Tag: Biei Hokkaido
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Cyanner Than Turquoise: Triple Crown of Hokkaido Blue
“A Shade of Blue” by Incognito feat. Maysa Leak 広い広い北海道には、ただ言葉もなく立ち尽くし溜息ばかりついてしまうような美しい場所がたくさんがある。が、その中でもこの世なのか天国なのか、一瞬混乱してしまうほどの美を競うのが水の青さだ。 北海道に来てほんの数年ではあるが、この地が好きで好きでたまらない理由のひとつが「ターコイズ以上にシアンな青」、ターコイズよりもっとシアンのようなきらめきを持った青い水辺である。 美瑛町の「青い池 / Blue Pond」はウィンドウズの壁紙で世界中に認知されたが、私はこの青を実際に見るまではそう大して信じてはいなかった。あまりにも鮮やかなシアンブルーは人工的に見えてしまうためだったかもしれない。けれど生まれて初めて見る青い池は、人工的なのではなくただ神秘的なのだった。 実はここ、人工池なのだそうだ。が、水自体に着色しているわけではもちろんなく、近くの白金温泉上流から流れてくる水のアルミニウムと美瑛川の水が混ざることによってできたコロイド粒子が陽光に反射してこのような青に見えるというが、私にはちんぷんかんぷんなので、美瑛の女神がここで髪を洗うと水がシアンブルーに染まる、くらいに想像したい。 駐車場に車を止めたら奥へ奥へと歩いて行き、木々をかき分けるように進むと、この池はまるで秘密の楽園。誰も見ていない時、美瑛の女神がこっそり髪を洗いに来る、とやはり私は思いたい。 青い池に程近い白髭の滝を見ようと白金温泉の橋の真ん中に立つと、美瑛川の水も青い池のように色鮮やかな青で夏の間は深い緑が添えられて何とも言えず涼しげだ。そして自然も、そして観光も休息する冬場の凍りついた姿も実に美しい。 世界2位の透明度を誇る摩周湖の伏流水から成ると言われている清里町(きよさと)の「神の子池 / Pond of God’s Child」。鬱蒼とした森の中にひっそりと息づくこの池はどこかミステリアスで、コロボックルの神話などあるのではないかと思えてくる。 1周220mの小さな池で深さ5m、底が見えるほど透き通っている。水温は通年8℃で、池の中に横たわる倒木は腐敗することもなくずっと眠っていると言う。 私が訪れた日はあいにくの空模様で輝くようなターコイズブルーに鉛色を少し混ぜたような色であるが、それでも透明度は変わらず、すぐ目の前で眺めながらも近寄りがたい雰囲気を見る人に与えていた。 ちなみに摩周湖の透明度は25.5mなのだそうだ。「霧の摩周湖」という歌があるくらいでなるほどすぐに霧がかかってしまう為なかなかクリアな摩周湖に出会えず、真上からじっくり湖底を覗いてみたいという衝動に駆られる。 日本では北海道でのみ見ることのできるオショロコマは絶滅危惧II類にリストされており、ここ神の子池で静かにゆったりと泳ぐ姿はまさに、神に選ばれた存在であると誰もが思うことだろう。 北海道3大ブルーと言われるのは美瑛町の「青い池」、弟子屈町(てしかが)の「摩周湖」、そしてこの、積丹半島(しゃこたん)の海。「積丹ブルー / Shakotan Blue」と呼ばれている。 お天気の良い日に当たれば神威岬(かむいみさき)に立ち寄り積丹ブルーを眺めていると、なぜだか世界中の海を手にしたような、ちょっと王様な気分になる。 ハワイに長く住み美しい海と戯れてきた私であるが、積丹ブルーの、神秘的な青のグラデーションは初めて見るもので、ハワイの海が親しみやすいものだとしたら、積丹ブルーは背筋を伸ばして笑顔を投げかけたい、そんな存在感を持っている。 積丹ブルーのすぐ近くには、実は「泊原発(とまりげんぱつ)」がある。函館や松前への旅を終えて小樽へ向けて走る途中に泊村を通るが、そのたび胸騒ぎがしてかなわない。 どうかどうか、積丹ブルーが永遠でありますように。この海の美しさが北海道にとって日本にとってどれだけ大切かを、私たちは決して忘れてはいけない。一度失った自然は、そう簡単には戻らないのだもの。 all photos & video by Katie Campbell / F.G.S.W.
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Simple Pleasures – Welcome to the Patchwork Hills
“Simple Pleasures” by Basia 6月も中旬になって黄土色の畑に緑の面積が増えてくると、私の「美瑛・富良野」シーズンが始まる。 家から美瑛町までは車で40分ほどであるが、用もないのに毎週末必ず足を運んでは決まったルートを走り、微妙な季節の動きなど感じるのを楽しみに早朝から出かける。 美瑛の丘は畑が多く、作物が育つ季節には緑のグラデーションと土色でパッチワークのように見えることから「パッチワークの丘」と呼ばれるようになった。 純白一色の雪の美瑛も大好きだが、今頃から8月にかけてここに来ると心だけでなく身体も健康になって帰れるような気持ちになるから不思議だ。 パッチワークの丘を巡るなら、朝早くからがいい。十勝連峰に雲海がたなびき、朝露に濡れたみずみずしい緑の香りがすがすがしく、おいしい。 ゆっくりと2,3度、大きく深呼吸をすると、遠くからカッコーの声が響いてくる。 やがて夏の朝特有の霞みが切れ、青い空と強い光の太陽が顔を出すと、丘の風景も目を覚ましたように活気づく。 北海道に来て好きになったもののひとつが青麦畑だ。 西から東へと通りゆく風に引かれるように一面の青麦が波打つさまは、地上の海原。6,7月の北海道は1年で最も気候の良い時で、カラッと晴れた休日などは、青麦畑の前に車を止めてひんやりと冷たい風を受けながら、この光景を何時間でも見ていられる。 パッチワークの丘を巡る「パッチワークの路」上にひとり立っている「クリスマスツリーの木」。美瑛には名前のついた木が多くある。テレビCMに登場した木やパッケージのイラストになった木などさまざまであるが、これだけは個人的に違うなあと、実は見るたび思う。 私だったらこれ、ちょっと長いが「不二家のパラソルチョコレートの木」と名付ける。閉じたパラソルをチョコレートケーキに立ててあるような、そんな風に見えるのだ。 因みに我が家ではこの木とは違う、やはり美瑛の丘に聳え立つもみの木をクリスマスツリーと呼んでいる。一面の銀世界に建つこの木はまさに神に選ばれたクリスマスツリーだが、夏の佇まいもとても爽やかで美しい。古い友達のようにフレンドリーだとも思う。 冬にこの木を見るたび夫は「ライトアップしないともったいないよな」と言う。そのくらいクリスマスで、そのくらい魅力的。私も近くを通る時は挨拶をするようにしている。 昔ハワイのある占い師から「木は人の声が聞こえるから悪口を言ってはダメだ」と聞かされて以来、気に入った木を見つけた時や森を歩いている間、木々に挨拶をしている。彼女曰く「優しい言葉を掛けると、気分を良くしたその木が幸せのエッセンスを降らせる」のだそうだ。 幸田文が随筆「木」の中で、8月のひのきを見ると「活気があふれ」「意欲的に生きている」「もし木がしゃべりだすとしたら、こんな時なのではなかろうか」と書いているが、確かに夏の木にはエナジーとふくよかな心、誇りさえ感じる。 そして木々と話をしながら、何か命あるもの同士のつながりも感じさせてくれていることにも気付く。 美瑛の名物とも言える赤い屋根の家は現在は使われていないが、プロアマ問わずフォトグラファーに人気の建物となっており、フォトジェニックな美瑛の代表的な存在として生き続ける為にメンテナンスが施されているという。 滑らかなパッチワークのうねりは作物の刈り入れまで私たちの心を躍らせ、また安らぎも与えてくれる。 人は手を伸ばせばすぐそこにある幸運を見失いがちになるが、どこまでも広いこの丘に立ってみると分かる、自然に囲まれて暮らす “simple pleasures(ささやかな喜び)”こそが望むべき幸せなのだということが。 all photos by Katie Campbell / F.G.S.W.
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Sanctuary Named “God of the Forest” (森の神様)
“Fall In” music by Esperanza Spalding 北海道にもようやく春が訪れて、と言っても日中まだまだ15度に満たない日も多いのでジャケットやストールが必要な日も多いのであるが、それでも日差しの明るい晴れの日には森だけでなく街中の緑もどんどん育ち、人の目にも心にも活力を与えてくれるようになった。そんなとき、日々色濃くなっていく木々の葉に命の強さを感じる。 パワースポットというカルチャーワードを私は日本に来て初めて知ったが、まさに命に力を与えてくれる場所だと言う。信仰を持つ人にとっては勿論聖地と呼ばれる「神聖な場所」が実際に存在するが、信仰を持たない人にとってのサンクチュアリーは心にエナジーと安らぎを与える場所であり、自然と心が赴くのもまた信仰のひとつなのかなと思ったりもする。 もうだいぶ前のことだが、私が愛して止まない隣町、東川町の小さな骨董品店に立ち寄った折、首振りのかわいいキタキツネの置きものに目が留まり「ニューヨークに帰る時のお土産になりそう」と夫と同時に肯いて手に取るなり「紅茶でもどう?」と勧めてくれた店主さんの言葉のままに座り込んでお茶をいただいていると、私たちが選んだキタキツネは「オンコの木」でできていると言われ「初めて聞く名前です」と答えるとイチイ(またはアララギ)という種類でオンコという名は北海道や東北で呼ばれるのだと教えてくれた。 それから神話を織り交ぜながら木々に纏わるさまざまな話を聞かせてくれた中で「森の神様はカツラの木で」の「カツラ」ではなく「森の神様」という言葉に私の好奇心アンテナがトゥルトゥルと両耳から立ち上った。その店に行ったのはクリスマスの頃で道北はすっぽりと純白のパウダースノーに覆われており、森の神様には春から秋でないと会えないのだと言われて(雪が深い為森の中に入れないというだけ)ひたすら次の春が訪れるのを、デスクの前に「森の神様に会いに行く」と書いて待った。 森の神様は、私の家から程近い美瑛町の、何でもない深い深い森の中に、いる。東川町から天人峡までは道道213号線一本道なのだが、森の神様は経済効果をもたらすような観光スポットではないので大きなゲートやましてや売店などあるはずもなく、道路沿いに「森の神様まで400m」の看板があるものの北海道生活5年目にもなる私はこれを頼りに辿り着けたことがまだ一度もない。必ず通り過ぎては戻ることになる。 そうして2キロほども行き過ぎてからUターンし、ゆっくり左側を注視しながら戻っていくと、小さな立て札が見えてくる「森の神様」とだけ書かれた立て札が。 213号線から車で林道に入るとしばらくして行き止まり。その奥に森の神様が鎮座している。 北海道森林管理局の公式発表によると、この木は推定樹齢900年、幹の周りは11メートル以上、高さは31メートルにも及ぶという。 神様だ、と誰もが思うのではなかろうか。周囲には無数の木々が立つもそれらがまるでこのカツラの巨木を崇めるかのように少し距離を置き、守るかのように囲って立ち並んでいる。1本の大木ではなく数本が天高く伸びている様子は何か物語が潜んでいるようにも見え、威厳というよりも凛としている、の方がこの木にはよく似合う。 道道を走る車の音が聞こえないのは鬱蒼としている森のためか、それとも人間には見えない神秘のヴェールがこの場所を包んでいるからなのか、森の神様の袂に立ち、聞こえてくるのは風と、さやさやという木の葉の触れ合う音、そして時折微かに響いてくる鳥のさえずりだけだ。 森の神様の前に立ったら、まず下から上へ向かって眺めてみる。右へ左へと伸びている枝はしなやかな女性の腕にも似て、訪れた私たちを優しく迎え入れてくれているようだ。角度によって違って見える森の神様、ゆっくりぐるりとひと回りしてみるとその大きさに驚き、900年もの間どれだけの生きものたちを見守ってきたのだろうと思う。 ここに来て必ず気付く。大地から頭の先へ向かって何かが辿り上がって来、実際に吹いている風とは違う清々しい気がまっすぐ胸に入り込んでくる感覚。いい気持ちだ。 ここでの深呼吸は森の神様を仰ぎながら、降り注ぐ生命の粒とそこに湛えた閑けさをいただくようにするのがいい。いつもとは違う穏やかな気持ちで帰れるはずだ。それからそうっとその体に触れてみるといい。疲れた心を癒し、浄化してくれるはずだ。そして話をしてみるといい。何かよいことを、幸せな生き方のヒントを教えてくれるはずだ。 カツラには香りがあるのだそうで、森の神様に近付いていくといい香りがすると言う。これを感じられるようになるにはまだまだ森を歩く必要がありそうだがひとつだけ確信したのは、この木が私にとって初めての、心のサンクチュアリーになったということだ。 美瑛や富良野、旭川の観光名所巡りに疲れた頃には半日時間をとってほんのひととき森の神様と過ごしてみるといい。北海道の美しさをまたひとつお土産にできるだろう。 「森の神様」というソフトな名前もいいものだなと思ったら、これは1998年に美瑛町の小学生たちが命名したのだそうだ。森の神様もきっと、子供たちの清らかな心によってつけられた自身の名を気に入っているに違いない。 北海道森林管理局「美瑛・森の神様」 美瑛町ホームページ 「ようこそ東川」ホームページ all photos by Katie Campbell / F.G.S.W.