさか、私を餌だと思ってはいまいか。 このオオカミは私が彼等の檻の前にいた数分間、ずっと私を見ていた。私の動きを観察しながら襲いかかるタイミングを見計らっていたのではなかろうか。 この眼差しに「一線を超えてはならない」という警告を感じた。人が人の常識で彼等と交わろうなどという驕りを持ってはならぬということだ。 ◆ この日、殆どの動物が水辺や日陰を選んでじっとしていた。彼等の様子や海へ溶け落ちるアラスカの氷山などテレビに映し出される地球温暖化の現実を見るたび、今すぐこの星全体の緑化を急がねばという焦燥感に駆られる。そろそろ世界全体が、スローライフを心掛けていくわけにはいかないだろうか。何を甘いこと言ってるの、という声にも負けずに言うぞ、「地球にもっともっともーっと緑を」。 ◆ この夜私は夢を見て、深夜に妙チクリンな叫び声を上げ横ですやすやと眠る夫を起こした。昼間のオオカミが、30mもある檻(夢だから)の向こうから私めがけて突進してくるのだ。咄嗟に応戦を思いつくも、手にはいつも春秋に使うセリーヌのハンドバッグしか持っておらず、この期に及んで「ええ~、バッグがだめになっちゃう」と悩んでいる始末。当然ながら目が覚めるなりつくづく物欲を捨てられぬ自分を情けなく思ったのだった。
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Moments 12: NOLAholic Amnesia
“Tipitina” by Professor Longhair 恥ずかしげもなく言ってしまうが、ニューオーリーンズに滞在中しらふでいる時間はおそらく殆どない。朝はさすがにミネラルウォーターやアイスティーで始めるものの、日中35℃を超える炎天下、20分散歩してはバーに入って冷たいベリーニを飲み干し、また15分歩いては別のバーに吸い込まれ、今では言葉にしにくくなったがキンキンに冷えた「ハリケーン」を頼む。酔いと頭痛とファジーな記憶は私の「ニューオーリンズ3大症状」である。 その日も午前中から飲み始め、午後になると身体を突きぬけるほどに強い日差しと頭痛に意識が薄れてホテルに帰り、エアコンをMAXにして昼寝をすると、次に寒くて目が覚めたのは午前1時前。この町はここから始まる。そろそろ起きるか。 夜が更けるにつれ、片手にビアやカクテルの入ったプラスティックカップを持ち大声で会話する人たちが通りを埋め尽くしていく。 熱いシャワーを浴びても酔いが醒めた感覚はない。のどが渇き空腹も感じて、私以上に苦しんだ夫と二人、「今夜は止めておくか」と一夜の酒断ちを決意してホテルを出たはずなのに、夜空の星もかすむ通りのネオンを目にするなり記憶の彼方へと飛んでいく。 「おなかすいたね」どちらからともなく言って、さして気に入ったわけでもない小さなバーのエントランスをくぐる。 カウンターのストゥールに座ると、バーボンソーダとガンボを注文して奥でコピーバンドの演奏するプロフェッサー・ロングヘアーに耳を傾けた。 今夜も朝まで飲む。私たちはおそらく「ニューオーリーンズ性健忘症」だ。
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旭川のいなせな夏。永山屯田まつり2017
日本各地、夏祭り真っ盛り。北海道も毎週末どこかしらで花火大会同様大小さまざまな夏祭りが開催されている。 旭川も、来月3~5日の「旭川夏まつり」に先駆けて29、30日と「永山屯田まつり」が開かれた。毎年最も楽しみにしているイベントのひとつだ。 旭川夏まつりには規模も内容も到底かないっこないわけだが、こんなに粋でカッコイイ祭りはないと、おそらく殆どの地元住民が思っているに違いない。私などは5月になり、風が柔らかくなり始め窓を開けられるようになると夜毎聞こえるお囃子の練習に早くもソワソワし始める。 永山屯田まつりは今回が31回目。旭川が発展するにつれ住民のライフスタイルが変わると地域のコミュニケーションが希薄になった。これを憂いた市民委員会、商業団体、農業団体が住民のための「手作りの祭り」をつくろうと1984年に誕生させたのがこの祭りと言う。 祭りを最高に盛り上げるのは30~40に及ぶとも言われる山車のパレード「屯山(みやま)あんどん流し」だ。当日夕方になると、これを見る為に近隣住民は沿道に集まる。デッキチェアをセットしたり、中には家の玄関先でジンギスカンパーティー(地元では「ジンパ」と呼ぶ)をしながら楽しむ人たちもいる。 静かな住宅街での催しものであるため道路もそう広くはなく、行燈は少しずつ間隔を置いてゆっくりと通り過ぎていく。お囃子と掛け声に、小さな子供は一緒に叫び、踊る。子供の声、人々の笑顔、歓喜の踊り。ここには平和が凝縮されているなとつくづく思う。 あんどん流しの主役は、道内最大級の和太鼓「永山屯田太鼓」。サラシを巻いたうら若き乙女が2人1組で意外にも淡々と打ち鳴らす姿は圧巻、そして何ともいなせだ。「いなせ」という言葉は主に江戸っ子の男性に対して使うものらしいが、なんのなんの、旭川の女たちの雄姿こそ「いなせ」という言葉がぴったりである。 あ、もちろん男性陣も。荒々しく逞しい姿は祭りの花だ。 あんどん流しのアイドル、とは私が勝手に言っているだけであるが、毎年楽しみにしている旭川農業高校の行燈。目が赤く光り、首が動いたり口から煙を吐くこともある。 躍動感のあるとても美しい行燈。この高校は生産物の販売など、地域への貢献度も高い。 こんなアクロバティックな行燈もある。2時間にわたる屯山あんどん流しはずっと立って見ていても飽きることもなく、気分が高潮しているから疲れも感じない。あとになって「こ、腰が・・・」ということにはなるのだが。 後先になったが、あんどん流しのトップを切ったのは永山小学校。見ていてとても微笑ましく、掛け声もかわいい。 交差する行燈に沿道の観客の心も躍る。こうして行燈は行き過ぎ、最後は「おまつり広場」に集結して最後の盛り上がりを見せ、フィナーレを迎える。 おまつり広場では、すべての行燈が輪になるように集まり、しばしそれぞれに乱舞する。訪れた私たちも大きな掛け声に続き、屯田まつりの最後を共に飾る。 今年は2日間天候に恵まれ、涼しさも助けになったか夜にも関わらず多くの地元住民や観光客で大いに賑わった。やはりとてもよい祭りだ。私はそのうちニューヨークへ帰っていく身であるが、屯田まつりのあとは必ず「老後もここにいようか」と考える。冬の寒さは厳しくとも、穏やかに楽しく暮らせる旭川が好きで好きでたまらない。 ◆ 夜が更けて今、東の窓からひんやりとした風が舞い込んだ。誰もが感じる祭りのあとの寂寥感がせつなくもあり、心地良くもある。 こうして無事に屯田まつりが終わり、来週の夏祭りが終わりお盆が明けるころ、道北旭川には秋風が吹き始める。
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The Cobaltest Blue ~ サンタ・フェの青い空
“Pretty World” by Sergio Mendes & Brazil ’66 ニューメキシコ州サンタ・フェは私が最も好きな町のひとつ。訪れるたびに思うのが「なぜこの町の空はここまでコバルトブルーなのか」。 全米多くの町を旅してきたが、一瞬2次元に入り込んでしまったのではないかと思うほどに絵画のような美しさで、気が付くと空を見上げている。一日の終わりに首が痛いなと思うのはおそらくこれが原因だ。 ネイティブ・アメリカンの伝説が多く残るニューメキシコ。彼等が「地球を包む美しき青空」を象徴し聖なる神の石として珍重してきたターコイズ、ジュエリーや窓枠のペイントなどに使われているのを見かけるが、ここを訪れたら実際の空の色も忘れずに眺めてほしい。 どこまでも青の美しい町なのだ。 サンタ・フェのキャニオン・ロードは長さ1.5kmの1本道に200以上のギャラリーやアート・スタジオが軒を連ねアートの聖地としても知られるが、その道を歩きながら両手でフレームをかたどりその中に空と家々を収めてみると、美しい絵画の完成だ。 散歩をしながら自然の芸術を楽しめるのもこの町が誇る特徴のひとつ。 ここに載せた写真はすべて、別の日に撮影したものだ。朝を選んでいることもあるが、遠く宇宙まで突き抜けるような青は奥深く、無限、永遠を感じさせる。 乾いた風を受けて空を眺め立ち尽くしていると、その壮大さに目眩すら覚える。 ここに暮らす人々はきっと、毎日朝が訪れるのを楽しみにしていることだろう。カーテンを開いて、真っ先に目に入る青空はその日一日の完璧なスターターになるはずだ。 サンタ・フェの青空は、世界一のコバルトブルー。The cobaltest blueである。